【連載小説】第130話 幸せへの遠回り

【連載小説】第130話 幸せへの遠回り

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『クラブ 結』には、さまざまなお客様が訪れていた。

その中に、佐々木さんという内装会社の社長がいた。

社長とはいっても、大きな会社ではない。

従業員も数人ほどの、小さな会社だった。

ある夜、いつものように結でお酒を飲みながら、佐々木さんがぼやいていた。

「実はさ、経理をやっていた人が急に辞めちゃってね。もう大変なんだよ」

「そうなの?」

美月が相槌を打つと、佐々木さんはため息をついた。

そんな会話を聞いていた茜に、ふと声をかけた。

「茜ちゃん、今、昼間はアルバイトしてるんだろう?」

「ええ。アパレル関係の仕事です。表参道のショップなんですけど……」

茜は少し笑った。

「全然お客さん来ないんですよ。すごく暇で、時間を持て余しちゃって」

「そうか。それなら、うちの会社に来ないか?」

「えっ?」

茜が顔を上げた。

「うちなら正社員で雇えるよ。社会保険もあるし、収入も安定する。今のアルバイトより、ずっといいと思うけどな」

佐々木さんは、珍しく熱心に話した。

「正社員ですか……」

茜の顔が少し明るくなった。

「それは魅力的ですね。それで、お仕事の内容は?」

「最初は簡単な経理をやってもらえればいい。それと、みんなが外に出た後は電話番をしてくれれば助かるよ」

「それなら、私でもできそうですね」

茜は少し考えたあと、笑った。

「お願いしちゃおうかしら?」

「これで決まりだな。来月早々から来てくれよ」

「はい」

「分からないことは教えるから、安心して来てくれればいいよ」

その夜、茜は嬉しそうだった。

ずっとアパレルのアルバイトを辞めたいと思っていた。

それが、こんな形で正社員の話が舞い込んでくるなんて。

――もしかしたら、今度こそ何かが変わるかもしれない。

そんな期待が、茜の胸に芽生えていた。

*

ただ、美月には少しだけ気になることがあった。

佐々木さんは、あくまで『クラブ 結』のお客様だった。

店では普通に話をしていても、会社では上司と部下になる。

茜にとって、それは初めて経験する関係だった。

しかも、佐々木さんは少し神経質なところがあった。

店での話題も、一緒に来る人たちとの仕事の話が中心。

決して悪い人ではない。

けれど、誰とでもすぐ打ち解けるような親しみやすいタイプでもなかった。

それでも茜は、そんなことはあまり気にしていなかった。

何より、

「正社員」

という言葉が嬉しかった。

アルバイトではない。

社会保険もある。

毎月、安定した収入が入る。

それは茜にとって、ただ仕事が変わるということ以上の意味を持っていた。

これまで、何も変わらないただ生きているだけの生活に、命が吹き込まれたような感じがしたのだ。

「来月から頑張ります!」

そう言って笑う茜を見て、美月も嬉しくなった。

――今度こそ、茜ちゃんの人生がいい方向に向かうといいな。

美月もそう願っていた。

けれど、人生は時として、人の期待とは反対の方向へ進んでいく。

*

それから数ヶ月が経った。

ある日のことだった。

美月は、茜の顔を見て、思わず足を止めた。

以前の明るさがない。

顔色も悪い。

笑ってはいるけれど、笑顔がどこか無理をしている。

「茜ちゃん……」

「はい?」

「最近、元気ないわね」

茜は一瞬、笑ってごまかそうとした。

「そうですか?」

「うん。ちょっと痩せたんじゃない?」

「……そうかもしれません」

美月は、何かがおかしいと思った。

「ちょっとお茶でも飲まない?」

そう言って、近所の喫茶店に茜を誘った。

二人で向かい合って座る。

注文したコーヒーが運ばれてきても、茜はしばらくカップに手をつけなかった。

「茜ちゃん、最近どうしたの?」

美月が静かに聞いた。

すると茜は、しばらく黙ったあと、小さな声で言った。

「最近、疲れが取れないというか……」

そして、一度目を伏せた。

「精神的に参ってるというか……」

「何かあったの?」

その言葉を聞いた瞬間だった。

茜の中で、ずっと押さえ込んでいたものが切れた。

「実は……」

声が震えた。

「佐々木さんの会社に勤め始めてから分かったんですけど……」

茜は一度息を吸った。

「佐々木さんって……すごくパワハラなんです」

「えっ……」

美月は驚いた。

「そんなに?」

そこから茜は、それまで誰にも言えずに我慢していたことを、一気に話し始めた。

仕事のことで細かく責められること。

何をしても否定されること。

会社にいる間、常に緊張していること。

家に帰っても気持ちが休まらないこと。

最初は「頑張ろう」と思っていた。

正社員になれたことが嬉しかった。

だから、少しくらい嫌なことがあっても我慢しようと思った。

けれど、我慢すればするほど、心は少しずつすり減っていった。

「そんなに酷いの……?」

美月は聞いているうちに、腹が立って仕方がなくなった。

「もう、辞めてしまったら?」

思わずそう言った。

けれど茜は、俯いたままだった。

「……辞めたいです」

「じゃあ、辞めればいいじゃない」

「でも……」

茜は小さく首を振った。

「生活がありますから……」

その言葉を聞いて、美月は何も言えなくなった。

辞めればいい。

そんなことは、誰にでも言える。

けれど、現実には家賃もある。

生活費もある。

猫もいる。

夢を追いながら、ぎりぎりの生活をしている茜にとって、安定した正社員という立場を簡単に手放すことはできなかった。

まして、一度失った仕事がすぐに見つかる保証もない。

だから茜は、また我慢するしかなかった。

美月は、そんな茜を見つめながら思った。

人生には、どうしても何をやってもうまくいかない時期がある。

手を伸ばしても届かない。

一歩進んだと思ったら、また後ろに引き戻される。

そんな時期が、誰にでもあるのかもしれない。

けれど――

そのときの茜には、まだ想像もできなかっただろう。

今、自分が落ちているこの場所が、

これから大きく跳ね上がるための、長い助走になっていることを。

人生は不思議だ。

どん底まで落ちたと思ったその先に、思いもよらない扉が現れることがある。

そして、その扉を開くのは――

大きな決断ではなく、ほんの小さな「何か」だったりする。

茜の人生にも、そんな瞬間が近づいていた。
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