夕子の店には、経理を担当する木村という事務員がいた。
かれこれ8年。
細かな数字を一つひとつ追い、売上や経費を管理する、店にとってなくてはならないベテラン社員だった。
若い頃に一度結婚したことがある。
けれど、何か事情があったのか、その後は独身を貫いていた。
仕事中の木村は、几帳面で真面目だった。
無駄口も少なく、数字の間違いには誰よりも厳しい。
そんな木村には――
夕子も知らない、もう一つの顔があった。
仕事が終わり、夕方になると、人が変わったように酒を求めるのだ。
真っ直ぐ家に帰ったためしがない。
自宅近くには、いつも通う行きつけのスナックがあった。
そこへ行けば、閉店近くまで飲み続ける。
酒が入ると声は大きくなり、やがて話す、叫ぶ、笑う、そして眠る。
典型的な酔っ払いの飲み方だった。
本人は常連のつもりでも、店のオーナーも他のお客様も、正直なところ持て余していた。
けれど、本人だけはそんなことなど気にしていない。
酒さえ飲めれば、それで満足だった。
夕子のお客様に、野菜や果物を扱う卸会社の社長、安藤という男性がいた。
安藤は珍しい果物が入ったときや、旬の野菜が手に入ったときなど、自ら夕子の自宅兼事務所まで届けに行くことがあった。
いつの間にか木村とも顔見知りになり、
『今日はこんなものが入ったんですよ』
などと商品を届けては、事務所で小一時間ほど話をして帰る。
そんな付き合いだった。
ある日、安藤が木村を飲みに誘った。
安藤は夕子ママのお客様だったが、美月の店にも時々顔を出していた。
その日は二人で『クラブ 結』へ行くことになった。
店に入るなり、安藤はいつもの調子で声を張った。
『美月ママ、今日は珍しい人を連れてきたよ! 夕子ママのところの事務員さんで、木村さんです!』
『あら、夕子ママのところの木村さんですね。今日はお越しいただいて嬉しいわ』
美月は笑顔で迎えながらも、胸の奥では少しだけ緊張していた。
――夕子ママのところの人……。
最近、夕子との間には、少しずつ距離ができている。
しかも銀座では、誰と誰が付き合っているのか、誰と誰が揉めているのかなど、思わぬところから話が伝わっていく。
できれば避けたい。
けれど、お客様が連れてきた人を拒むわけにもいかない。
――今日は余計なことを言わないでおこう。
美月はそう心に決めた。
ところが木村は、席に着くなり少し高圧的な口調で言った。
『美月ママとお会いするの、初めてですよね。でも、よくお名前は聞いていたから、なんだか初めてという感じがしませんね』
美月は笑って受け流した。
木村の中では、夕子ママが美月より上にいる。
そして、その夕子ママのところで働いている自分も、どこか上の立場にいる。
そんな意識があるのかもしれない。
それが態度の端々に滲んでいた。
けれど、夕子の名前が背後にあると思うと、美月は余計なことを言わず、ただ聞き流すしかなかった。
時間が経つにつれて、美月は別のことに驚き始めた。
木村の酒を飲むペースが、とにかく速い。
『木村さん……少しお飲みになるのが早いようですが、大丈夫ですか?』
『ママ! これくらい、まだ始まったばかりよ!』
木村は大きな声で笑った。
『全然大丈夫だから、気にしないで』
安藤も笑う。
『そうだよ。この木村さんは酒豪だからね。俺なんかより倍は飲むよ』
『まあ……』
美月は苦笑した。
けれど、その「酒豪」という言葉が、後になって別の意味を持つことになるとは、このときの美月は知る由もなかった。
やがて閉店時間が近づいてきた。
店には安藤たちのほかに、もう一組のお客様がいた。
女の子たちの終電も近づいていたため、美月は安藤に声をかけた。
『安藤さん、そろそろみんなで帰りましょうか?』
銀座では、お客様が「帰る」と言うまでは、店側から露骨に帰りを促さないのが昔からの慣例だった。
けれど美月には、
『そろそろ、みんなで帰りましょうか』
という言葉を使う癖があった。
ところが――
『えっ、もう閉店なの?』
木村が大声を出した。
『私、まだ帰りたくない! ママ、いいでしょう? まだ他にもお客さんいるし』
『ええ……』
美月は曖昧に笑った。
けれど、もう木村がかなり酔っていることは明らかだった。
声は大きく、呂律も怪しくなっている。
そして突然、木村が安藤のほうへ身を乗り出した。
『ねえ、安藤さん。ちょっと聞いてくれる?』
『どうした?』
『ここだけの話なんだけど……この前、すごいことがあったの』
『すごいこと?』
木村は、少し得意そうな顔をした。
『急に伊藤店長が辞めたでしょう? あれって、どうしてだと思う?』
安藤は少し考えて答えた。
『いや……何か辞める事情があったんだろう』
『それがさ――』
木村は声を落とすどころか、むしろ面白がるように続けた。
『ママの早とちりで、伊藤店長が売上のお金を取ったって決めつけられて、いきなり辞めさせられたのよ』
『えっ……』
安藤の顔色が変わった。
『それはひどいね。証拠とか、ちゃんと調べたりしなかったの?』
『そうなのよ』
木村は、すっかり酔いが回っていた。
『最初から疑ってね。“あなたはもう来なくていいわ”って』
『それじゃ、伊藤店長が可哀想だよ。あんなに店のために尽くしてきたのに……。そんな簡単に辞めさせたら、恨みも残るだろう』
『そうよ』
木村は頷いた。
『その日以来、伊藤店長は銀座にも来なくなったの。今どうしているのか、私も分からない』
安藤は首を傾げた。
『夕子ママって、そんな性格だったかな。もっと柔軟な人だと思っていたけど……』
木村は、待っていたかのように言った。
『私が言いたいのは、そこなのよ』
そして、少し酔った目で安藤を見た。
『最近の夕子ママ……変なのよ。かなり変』
『木村さん……』
安藤は思わず声を落とした。
『そんなこと、言って大丈夫なのか?』
これ以上、何を言い出すのか。
安藤は不安になり、話を止めようとした。
けれど木村は、もう止まらなかった。
店には、もう一組のお客様がいた。
なぜか、その人たちまでこちらの話を聞いているような気がした。
『いいのよ。絶対変よ』
木村は言い切った。
『最近、特に疑り深いというか……もう、訳分かんないんだから』
『分かった、分かったから。もう帰ろうよ』
安藤は、これ以上話が大きくなる前に木村を席から立たせようとした。
すると木村は、急に甘えるような声を出した。
『そう? じゃあ安藤さん、もう一軒行こうよ』
そう言って、安藤の首に腕を回した。
『ちょっと、木村さん……』
安藤は苦笑するしかなかった。
ようやく木村が席を立ち、安藤と一緒に店を出ていった。
店内に静けさが戻った。
すると、最後まで残っていたもう一組のお客様も、しばらくして帰り支度を始めた。
そして店を出る直前、美月に小さな声で話しかけた。
『ねえ……さっきの話、聞こえちゃったんだけど』
美月は黙ってその人を見る。
『夕子ママって、あの夕子ママだろう?』
『……はい』
『伊藤店長も大変だったね。俺も、なんで急に辞めたんだろうって思ってたんだよ』
美月は、しばらく黙っていた。
そして、迷いながら口を開いた。
『そうなのよ……。伊藤店長が可哀想で堪らないの』
『何かあったの?』
『疑われたお金は、結局キャッシャーの裏に落ちていたらしいの。それが見つかったのは、店長が辞めた後だったって聞いたわ』
『……それは、無念だっただろうね』
美月は小さく頷いた。
『きっと、すごく無念だったと思う』
そのお客様も、それ以上は何も言わずに帰っていった。
扉が閉まる。
静かな店内に、美月だけが残った。
その夜、木村が酒に任せて口にした話は、銀座のどこかへ流れていった。
そして――
夕子の耳に届くまでに、
そう長い時間はかからなかった。