茜と喫茶店で話をしてから、数週間が過ぎた。
季節は秋から冬へと移り、銀座の街はクリスマスのイルミネーションに
彩られていた。
並木通りには華やかな灯りがともり、行き交う人たちもどこか浮き足立っている。
1年で最も街が華やぐ季節。
そして、銀座のクラブにとっては、1年で最も忙しい季節でもあった。
12月に入ると、『クラブ 結』も一気に活気づいた。
女の子たちの出勤も増え、店の中にはいつもより大きな笑い声が響いていた。
12月には、美月が決めていることがあった。
当日欠勤は、できるだけしないこと。
ひとり人でも欠ければ、その分、他の女の子たちの負担が増える。
忙しい時期だからこそ、みんなで支え合わなければならない。
女の子たちもそれを理解して、いつも以上に頑張っていた。
そんなある日のことだった。
茜から、当日欠勤の連絡が入った。
『茜ちゃん、今日どうしたの?』
事情を知らない女の子たちからは、
『この忙しい時期に……』
そんな不満の声も聞こえてきた。
けれど、美月は何も言わなかった。
茜から聞いた理由を知っていたからだ。
それは――
10年間、一緒に暮らしてきた愛猫が突然、天国へ旅立ったからだった。
あまりにも突然のことだった。
茜の声は、聞いたことがないほど沈んでいた。
*
茜が、六畳一間の小さなアパートからなかなか引っ越せなかった理由は、家賃だけではなかった。
そこには、ずっと一緒に暮らしてきた猫がいた。
東京のアパートでは、ペットを飼える部屋は決して多くない。
茜にとって、その部屋は狭くても、猫と一緒に暮らせる大切な場所だった。
アルバイトと劇団。
思うように収入が増えない生活。
そして、思い通りにならない恋。
仕事で疲れて帰ってきても、ドアを開ければ猫がいる。
何も言わずにそばにいてくれる。
それだけで、茜の心は少し軽くなった。
人間には言えないことも、猫には話せた。
泣きたい夜には、そばにいてくれた。
茜にとって、その小さな命は、家族であり、親友であり、心の拠り所だった。
だから、どんなに部屋が狭くても、引っ越すことができなかった。
その猫が――
突然いなくなった。
茜は、泣いた。
泣いて、泣いて、涙が枯れるほど泣いた。
そして、気がつけば、自分の人生を支えていたものが、ほとんどなくなっていることに気づいた。
片思いの彼は去った。
やっとの思いで見つけた正社員の仕事では、毎日のように心を削られている。
そして、そのすべてを忘れさせてくれていた猫までいなくなった。
この数ヶ月で、茜は人生の底まで落ちてしまったような気がしていた。
*
それから数日後。
美月の携帯電話が鳴った。
茜からだった。
『もしもし、ママ……』
『あっ、茜ちゃん』
『はい……。この前は当日欠勤して、本当にすみませんでした』
『そんなことはいいのよ。どう? 少しは落ち着いた?』
電話の向こうから、小さな声が返ってきた。
『いやぁ……。まだ全然です。食欲もなくて……立っているのがやっとくらいです』
『そう……』
美月は胸が痛くなった。
『元気出さなきゃね。今週も、まだ出勤は難しそうね』
『年末で忙しいのに……本当にごめんなさい』
茜の声が震えた。
涙をこらえているのが分かった。
美月は何とかして、茜を元気にしてあげたかった。
けれど、どんな言葉をかけても、茜の心は深いところに沈んだままだった。
まるで、自分から底を抜け出すことを拒んでいるかのようだった。
『茜ちゃんがいないと、お店も元気が出ないから。少し落ち着いたら、また出勤してね』
それが、美月にできる精一杯の励ましだった。
すると突然、電話の向こうから茜の声が大きくなった。
『私……もう、全部が嫌になりました!』
『茜ちゃん……』
『何やっても上手くいかないし! 全部捨てて、外国にでも行こうかと思ってます!』
美月は驚いた。
『ちょっと待ってよ。そんな自暴自棄みたいなこと言わないで。外国なんて無茶すぎるわよ』
『だって……』
茜の声が泣き声に変わった。
『だって、もう猫もいないし……』
しばらく言葉が続かなかった。
『この部屋には、猫との思い出がいっぱいあるから……。ここにいると、余計に辛いの。もう、どこかへ行ってしまいたい』
美月は黙って聞いていた。
茜の気持ちは分かる。
何かを失ったとき、人は、その場所に残された思い出さえ苦しく感じることがある。
けれど――
『茜ちゃん』
『はい……』
『急いでも、良いことなんてないわよ』
『でも……』
『だからって外国へ行くなんて、、、今は何も決めないほうがいいわよ』
茜は黙った。
美月は少し考えた。
そして、ふと思いついた。
『そうだ!茜ちゃん、私、いい考えが浮かんだわ』
『いい考え?』
『そう』
『何ですか?』
『引っ越しするっていうのは、どう?』
『……引っ越し?』
『そうよ』
美月は続けた。
『思い出の詰まった今の部屋にいたくないんでしょう?』
『……はい』
『だったら、まず引っ越してみたら?』
茜は黙って聞いている。
『住む場所を変えるだけでも、気持ちは変わるかもしれないわ。知らない街で、新しい部屋で、新しい生活を始めてみるの』
『新しい生活……』
『そう、もし引っ越しの費用が足りなかったら、私が前払いしてあげるわよ』
『えっ……』
『後でお給料から少しずつ天引きすればいいんだから』
しばらく沈黙があった。
そして――
茜の声が、ほんの少し変わった。
『ママ……ありがとうございます』
『ええ』
『そうですよね……。引っ越しなんて、考えたこともなかった』」
『だったら、やってみればいいじゃない』
『……新しい場所に行ったら、何か変わるかもしれませんね』
『そうよ!』
美月も明るい声を出した。
『まずは何か食べなさい。お腹いっぱい食べて、それから不動産屋さんに行って、新天地を探すのよ!』
電話の向こうで、茜が小さく笑った。
『はい!』
さっきまで消えかかっていた声が、ほんの少しだけ明るくなった。
たった一つの提案。
たった一度の会話。
それだけで、茜の声に、わずかな光が戻った。
人生というものは、不思議だ。
不運が続くと、人は「もう何をしても駄目なんだ」と思ってしまう。
けれど、その不運の中に、次の人生へ進むためのきっかけが隠れていることもある。
そのときの茜には、まだ分からなかった。
10年間動かなかった彼女の人生が、
この「引っ越し」という小さな決断から、少しずつ動き始めることを。
そして、その先には――
茜自身もまだ想像していない、
思いもよらない出会いが待っていた。