『紬ちゃん、こんばんは。紗和ママは?』
何の前触れもなく突然訪ねた美月ママは
なにげなさを装って聞いた。
すると、紬の表情が一瞬曇った。
『それが……』
『それが、どうしたの? 病気で休んでいるの?』
紬は少し迷うようにしてから、静かに答えた。
『紗和ママ……もう半月くらい来ていません』
『……えっ?』
美月は思わず聞き返した。
『半月って……そんなに?』
言葉が出なかった。
驚きより先に、胸の奥から別の感情が込み上げてくる。
――いったい、どういうことなの?
店を任せているママが、半月も店に来ていない。
しかも、自分には何の連絡もない。
美月は、その場ではそれ以上何も言わなかった。
けれど、結へ戻る道すがら、胸の中にあったものが少しずつ形を変えていった。
驚きが、怒りへ。
そして怒りは、決意へと変わっていった。
――もう、紗和には任せておけない。
そう思った瞬間、何かがすっと冷めていくのを感じた。
LUNAの売上が急落した理由。
その原因が、はっきり見えた気がした。
店を任された人間が、店にいない。
それなら、店がうまくいくはずがない。
美月は結に戻ってからも、そのことばかり考えていた。
腹が立つ。
悔しい。
そして何より、自分自身に腹が立った。
――私は、どうして見抜けなかったんだろう。
紗和を選んだのは自分だった。
『お客様をたくさん持っている』
その言葉に惹かれ、二軒目の店を任せることを決めた。
けれど、お客様を持っていることと、店を任せられることは同じではなかった。
美月は、ようやくその違いを思い知らされた。
そして翌日。
美月は紗和を喫茶店に呼び出した。
約束の時間になると、紗和は時間ぴったりに現れた。
いつものような強気な雰囲気はあった。
どこか、ふてぶてしささえ感じる。
その姿を見た瞬間、美月の胸に、また別の思いがよぎった。
――私の人を見る目がなかった。
怒鳴りたいわけではなかった。
責め立てたいわけでもなかった。
もう、言い争う段階は終わっている。
美月は静かに紗和を見つめた。
そして、まっすぐにその目を見た。
『……わかっているよね』
紗和は黙って美月を見る。
ほんの一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
美月は声を荒らげることなく、淡々と告げた。
『もうLUNAは閉店することに決めたわ』
紗和は少しだけ目を伏せた。
そして、
『ええ……そうすると思いました』
それだけだった。
あれほど気の強かった紗和が、反論もしない。
言い訳もしない。
ただ、下を向いた。
その姿を見て、美月は何も言わなかった。
怒りをぶつければ、一瞬だけ気持ちは晴れるかもしれない。
けれど、それで失った時間が戻るわけでもない。
LUNAを始めたときに抱いた、あの期待も。
2軒目の店を持つことへの、あの高揚感も。
もう、終わったのだ。
こうして、LUNAの短い営業の灯は消えることになった。
あまりにも、あっけない最後だった。
華やかな銀座の街に生まれた、もうひとつの月。
その月は、思っていたよりずっと早く、夜の闇へ消えていった。
店を閉める最後の日。
誰もいないフロアに立ち、美月はしばらくその空間を見つめていた。
椅子も、テーブルも、カラオケも。
そこに人の気配がなくなると、つい昨日まで賑わっていた場所とは思えないほど静かだった。
灯りの消えた店内は、何も語らない。
ただ、そこにあった時間だけが、静かに残っていた。
美月は思った。
形あるものは、いつか壊れる。
始まったものには、必ず終わりが来る。
でも――
この失敗も、決して無駄ではない。
人を見る目。
人を信じること。
そして、人に何かを任せるということ。
そのすべてを、私はこの店から教えてもらった。
苦い経験だった。
けれど、その苦さがあるからこそ、私はまた一つ強くなれる。
美月は最後にもう一度、誰もいない店内を見渡した。
そして、ゆっくりとLUNAの扉を閉めた。
カチリ。
小さな音が、長かった一日の終わりを告げた。
それから、しばらくして。
結とLUNAには共通のお客様もいたため、美月の耳には、少しずつ後日談が入ってきた。
紗和が、なぜ半月も店を休んでいたのか。
その理由を聞いたとき、美月は思わず言葉を失った。
どうやら紗和は、同棲していた彼と別れたあと、新しい恋人ができたらしい。
その男性は、毎晩のようにLUNAへやって来たという。
そして紗和は、その男性につきっきりだった。
他のお客様にはろくに挨拶もせず、まるでそこに誰もいないかのように振る舞っていたという。
そして、その彼は――
ものすごく嫉妬深い男だった。
やがて、
『もう店に出るな』
そう言われ、紗和は本当に店を休むようになったらしい。
半月もの間。
店を任されていたママが、恋人の言葉ひとつで店を離れていた。
美月は、その話を聞きながら、なんとも言えない気持ちになった。
それはきっと、紗和にとっては、
愛するがゆえの逃避行だったのかもしれない。
好きな人に求められれば、そちらを選びたくなる。
若ければなおさら、そういうこともある。
けれど――
店を任された人間には、それとは別の責任がある。
誰かから預かった店なら、
自分の感情だけでは動けない。
お客様がいる。
働いている女の子がいる。
そして、その店を作るためにお金も時間も費やしたオーナーがいる。
恋をすることが悪いわけではない。
愛することが悪いわけでもない。
ただ、美月には一つだけ、どうしても譲れないものがあった。
覚悟。
店を任されたのなら、それなりの覚悟を持たなければならない。
けれど、まだ若かった紗和にとっては、
仕事よりも、店よりも、
そのときは――
愛のほうが大きかったのだろう。
それは、火を見るより明らかなことだった。
美月は、もう閉じたLUNAを思い出した。
そして心の中で、ほんの少しだけ苦笑した。
もし今、目の前に紗和がいたなら――
きっと私は、こう言ってしまう。
『愛も大事よ。でもね……店を任されたのなら、愛より覚悟でしょ』
それが、経営者としての美月の本音だった。
そしてその言葉は、
LUNAという短い夢の終わりとともに、
美月自身の胸にも、深く刻まれていった。