銀座には、さまざまな人生を背負った女たちがいた。
華やかな世界に憧れて足を踏み入れた女。
生きるために夜の街を選んだ女。
そして、誰よりも強い野心を胸に、頂点まで駆け上がった女。
その中に、夕子という女性がいた。
数奇な運命に翻弄されながらも、しなやかな強さを失わず、旺盛な野心と行動力で一つひとつ夢を手に入れていった。
やがて夕子は、銀座でも名の知られたオーナーママになった。
大きな店を経営し、都内の一等地に自宅を構え、別荘やマンションまで所有していた。
努力しても、そこまでたどり着ける人は多くない。
銀座という厳しい世界で、夕子は確かに成功を手にしていた。
そんな夕子には、健康にも人一倍気を遣う習慣があった。
週に一度、欠かさず通っているパーソナルジム。
担当トレーナーは、久保という若い男性だった。
そのジムでも一番のイケメントレーナーで、夕子にとっては、身体のメンテナンスを任せられる信頼できる存在だった。
その日も、いつもと変わらないトレーニングが始まった。
ところが、久保は夕子の動きを見ながら、ふと口にした。
『夕子さん、今日はいつもよりお疲れのようですね』
夕子は笑いながら答えた。
『そうなのよ。最近、身体が硬いというか……朝起きたときなんて、しばらくベッドから出られないくらい身体が固まっている感じなの』
そして、自分の腕や脚をさすりながら続けた。
『しばらくマッサージしたり、足や腕を動かしたりしないと起きられないのよ』
『そうですか……』
久保の表情が、ほんの少し変わった。
夕子はそれに気づいた。
『えっ、何か変なの?』
『いえ……』
久保は一瞬言葉を選んだ。
『ちょっと、いつもと動きが違う気がして……。きっと僕の気のせいですね』
『もう、驚かせないでよ。まだ50代よ。健康そのものなんだから』
夕子は笑った。
久保も笑って答えた。
『そうですよね。夕子さんは年齢より全然お若いですから』
その日は、それ以上何も言わずにトレーニングを続けた。
けれど――
久保の胸の片隅には、小さな違和感が残っていた。
それから数か月が過ぎた。
久保は、再び夕子の身体の動きを見ていた。
そして今度は、はっきりと感じた。
――やっぱり、何かが違う。
以前なら自然にできていた動きが、ほんの少しだけぎこちない。
本人は気づいていないのかもしれない。
けれど、毎週その身体を見ている久保には、その小さな変化が分かった。
それでも、言うべきかどうか迷った。
夕子は、そのジムのプレミアムメンバーだった。
余計なことを言えば、夕子本人だけでなく、ジムを巻き込んだ大きな問題になるかもしれない。
一人のトレーナーが、お客様の身体について口を出していいものなのか。
久保は何度も迷った。
けれど、最後に頭に浮かんだのは、
お客様の身体が第一だ。
という、ごく当たり前のことだった。
そして、勇気を出して口を開いた。
『夕子さん……やっぱり、どこか今までと違うような違和感が気になります』
夕子が顔を上げた。
『こんなことを言っていいのか分からないんですが……一度、整形外科か脳神経内科で検査を受けてみたほうがいいと思います』
『えっ……』
夕子の顔から笑みが消えた。
『脳と運動って関係あるの? 別に頭が痛いわけでもないし……ちょっと大袈裟じゃない?』
『そうですよね』
久保は頷いた。
『何でもなければ、それに越したことはありません』
そして、少し間を置いてから続けた。
『実は僕の祖母が、動くはずの手や足がだんだん動かしにくくなって……検査をしたら脳の病気だったんです』
夕子は黙って久保の話を聞いていた。
『だから、驚かすつもりはありません。ただ……もし検査して何もなかったら、僕の早とちりだったって叱ってください』
その言葉に、夕子はしばらく考えていた。
やがて、ふっと表情を和らげた。
『久保さん、私の身体を心配して言ってくれてるのよね』
『はい』
『分かったわ。じゃあ、来週にでもお医者様に行ってくる』
そう答えたものの、夕子はまだ半信半疑だった。
自分は健康だと思っていた。
仕事もできる。
店にも立っている。
毎週ジムにも通っている。
だからこそ、
自分の身体に何かが起きているなんて、考えたこともなかった。
けれど――
最近、ときどき思うように手や足が動かないことがある。
朝、身体が異様に硬く感じることもある。
それを思い出すと、夕子の胸には小さな不安が残った。
夕子の店には、長年付き合いのあるお客様がたくさんいた。
その中には、都内の大きな病院の院長や医師たちもいた。
銀座のママという立場だからこそ、普通なら何週間も先になるような予約でも、電話一本で相談できることがある。
夕子は、そのつながりを頼って病院へ向かうことにした。
その頃の夕子は、まだ知らなかった。
自分がどれほど恵まれた場所にいるのか。
誰もが羨むような場所まで、夕子はたどり着いていた。
まさに――
人生の頂点。
けれど、人は頂点に立ったときほど、
その足元にあるものが見えなくなる。
夕子はまだ知らなかった。
その華やかな人生の足元に、
いつの間にか、
見えない影が忍び寄っていたことを。
そしてその影が、
やがて夕子の人生を大きく変えていくことを――。