【連載小説】第131話 不運の向こう側

【連載小説】第131話 不運の向こう側

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小説

茜と喫茶店で話をしてから、数週間が過ぎた。

季節は秋から冬へと移り、銀座の街はクリスマスのイルミネーションに
彩られていた。

並木通りには華やかな灯りがともり、行き交う人たちもどこか浮き足立っている。

1年で最も街が華やぐ季節。

そして、銀座のクラブにとっては、1年で最も忙しい季節でもあった。

12月に入ると、『クラブ 結』も一気に活気づいた。

女の子たちの出勤も増え、店の中にはいつもより大きな笑い声が響いていた。

12月には、美月が決めていることがあった。

当日欠勤は、できるだけしないこと。

ひとり人でも欠ければ、その分、他の女の子たちの負担が増える。

忙しい時期だからこそ、みんなで支え合わなければならない。

女の子たちもそれを理解して、いつも以上に頑張っていた。

そんなある日のことだった。

茜から、当日欠勤の連絡が入った。
『茜ちゃん、今日どうしたの?』

事情を知らない女の子たちからは、

『この忙しい時期に……』

そんな不満の声も聞こえてきた。

けれど、美月は何も言わなかった。

茜から聞いた理由を知っていたからだ。

それは――

10年間、一緒に暮らしてきた愛猫が突然、天国へ旅立ったからだった。

あまりにも突然のことだった。

茜の声は、聞いたことがないほど沈んでいた。


茜が、六畳一間の小さなアパートからなかなか引っ越せなかった理由は、家賃だけではなかった。

そこには、ずっと一緒に暮らしてきた猫がいた。

東京のアパートでは、ペットを飼える部屋は決して多くない。

茜にとって、その部屋は狭くても、猫と一緒に暮らせる大切な場所だった。

アルバイトと劇団。

思うように収入が増えない生活。

そして、思い通りにならない恋。

仕事で疲れて帰ってきても、ドアを開ければ猫がいる。

何も言わずにそばにいてくれる。

それだけで、茜の心は少し軽くなった。

人間には言えないことも、猫には話せた。

泣きたい夜には、そばにいてくれた。

茜にとって、その小さな命は、家族であり、親友であり、心の拠り所だった。

だから、どんなに部屋が狭くても、引っ越すことができなかった。

その猫が――

突然いなくなった。

茜は、泣いた。

泣いて、泣いて、涙が枯れるほど泣いた。

そして、気がつけば、自分の人生を支えていたものが、ほとんどなくなっていることに気づいた。

片思いの彼は去った。

やっとの思いで見つけた正社員の仕事では、毎日のように心を削られている。

そして、そのすべてを忘れさせてくれていた猫までいなくなった。

この数ヶ月で、茜は人生の底まで落ちてしまったような気がしていた。


それから数日後。

美月の携帯電話が鳴った。

茜からだった。

『もしもし、ママ……』

『あっ、茜ちゃん』

『はい……。この前は当日欠勤して、本当にすみませんでした』

『そんなことはいいのよ。どう? 少しは落ち着いた?』

電話の向こうから、小さな声が返ってきた。

『いやぁ……。まだ全然です。食欲もなくて……立っているのがやっとくらいです』

『そう……』

美月は胸が痛くなった。

『元気出さなきゃね。今週も、まだ出勤は難しそうね』

『年末で忙しいのに……本当にごめんなさい』

茜の声が震えた。

涙をこらえているのが分かった。

美月は何とかして、茜を元気にしてあげたかった。

けれど、どんな言葉をかけても、茜の心は深いところに沈んだままだった。

まるで、自分から底を抜け出すことを拒んでいるかのようだった。

『茜ちゃんがいないと、お店も元気が出ないから。少し落ち着いたら、また出勤してね』

それが、美月にできる精一杯の励ましだった。

すると突然、電話の向こうから茜の声が大きくなった。

『私……もう、全部が嫌になりました!』

『茜ちゃん……』

『何やっても上手くいかないし! 全部捨てて、外国にでも行こうかと思ってます!』

美月は驚いた。

『ちょっと待ってよ。そんな自暴自棄みたいなこと言わないで。外国なんて無茶すぎるわよ』

『だって……』

茜の声が泣き声に変わった。

『だって、もう猫もいないし……』

しばらく言葉が続かなかった。

『この部屋には、猫との思い出がいっぱいあるから……。ここにいると、余計に辛いの。もう、どこかへ行ってしまいたい』

美月は黙って聞いていた。

茜の気持ちは分かる。

何かを失ったとき、人は、その場所に残された思い出さえ苦しく感じることがある。

けれど――

『茜ちゃん』

『はい……』

『急いでも、良いことなんてないわよ』

『でも……』

『だからって外国へ行くなんて、、、今は何も決めないほうがいいわよ』

茜は黙った。

美月は少し考えた。

そして、ふと思いついた。

『そうだ!茜ちゃん、私、いい考えが浮かんだわ』

『いい考え?』

『そう』

『何ですか?』

『引っ越しするっていうのは、どう?』

『……引っ越し?』

『そうよ』

美月は続けた。

『思い出の詰まった今の部屋にいたくないんでしょう?』

『……はい』

『だったら、まず引っ越してみたら?』

茜は黙って聞いている。

『住む場所を変えるだけでも、気持ちは変わるかもしれないわ。知らない街で、新しい部屋で、新しい生活を始めてみるの』

『新しい生活……』

『そう、もし引っ越しの費用が足りなかったら、私が前払いしてあげるわよ』

『えっ……』

『後でお給料から少しずつ天引きすればいいんだから』

しばらく沈黙があった。

そして――

茜の声が、ほんの少し変わった。

『ママ……ありがとうございます』

『ええ』

『そうですよね……。引っ越しなんて、考えたこともなかった』」

『だったら、やってみればいいじゃない』

『……新しい場所に行ったら、何か変わるかもしれませんね』

『そうよ!』

美月も明るい声を出した。

『まずは何か食べなさい。お腹いっぱい食べて、それから不動産屋さんに行って、新天地を探すのよ!』

電話の向こうで、茜が小さく笑った。

『はい!』

さっきまで消えかかっていた声が、ほんの少しだけ明るくなった。

たった一つの提案。

たった一度の会話。

それだけで、茜の声に、わずかな光が戻った。

人生というものは、不思議だ。

不運が続くと、人は「もう何をしても駄目なんだ」と思ってしまう。

けれど、その不運の中に、次の人生へ進むためのきっかけが隠れていることもある。

そのときの茜には、まだ分からなかった。

10年間動かなかった彼女の人生が、
この「引っ越し」という小さな決断から、少しずつ動き始めることを。

そして、その先には――

茜自身もまだ想像していない、
思いもよらない出会いが待っていた。
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