【連載小説】第128話 人生の扉を開く女

【連載小説】第128話 人生の扉を開く女

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小説

季節が、またひとつ進んだ。

銀座の街では、秋の気配が深まり始めていた。

けれど、夜の銀座に季節をゆっくり感じている暇はない。

9月から10月にかけて、街のスカウトマンたちはにわかに慌ただしくなる。

その先にあるのは――12月。

一年で最も忙しい季節に向けて、銀座では女の子の獲得競争が始まっていた。

『クラブ 結』も、12月に備えて募集広告を出すことにした。

当時は広告を出せば、驚くほどたくさんの応募があった。

一度の募集で50人ほどの応募が来ることも珍しくない。

そして、美月はなぜか面接が好きだった。

もちろん、

――今度はどんな可愛い子が来るかしら。

――個性的な子だったら面白いな。

そんな期待もあった。

けれど、それだけではない。

面接に来る女の子たちは、ひとりひとり違う人生を背負っている。

なぜ夜の世界に来ようと思ったのか。

昼間は何をしているのか。

どんな夢を持っているのか。

そして、何かに傷ついているのか。

美月にとって面接は、女の子を採用するだけの時間ではなかった。

知らない人生に触れる時間でもあった。

これまで何百人もの女性と向き合ってきた。

だから、美月にはいつしか、自分でも「直感センサー」と呼んでいるものが身についていた。

ドアを開けて入ってきた瞬間。

椅子に座る仕草。

目線。

声のトーン。

ほんの数十秒の間に、

「この子は銀座で伸びる」

「この子は長く続かない」

そんなことが、何となく分かるようになっていた。

もちろん、すべてが当たるわけではない。

人の未来なんて、誰にも分からない。

それでも、美月は長年の経験から、その人の中にあるものを感じ取っていた。

――その日までは。


募集を始めた翌日。

早くも1人の女性から連絡が入った。

年齢は35歳。

夜の仕事は、ほとんど初心者だという。

普通なら、美月は35歳で未経験という条件だけで、最初から断ることも多かった。

けれど、なぜかその日は、

「一度、会ってみよう」

と思った。

夕方。

約束の時間ぴったりに、女性がやって来た。

「こんばんは。あの……澤田といいます」

「はい、澤田さんね。どうぞ。そこのソファに座って」

美月は彼女を見た。

そして、ほんの一瞬、不思議な感じがした。

まず目に入ったのは――マスクだった。

今でこそマスク姿は珍しくない。

けれど当時、面接にマスクをして来る人は皆無だった。

「風邪でもひいたの?」

美月は、いつものように遠回しなことは言わなかった。

「マスクって珍しいわね」

「すみません……。風邪をひいているわけではないんですけど……ちょっと……」

「どうしたの?」

澤田は、少し黙った。

「面接だから、お顔を見せてもらわないと先に進まないわね」

美月がそう言うと、彼女はためらいながらマスクに手をかけた。

そして、ゆっくりと外した。

美月は、思わず彼女の顔を見つめた。

マスク越しにも感じていたが――

ものすごい美人だった。

目鼻立ちが整っている。

肌もきれいだった。

これなら、35歳でも未経験でも、十分銀座で勝負できる。

そう思った。

けれど――。

マスクを外した瞬間、美月は言葉を失った。

歯並びが桁外れに暴走していた。

美月は、次の言葉を探した。

すると澤田が、先に口を開いた。

「歯並びですよね。実は……歯医者さんに、この歯並びを矯正するには数百万円かかると言われていて……」

「数百万円……」

「はい。今の仕事のお給料では、とても払えなくて。それで……夜の仕事をしようと思って来ました」

美月は、黙って澤田を見つめた。

そこには、単純な「お金が欲しい」という気持ちだけではなかった。

自分の顔を変えたい。

もう少し、自信を持って生きたい。

そんな切実な思いが滲んでいた。

「そういう事情があったのね」

美月は少し微笑んだ。

「でも、澤田さん、本当に美人さんだから。歯並びをきれいにしたら、銀座でも有名になるんじゃないかしら。……惜しいわね」

「……だめでしょうか?」

その声には、期待と不安が入り混じっていた。

美月は、胸の奥が少し痛くなった。

けれど、その場で答えを出すことはできなかった。

「面接は今日始まったばかりだから、今は何ともお答えできないの。あまり時間が経たないうちにこちらから連絡しますね」

「はい……」

「今日はありがとう。気をつけて帰ってね」

澤田は小さく頭を下げた。

そして、静かに部屋を出ていった。

ドアが閉まる。

美月は、しばらくそのドアを見つめていた。

さっきまでそこにいた女性の後ろ姿には、

希望というより――

諦めの影が宿っていた。

数日後、美月は澤田に断りの連絡を入れた。

けれど電話を切ったあと、

――歯医者さんが先だったらな。

ふと、そんなことを思った。

もし先に歯を治していたら。

もし自信を持って銀座の面接に来ていたら。

もしかしたら、この人の人生も違っていたのかもしれない。

人の人生は、ほんの少しのタイミングで変わってしまう。

美月は、そんなことを考えながら、次の面接へと向かった。


それから数十人。

いろいろな女性と会った。

その中に、一人だけ、妙に美月の心に残る女性がいた。

名前は――

茜。

音楽大学を卒業していた。

歌が、とにかく上手かった。

昼間はアルバイトをしながら、劇団でも活動しているという。

華やかな経歴のわりに、本人はいたって気さくだった。

笑うと、周りまで明るくなる。

話し方も穏やかで、相手の話をよく聞く。

美月は、面接をしながら何度も思った。

――この子、なんだかいいわね。

銀座で必要なのは、派手さだけではない。

一緒にいる人を安心させる空気。

お客様が、

「またこの子に会いたい」

と思う何か。

そして、一緒に働く女の子たちからも自然に好かれる人柄。

茜には、それがあった。

「歌、ちょっと聴かせてもらってもいい?」

美月がそう言うと、茜は少し照れながら歌った。

店内に響いたその声はまるでオペラ劇場にいるような声に
美月は思わず聞き入った。

――やっぱり、この子だ。

美月は、茜を採用することにした。

こうして『クラブ 結』に、新しい女の子が一人加わった。

それが、後に美月が何度も思い返すことになる――

茜との出会いだった。

ただ、このとき美月はまだ知らなかった。

茜がこれから経験する人生が、まるでジェットコースターのように上がったり下がったりすることを。

そして最後には――

「どうして、こんなことが起きたの?」

と、美月自身が不思議に思うほどの幸せを手にすることを。

そのときの茜は、まだ知らなかった。

自分の人生が、大きく方向を変える瞬間が、そう遠くないところまで来ていることを。
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