【連載小説】第139話 酔いが暴いた真実

【連載小説】第139話 酔いが暴いた真実

記事
小説

夕子の店には、経理を担当する木村という事務員がいた。

かれこれ8年。

細かな数字を一つひとつ追い、売上や経費を管理する、店にとってなくてはならないベテラン社員だった。

若い頃に一度結婚したことがある。

けれど、何か事情があったのか、その後は独身を貫いていた。

仕事中の木村は、几帳面で真面目だった。

無駄口も少なく、数字の間違いには誰よりも厳しい。

そんな木村には――

夕子も知らない、もう一つの顔があった。

仕事が終わり、夕方になると、人が変わったように酒を求めるのだ。

真っ直ぐ家に帰ったためしがない。

自宅近くには、いつも通う行きつけのスナックがあった。

そこへ行けば、閉店近くまで飲み続ける。

酒が入ると声は大きくなり、やがて話す、叫ぶ、笑う、そして眠る。

典型的な酔っ払いの飲み方だった。

本人は常連のつもりでも、店のオーナーも他のお客様も、正直なところ持て余していた。

けれど、本人だけはそんなことなど気にしていない。

酒さえ飲めれば、それで満足だった。

夕子のお客様に、野菜や果物を扱う卸会社の社長、安藤という男性がいた。

安藤は珍しい果物が入ったときや、旬の野菜が手に入ったときなど、自ら夕子の自宅兼事務所まで届けに行くことがあった。

いつの間にか木村とも顔見知りになり、

『今日はこんなものが入ったんですよ』

などと商品を届けては、事務所で小一時間ほど話をして帰る。

そんな付き合いだった。

ある日、安藤が木村を飲みに誘った。

安藤は夕子ママのお客様だったが、美月の店にも時々顔を出していた。

その日は二人で『クラブ 結』へ行くことになった。

店に入るなり、安藤はいつもの調子で声を張った。

『美月ママ、今日は珍しい人を連れてきたよ! 夕子ママのところの事務員さんで、木村さんです!』

『あら、夕子ママのところの木村さんですね。今日はお越しいただいて嬉しいわ』

美月は笑顔で迎えながらも、胸の奥では少しだけ緊張していた。

――夕子ママのところの人……。

最近、夕子との間には、少しずつ距離ができている。

しかも銀座では、誰と誰が付き合っているのか、誰と誰が揉めているのかなど、思わぬところから話が伝わっていく。

できれば避けたい。

けれど、お客様が連れてきた人を拒むわけにもいかない。

――今日は余計なことを言わないでおこう。

美月はそう心に決めた。

ところが木村は、席に着くなり少し高圧的な口調で言った。

『美月ママとお会いするの、初めてですよね。でも、よくお名前は聞いていたから、なんだか初めてという感じがしませんね』

美月は笑って受け流した。

木村の中では、夕子ママが美月より上にいる。

そして、その夕子ママのところで働いている自分も、どこか上の立場にいる。

そんな意識があるのかもしれない。

それが態度の端々に滲んでいた。

けれど、夕子の名前が背後にあると思うと、美月は余計なことを言わず、ただ聞き流すしかなかった。

時間が経つにつれて、美月は別のことに驚き始めた。

木村の酒を飲むペースが、とにかく速い。

『木村さん……少しお飲みになるのが早いようですが、大丈夫ですか?』

『ママ! これくらい、まだ始まったばかりよ!』

木村は大きな声で笑った。

『全然大丈夫だから、気にしないで』

安藤も笑う。

『そうだよ。この木村さんは酒豪だからね。俺なんかより倍は飲むよ』

『まあ……』

美月は苦笑した。

けれど、その「酒豪」という言葉が、後になって別の意味を持つことになるとは、このときの美月は知る由もなかった。

やがて閉店時間が近づいてきた。

店には安藤たちのほかに、もう一組のお客様がいた。

女の子たちの終電も近づいていたため、美月は安藤に声をかけた。

『安藤さん、そろそろみんなで帰りましょうか?』

銀座では、お客様が「帰る」と言うまでは、店側から露骨に帰りを促さないのが昔からの慣例だった。

けれど美月には、

『そろそろ、みんなで帰りましょうか』

という言葉を使う癖があった。

ところが――

『えっ、もう閉店なの?』

木村が大声を出した。

『私、まだ帰りたくない! ママ、いいでしょう? まだ他にもお客さんいるし』

『ええ……』

美月は曖昧に笑った。

けれど、もう木村がかなり酔っていることは明らかだった。

声は大きく、呂律も怪しくなっている。

そして突然、木村が安藤のほうへ身を乗り出した。

『ねえ、安藤さん。ちょっと聞いてくれる?』

『どうした?』

『ここだけの話なんだけど……この前、すごいことがあったの』

『すごいこと?』

木村は、少し得意そうな顔をした。

『急に伊藤店長が辞めたでしょう? あれって、どうしてだと思う?』

安藤は少し考えて答えた。

『いや……何か辞める事情があったんだろう』

『それがさ――』

木村は声を落とすどころか、むしろ面白がるように続けた。

『ママの早とちりで、伊藤店長が売上のお金を取ったって決めつけられて、いきなり辞めさせられたのよ』

『えっ……』

安藤の顔色が変わった。

『それはひどいね。証拠とか、ちゃんと調べたりしなかったの?』

『そうなのよ』

木村は、すっかり酔いが回っていた。

『最初から疑ってね。“あなたはもう来なくていいわ”って』

『それじゃ、伊藤店長が可哀想だよ。あんなに店のために尽くしてきたのに……。そんな簡単に辞めさせたら、恨みも残るだろう』

『そうよ』

木村は頷いた。

『その日以来、伊藤店長は銀座にも来なくなったの。今どうしているのか、私も分からない』

安藤は首を傾げた。

『夕子ママって、そんな性格だったかな。もっと柔軟な人だと思っていたけど……』

木村は、待っていたかのように言った。

『私が言いたいのは、そこなのよ』

そして、少し酔った目で安藤を見た。

『最近の夕子ママ……変なのよ。かなり変』

『木村さん……』

安藤は思わず声を落とした。

『そんなこと、言って大丈夫なのか?』

これ以上、何を言い出すのか。

安藤は不安になり、話を止めようとした。

けれど木村は、もう止まらなかった。

店には、もう一組のお客様がいた。

なぜか、その人たちまでこちらの話を聞いているような気がした。

『いいのよ。絶対変よ』

木村は言い切った。

『最近、特に疑り深いというか……もう、訳分かんないんだから』

『分かった、分かったから。もう帰ろうよ』

安藤は、これ以上話が大きくなる前に木村を席から立たせようとした。

すると木村は、急に甘えるような声を出した。

『そう? じゃあ安藤さん、もう一軒行こうよ』

そう言って、安藤の首に腕を回した。

『ちょっと、木村さん……』

安藤は苦笑するしかなかった。

ようやく木村が席を立ち、安藤と一緒に店を出ていった。

店内に静けさが戻った。

すると、最後まで残っていたもう一組のお客様も、しばらくして帰り支度を始めた。

そして店を出る直前、美月に小さな声で話しかけた。

『ねえ……さっきの話、聞こえちゃったんだけど』

美月は黙ってその人を見る。

『夕子ママって、あの夕子ママだろう?』

『……はい』

『伊藤店長も大変だったね。俺も、なんで急に辞めたんだろうって思ってたんだよ』

美月は、しばらく黙っていた。

そして、迷いながら口を開いた。

『そうなのよ……。伊藤店長が可哀想で堪らないの』

『何かあったの?』

『疑われたお金は、結局キャッシャーの裏に落ちていたらしいの。それが見つかったのは、店長が辞めた後だったって聞いたわ』

『……それは、無念だっただろうね』

美月は小さく頷いた。

『きっと、すごく無念だったと思う』

そのお客様も、それ以上は何も言わずに帰っていった。

扉が閉まる。

静かな店内に、美月だけが残った。

その夜、木村が酒に任せて口にした話は、銀座のどこかへ流れていった。

そして――

夕子の耳に届くまでに、

そう長い時間はかからなかった。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す