――読者の皆様へ
いつもこの物語を読んでくださり、本当にありがとうございます。
123話まで、私が実際に経験してきた出来事をもとに、書きためてきた物語でした。
そしてこの124話からは、いよいよ一から書き下ろす新しい物語が始まります。
記念すべき新しい幕開けの言葉は――
「人は時として、気の迷いをしてしまうことがある。」
同じ銀座8丁目。
ほんの5分ほどしか離れていない場所で、思いがけない出来事が始まっていきます。
これもまた、私自身の経験と、その時々の選択から生まれた物語です。
今だからこそ振り返ることができる、女たちの生き方。
そして、あの頃の美月が何を思い、何を選び、どこへ向かっていったのか。
ここからは、これまで以上にリアルタイムで動き始める美月の世界を、心を込めて綴っていきます。
どうぞ、最後までお付き合いください。
第124話 気の迷い
人は時として、気の迷いをしてしまうことがある。
その時は、それが間違いだとは思わない。
むしろ――
それが自分にとって一番いい選択なのだと、信じてしまう。
『クラブ 結』が十周年を迎えようとしていた頃、美月の店には新しい風が吹いていた。
奈津子と蓉子が去ったあと、一時は売上も落ち込んだ。
けれど、そんな心配をよそに、桃子がいつしか店の顔になり、紹介や募集で集まってきた女の子たちも、それぞれ個性豊かだった。
時代はまだ好景気の真っただ中。
銀座全体が華やかな熱気に包まれていた。
気がつけば、
「10階建てのビルの中で一番忙しい店」
そんな噂まで聞こえてくるようになっていた。
美月にとって、『クラブ 結』はようやく自分の手で育ててきた店になっていた。
そんなある日の昼下がり。
自宅で昼食をとっていると、一本の電話が鳴った。
『もしもし、私、麻子だけど。起きてた?』
『麻子ママ!お久しぶりです。お元気でした?』
『すこぶる元気よ。そうそう、今日はね、ちょっと報告があって電話したの』
『何ですか?』
『今度、2軒目のお店を出すことになったのよ』
『えっ、2軒目ですか?すごい!おめでとうございます』
美月の声が弾んだ。
『今のお店にはカラオケがないでしょう。だから今度はもう少しカジュアルにして、カラオケも置くつもりなの』
『素敵!オープンの時にはぜひ伺いたいわ。案内状、送ってくださいね』
『もちろんよ。楽しみにしてて』
電話を切った。
そして美月は、しばらく何気なく手にしていた箸を止めた。
――2軒目かぁ。
いいなぁ。
その思いが、胸の奥に小さく灯った。
そして次の瞬間には、
私も、もう1軒出せないかしら。
そんな考えが浮かんでいた。
自分でも驚いた。
ほんの数分前までは、そんなことを考えたことさえなかったのに。
けれど、一度思いついてしまうと、人間というのは不思議なものだ。
今度はもう、頭の中で店の姿を思い描き始めている。
翌日。
美月は『クラブ 結』を始めた時から世話になっている不動産屋へ電話をした。
電話の相手は金子さん。
今では不動産会社の社長になり、銀座の店舗事情にも精通した、頼りになる人だった。
『金子さん、お久しぶりです』
『美月ママ、今日はどうしました?まさか、お店の移転ですか?』
『いえ、実は……もう一軒、お店を出そうかなと思って』
『ほう、2軒目ですか』
金子さんの声が少し弾んだ。
『何かいい物件あります?』
『どのくらいの広さを考えてます?』
『そうですね。15坪から20坪くらいかな』
『分かりました。ちょっと待ってください』
電話の向こうで、ファイルをめくる音がした。
『えーと……これなんかどうでしょう』
『どんなところですか?』
『15坪。同じ8丁目です。結さんからも歩いて5分くらいかな』
――5分。
その言葉に、美月の気持ちが動いた。
『金子さん、ちょっと聞きたいんですけど……』
『はい?』
『もう1軒のお店を任せる人って、やっぱり難しいですよね』
『そりゃそうですよ。私の知っているママさんたちも、昔から付き合いのある人とか、今までチーママをしていた人に任せるケースが多いですね』
『やっぱりそうですよね』
美月は考え込んだ。
店を出すことよりも、むしろその先のほうが難しい。
1軒の店を任せるということは、ただ仕事ができるだけでは足りない。
お金を預け、人を預け、そして自分の名前まで預ける。
それだけの信用が必要になる。
『じゃあ、その物件……見ることできますか?』
『もちろん。これから行きますか?』
『お願いします』
そうして美月は、また一歩、先へ進んでしまった。
気がつけば、2軒目の店が決まりかけていた。
場所は同じ銀座8丁目。
『クラブ 結』から歩いて5分ほど。
広さもちょうどいい。
しかも内装や調度品もほぼ揃っていて、大掛かりな工事をしなくても、そのまま営業できそうな店だった。
資金にも、当時はある程度の余裕があった。
無理な計画ではない。
むしろ、今の美月から見れば、よく考えられた計画だったのかもしれない。
ただ一つだけ。
大きな問題が残っていた。
この店を、誰に任せるのか。
美月は頭の中で、何人かの女の子の顔を思い浮かべた。
1人の店を任せる。
それは、思っている以上に重いことだった。
そして――
その時の美月はまだ知らなかった。
人生というものは、
大きな決断よりも、
ふとした思いつきや、ほんの一瞬の気の迷いから、思いもよらない方向へ転がり始めることがある。
2軒目の店を出す。
その決断が、後に美月自身を思いがけない出来事へと導いていくことを――。
その時の美月は、まだ知る由もなかった。