『クラブ 結』には、さまざまなお客様が訪れていた。
その中に、佐々木さんという内装会社の社長がいた。
社長とはいっても、大きな会社ではない。
従業員も数人ほどの、小さな会社だった。
ある夜、いつものように結でお酒を飲みながら、佐々木さんがぼやいていた。
「実はさ、経理をやっていた人が急に辞めちゃってね。もう大変なんだよ」
「そうなの?」
美月が相槌を打つと、佐々木さんはため息をついた。
そんな会話を聞いていた茜に、ふと声をかけた。
「茜ちゃん、今、昼間はアルバイトしてるんだろう?」
「ええ。アパレル関係の仕事です。表参道のショップなんですけど……」
茜は少し笑った。
「全然お客さん来ないんですよ。すごく暇で、時間を持て余しちゃって」
「そうか。それなら、うちの会社に来ないか?」
「えっ?」
茜が顔を上げた。
「うちなら正社員で雇えるよ。社会保険もあるし、収入も安定する。今のアルバイトより、ずっといいと思うけどな」
佐々木さんは、珍しく熱心に話した。
「正社員ですか……」
茜の顔が少し明るくなった。
「それは魅力的ですね。それで、お仕事の内容は?」
「最初は簡単な経理をやってもらえればいい。それと、みんなが外に出た後は電話番をしてくれれば助かるよ」
「それなら、私でもできそうですね」
茜は少し考えたあと、笑った。
「お願いしちゃおうかしら?」
「これで決まりだな。来月早々から来てくれよ」
「はい」
「分からないことは教えるから、安心して来てくれればいいよ」
その夜、茜は嬉しそうだった。
ずっとアパレルのアルバイトを辞めたいと思っていた。
それが、こんな形で正社員の話が舞い込んでくるなんて。
――もしかしたら、今度こそ何かが変わるかもしれない。
そんな期待が、茜の胸に芽生えていた。
*
ただ、美月には少しだけ気になることがあった。
佐々木さんは、あくまで『クラブ 結』のお客様だった。
店では普通に話をしていても、会社では上司と部下になる。
茜にとって、それは初めて経験する関係だった。
しかも、佐々木さんは少し神経質なところがあった。
店での話題も、一緒に来る人たちとの仕事の話が中心。
決して悪い人ではない。
けれど、誰とでもすぐ打ち解けるような親しみやすいタイプでもなかった。
それでも茜は、そんなことはあまり気にしていなかった。
何より、
「正社員」
という言葉が嬉しかった。
アルバイトではない。
社会保険もある。
毎月、安定した収入が入る。
それは茜にとって、ただ仕事が変わるということ以上の意味を持っていた。
これまで、何も変わらないただ生きているだけの生活に、命が吹き込まれたような感じがしたのだ。
「来月から頑張ります!」
そう言って笑う茜を見て、美月も嬉しくなった。
――今度こそ、茜ちゃんの人生がいい方向に向かうといいな。
美月もそう願っていた。
けれど、人生は時として、人の期待とは反対の方向へ進んでいく。
*
それから数ヶ月が経った。
ある日のことだった。
美月は、茜の顔を見て、思わず足を止めた。
以前の明るさがない。
顔色も悪い。
笑ってはいるけれど、笑顔がどこか無理をしている。
「茜ちゃん……」
「はい?」
「最近、元気ないわね」
茜は一瞬、笑ってごまかそうとした。
「そうですか?」
「うん。ちょっと痩せたんじゃない?」
「……そうかもしれません」
美月は、何かがおかしいと思った。
「ちょっとお茶でも飲まない?」
そう言って、近所の喫茶店に茜を誘った。
二人で向かい合って座る。
注文したコーヒーが運ばれてきても、茜はしばらくカップに手をつけなかった。
「茜ちゃん、最近どうしたの?」
美月が静かに聞いた。
すると茜は、しばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「最近、疲れが取れないというか……」
そして、一度目を伏せた。
「精神的に参ってるというか……」
「何かあったの?」
その言葉を聞いた瞬間だった。
茜の中で、ずっと押さえ込んでいたものが切れた。
「実は……」
声が震えた。
「佐々木さんの会社に勤め始めてから分かったんですけど……」
茜は一度息を吸った。
「佐々木さんって……すごくパワハラなんです」
「えっ……」
美月は驚いた。
「そんなに?」
そこから茜は、それまで誰にも言えずに我慢していたことを、一気に話し始めた。
仕事のことで細かく責められること。
何をしても否定されること。
会社にいる間、常に緊張していること。
家に帰っても気持ちが休まらないこと。
最初は「頑張ろう」と思っていた。
正社員になれたことが嬉しかった。
だから、少しくらい嫌なことがあっても我慢しようと思った。
けれど、我慢すればするほど、心は少しずつすり減っていった。
「そんなに酷いの……?」
美月は聞いているうちに、腹が立って仕方がなくなった。
「もう、辞めてしまったら?」
思わずそう言った。
けれど茜は、俯いたままだった。
「……辞めたいです」
「じゃあ、辞めればいいじゃない」
「でも……」
茜は小さく首を振った。
「生活がありますから……」
その言葉を聞いて、美月は何も言えなくなった。
辞めればいい。
そんなことは、誰にでも言える。
けれど、現実には家賃もある。
生活費もある。
猫もいる。
夢を追いながら、ぎりぎりの生活をしている茜にとって、安定した正社員という立場を簡単に手放すことはできなかった。
まして、一度失った仕事がすぐに見つかる保証もない。
だから茜は、また我慢するしかなかった。
美月は、そんな茜を見つめながら思った。
人生には、どうしても何をやってもうまくいかない時期がある。
手を伸ばしても届かない。
一歩進んだと思ったら、また後ろに引き戻される。
そんな時期が、誰にでもあるのかもしれない。
けれど――
そのときの茜には、まだ想像もできなかっただろう。
今、自分が落ちているこの場所が、
これから大きく跳ね上がるための、長い助走になっていることを。
人生は不思議だ。
どん底まで落ちたと思ったその先に、思いもよらない扉が現れることがある。
そして、その扉を開くのは――
大きな決断ではなく、ほんの小さな「何か」だったりする。
茜の人生にも、そんな瞬間が近づいていた。