ショックを通り越して、
言葉さえ失うほどの出来事を知ったのは――。
それから、そう先のことではなかった。
その夜も『クラブ結』は、いつものように賑わっていた。
カウンターでは愛がグラスを洗い、女性たちの笑い声が店内に響いている。
美月も、いつものようにお客様の席を回っていた。
そんな時だった。
『ママも寛容だね』
斉藤が、何気ない口調で言った。
『え? 何のこと?』
美月には、何のことなのか分からなかった。
『蓉子ちゃんと奈津子ちゃんのことさ』
『あの2人がどうしたの?』
『えっ? ママ、知らないの?』
斉藤は不思議そうな顔をすると、バッグの中から一枚の封筒を取り出した。
『これ、見てよ』
『え?』
美月は差し出された封筒を受け取った。
そこには、見覚えのある2人の名前が並んでいた。
――蓉子。
そして。
――奈津子。
『これは……』
美月の指が止まった。
『そうだよ。あの2人がお店を出したのさ。ほら、連名になっているだろう?』
『うそ……』
それだけ言うのが精一杯だった。
頭の中が、一瞬真っ白になった。
蓉子が店を任されるという話は聞いていた。
だから、いつかどこかでママになるのだろうとは思っていた。
けれど――。
奈津子と一緒だったとは。
そんなことは、一度も聞いていない。
『ママ、本当に知らなかったのか?』
斉藤の声が聞こえる。
だが、美月にはその声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
『なんてやつらだよ。ママにあれだけ世話になっていながら、案内状の一枚も寄こさないなんて』
『……』
『世の中には礼儀ってもんがあるだろう。俺は、そんな店には行くつもりないよ。ママ、安心しな』
古くから『結』に通ってくれている斉藤だった。
美月のことも、店のことも、ずっと見てきた。
だからこそ、余計に腹が立ったのだろう。
『ママ! 聞いてるのか?』
『あっ……ごめんなさい』
美月は、ようやく顔を上げた。
『私、ちょっとショックで……』
『そうだよな。二人とも、ママに何も言わずに辞めたのか?』
『いえ……蓉ちゃんは、お店を任されるって話は聞いていたの』
美月は、案内状を見つめたまま言った。
『でも……まさか奈津子と一緒だなんて』
『そんなの聞いてなかったのか?』
美月は黙って頷いた。
『酷い話だよ、まったく』
『そんなやつらの店なんか続くもんか』
斉藤はそう言った。
『少なくとも、お世話になったママのところには、最初に挨拶くらいするもんだろう。それを俺から聞くなんて……ママの立場も何もあったもんじゃない』
その言葉を聞いた瞬間だった。
美月の目から、涙がこぼれた。
『いいの……』
『え?』
『私がいけなかったのよ』
美月は小さな声で言った。
『そんなことも、ちゃんと教えてあげられなかったんだもの』
涙は、止まらなかった。
怒っているのか。
悲しいのか。
裏切られたと思っているのか。
自分でも、もう分からなかった。
『泣くなよ、ママ』
『ごめんなさい……』
『おい、しっかりしろよ』
『愛ちゃん……ここ、お願い』
そう言うと、美月は足早にお化粧室へ向かった。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。
こんなことで泣くなんて。
自分でも情けないと思った。
けれど――。
蓉子と奈津子。
2人の名前が並んだ案内状が、頭から離れなかった。
蓉子1人だったなら、美月はそこまで気にしなかったかもしれない。
銀座に来て、まだ1年ほど。
確かに美人ではあった。
けれど、アルバイト情報誌を見て銀座の世界に飛び込んできた、いわば初心者だった。
お客様をたくさん持っていたわけでもない。
『結』という一軒の店しか知らない。
そんな蓉子が、いきなり一軒の店を任されても――。
銀座は、そんなに甘い世界ではない。
そう思っていた。
むしろ心のどこかで、
そう簡単には続かないだろう。
そんなふうに思っていたのかもしれない。
だが――。
そこに奈津子がいるとなれば、話はまったく違ってくる。
奈津子には、お客様がいた。
経験もあった。
そして何より、彼女には人を惹きつける力があった。
奈津子が1人いるだけで、店の空気が変わる。
『結』で、それを誰よりも見てきたのは美月だった。
2人が一緒になればどうなるのか。
考えたくなくても、答えは見えていた。
『結』のお客様が流れるかもしれない。
いや――。
流れる可能性は、十分にあった。
美月はゆっくりと涙を拭いた。
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
蓉子の独立は、もう美月の中では過ぎた話だった。
けれど今、初めて分かった。
あの2人が作った店は、
ただの新しい店ではない。
『クラブ結』にとって、初めて現れた脅威だった。
そして美月はまだ知らなかった。
美月のもう一つの月『club LUNA』――
Club LUNAが、これから自分の人生にまったく別の出来事を運んでくることを。