トレーナーの久保が心配していたことが、現実になった。
夕子は大学病院を出ると、そのままタクシーに乗り込んだ。
走り出した窓の外には、いつもの東京の街が流れている。
見慣れた景色。
いつもの銀座。
いつもの人の波。
なのに――
今日だけは、すべてが違って見えた。
夕子の頭の中には、同じ言葉ばかりが浮かんでいた。
――なぜ?
――なぜ私なの?
何度考えても答えは出ない。
今すぐ命に関わるものではない。
けれど、医師から聞かされたのは、いずれ身体が思うように動かなくなっていく可能性があるということだった。
ただ、現在は新しい薬の研究も進んでいて、症状の進行を遅らせることが期待できるという。
夕子は説明を聞いていた。
ちゃんと頷いてもいた。
けれど、頭の中にはほとんど入っていなかった。
ただ、
「身体が動かなくなる」
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
タクシーの窓に映った自分の顔を見る。
いつもと変わらない。
化粧もしている。
髪も整っている。
どこから見ても、今までの夕子と何も変わらない。
なのに――
自分の中だけで、何かが大きく変わってしまった。
夕子は、ふと自分の人生を振り返った。
十代の頃、両親が離婚した。
兄弟とは離ればなれになり、母親に引き取られた。
決して楽な生活ではなかった。
それでも夕子は、そこで人生を諦めなかった。
奨学金を利用して大学へ進み、必死に勉強して卒業した。
ようやくつかんだ新卒の就職先は、しばらくすると倒産した。
その頃に知り合った男性と結婚したものの、夫婦としてうまくいかず、一年も経たないうちに離婚した。
まるで絵に描いたような、不幸の連鎖だった。
それでも夕子は、何度転んでも立ち上がった。
そして――
自分の運命から逃げるように、銀座へと舞い降りた。
夜の世界は、夕子にとって不思議な場所だった。
昼の世界ではうまくいかなかったことが、銀座では通用する。
自分の努力が、そのまま結果になって返ってくる。
美しく装い、人と向き合い、酒を飲み、笑い、気を配る。
夕子は水を得た魚のように、銀座という世界を泳いだ。
やがて自分の店を持ち、
大きな店を経営するオーナーママになった。
周囲から見れば、誰もが羨む人生だった。
あの頃の自分が、今の自分を見たら、きっと驚くだろう。
――私は、こんなところまで来たんだ。
そう思える人生だった。
けれど。
その頂点に立った瞬間、
自分の身体は静かに崩れ始めていた。
夕子は、タクシーの後部座席で目を閉じた。
そして初めて、自分に問いかけた。
――私は、何か間違っていたのだろうか。
何のために、あんなに頑張ってきたのだろう。
何のために、ここまで上り詰めたのだろう。
その答えを、夕子はまだ見つけられなかった。
ここは、夕子の部屋。
外国人向けに作られた、都内でもかなり贅沢なマンションだった。
三つある部屋には、それぞれトイレとバスルームが付いている。
広々とした居間には、上質な家具が置かれ、壁や棚には美術品が並んでいた。
これまでの夕子の人生が、その部屋の一つひとつに形となって残っているようだった。
何もかも手に入れた。
そう思える場所だった。
けれど、その日だけは――
その広すぎる部屋が、妙に寒々しく感じられた。
夕子は、一人で抱えていることができなくなった。
店のことも、これからのことも話さなければならない。
夕子は店長の伊藤を呼んだ。
しばらくして伊藤が部屋に入ってきた。
『今日来てもらったのは……ここだけの話として聞いてちょうだい』
『はい。どうかされたのですか?』
夕子は少し間を置いた。
『まあ……まだ私も混乱していて、どう受け止めていいのか分からない状態なんだけど』
そう言ってから、静かに続けた。
『脳に問題があることが分かったの。もしかしたら、これからあまりお店に出られないかもしれないわ』
『えっ……脳ですか?』
伊藤の顔が強張った。
『これから入院して、手術をするんですか?』
『ううん。入院も手術もなくて、薬を飲みながら様子を見るという感じじゃないかな』
夕子は自分に言い聞かせるように答えた。
伊藤は、まだ信じられないという顔をしていた。
『それにしても……ママは全然お元気じゃないですか。どこも悪いところなんてないように見えます。病気だなんて、僕には信じられません』
その言葉を聞いて、夕子の表情が少しだけ緩んだ。
『伊藤さん、ありがとう』
そして、小さく笑った。
『そう言ってもらえると、なんだか元気が出るわ』
けれど、その笑顔の奥には、隠しきれない不安があった。
『これからいろんな検査をして、治療の方針を決めるそうなの。しばらくは病院通いで忙しくなりそうね』
伊藤は頷いた。
『ママ、お店のことは僕が逐一報告しますから。どうか今は心を穏やかにして、身体を大事にしてください』
『ありがとう……』
その言葉を聞いて、夕子は目を伏せた。
伊藤は、そんな夕子の顔をまともに見ることができなかった。
見た目は何も変わっていない。
いつもの夕子だ。
それなのに――
ほんの数時間前までとは、まるで別人のように見えた。
どこか急に老け込んだような。
それほどまでに、精神的な落ち込みが伝わってきた。
けれど、そんなことを口にすることなどできない。
伊藤にできるのは、ただ励ますことだけだった。
『大丈夫ですよ、ママ。お店のことは僕に任せてください』
『……ええ』
夕子は、そう答えた。
そして、一人になった部屋で、静かにソファへ腰を下ろした。
広い部屋。
美術品に囲まれた、贅沢な暮らし。
長い年月をかけて手に入れたものが、すべてここにある。
それなのに――
その夜、夕子が初めて感じたのは、
「こんなにたくさんのものを持っているのに、どうしてこんなに心細いのだろう」
ということだった。
人生の頂点に立った女は、
その日初めて、
自分の足元が少しずつ揺らぎ始めていることを知った。
そして、この小さな揺らぎが、
やがて夕子の心まで変えていくことを――
このときの彼女は、まだ知らなかった。