ここは『クラブ 結』からほど近い場所にある喫茶店『双葉』。
昼間は近所の会社員や買い物客で賑わっているが、夜になると銀座のクラブで働く人間たちがひっそりと集まる場所でもあった。
店長やマネージャーが女の子と待ち合わせをし、新しい店の話を持ちかける。
いつしかこの店は、夜の世界の人間たちから「面接会場」のような場所だと言われるようになっていた。
その日の夕方。
蓉子と恵美は、向かい合って座っていた。
しかし、和やかな空気とはほど遠かった。
『蓉ちゃんさ、いったい何を考えてるの?』
恵美は腕を組み、厳しい目で蓉子を見つめた。
『美月ママに何か恨みでもあるわけ?』
『そんなことじゃないですよ』
蓉子は少し困ったように笑った。
『美月ママに恨みなんて、考えたこともありません。ただ……私がお店を任せてもらえるかもしれないことになって。それで恵美さんにも一緒に来てもらえたらと思っただけです』
『じゃあ聞くけど』
恵美の声が少し低くなった。
『私以外にも奈津子さんを誘ったの?』
蓉子は一瞬、言葉に詰まった。
『……はい』
『美月ママから聞いたわ。奈津子さん辞めるって』
『ええ』
『蓉ちゃん。長くいた子が一度に3人もいなくなったら、『結』はどうなると思う?』
『……』
『残るのは唯ちゃんと、あとはまだ入ったばかりの子たちじゃない』
『まあ、そうなるかもしれませんけど……』
『それでも、私たちが心配することじゃないって言うの?』
蓉子は思わず視線を逸らした。
『恵美さん、それは……』
『もういいわ』
恵美は静かに立ち上がった。
『あなたには、銀座のルールも恩もないようね』
『そんな言い方……』
『長く一緒に働いてきた店を出ることが悪いって言ってるんじゃないの』
恵美は蓉子を見つめた。
『でもね。出るなら出るなりの筋の通し方ってものがあるでしょう』
蓉子は何も言えなかった。
『まあ、同僚だったよしみで、美月ママには黙っているわ』
そしてテーブルの上にお金を置いた。
『もし本当にお店を任されるなら、一度ちゃんと美月ママに話したほうがいいと思う』
『お茶代は私が誘ったんだから……』
『いいの』
恵美は蓉子の言葉を遮った。
『あなたに借りを作るつもりはないから』
そう言うと、恵美は店を出て行った。
後には、冷めかけたコーヒーと蓉子だけが残された。
蓉子は深く息を吐いた。
恵美が、あれほどまでに美月ママに思い入れを持っていたとは思わなかった。
長く同じ店で働いていると、知らず知らずのうちに情が生まれるのだろうか。
それとも、自分の考え方があまりにも甘かったのか。
人探しは思った以上に難航していた。
そして、時間だけが過ぎていく。
蓉子の心には焦りが生まれていた。
――次は奈津子さん。
どうしても彼女だけは欲しかった。
いや。
真田マスターが欲しがっている以上に、今の蓉子には奈津子の存在が必要だった。
『クラブビー』を始めるなら、自分一人では心許ない。
奈津子がいれば。
そう思う気持ちが、日に日に強くなっていた。
*
その夜。
『結』は金曜日ということもあり、店内は満席だった。
お客様たちはまだ帰る気配もなく、あちこちで笑い声が響いている。
けれど蓉子は、あらかじめ用事があると伝えていた。
美月ママの視線を感じながら、奈津子を連れて店を出た。
少しだけ胸が痛んだ。
しかし今は、振り返ることができなかった。
二人が向かったのは『クラブビー』だった。
店のドアを開けると、いつものように真田マスターが一人、カウンターの端に座っていた。
赤ワインのグラスを手にしている。
最近、誰かから「赤ワインは体にいい」と聞いたらしく、毎晩のように飲んでいるらしい。
蓉子はふと店内を見回した。
――この店、本当にお客様は入っているのかしら。
そんな不安が、一瞬だけ頭をよぎった。
『今晩は。マスター、奈津子さんをお連れしました』
『おお、お疲れさん』
真田マスターは笑顔を見せた。
『さあ、こっちへ座って』
テーブル席を指さした。
『あら、カウンターでいいですよ』
奈津子はすぐにそう言った。
『今日は長居するつもりもないので』
その言い方には、どこか牽制するような響きがあった。
真田マスターは苦笑した。
『まあまあ。せっかく来たんだから、少しくらい話そうよ。今日は金曜だしね』
『飲み物は何にする?』
『私はマスターと同じ赤ワインをいただきます』
蓉子が答えると、奈津子も続いた。
『じゃあ、私も同じものを』
真田マスターはワインを注ぎながら言った。
『今日のはフランスの――』
『マスター』
奈津子が言葉を遮った。
『すみません。私が今日ここへ来た理由を、先にお聞きしてもいいですか?』
真田マスターの手が止まった。
『蓉子ちゃんからだいたいのことは聞きました。でも、正直まだよく分からなくて』
奈津子は真田マスターの目を見た。
『もし私がこのお店に来たとして、私にはどんなメリットがあるんですか?』
その言葉に、蓉子の背筋が伸びた。
奈津子は続けた。
『実は、他のお店からもかなりいい条件で誘われているんです』
その声には、少しだけ自信があった。
真田マスターはゆっくりとグラスを置いた。
『そうだろうね』
そして、奈津子をじっと見た。
『奈津子さんには人を引きつける力がある。今の『結』だけにいるのは、もったいないと思っていたよ』
奈津子は何も言わない。
『ここで蓉子ちゃんと一緒に、この店をやってみないかい』
『……報酬は?』
単刀直入だった。
蓉子は思わず奈津子の横顔を見た。
真田マスターは少し笑った。
『まあ、細かいことはこれから決めればいい。でも分かりやすく言うなら―』
一度、言葉を切った。
『1か月の売上から必要な経費を引いた残りを、蓉子ちゃんと二人で半分ずつ』
『半分?』
奈津子の目がわずかに動いた。
『例えば、月の売上が500万円だったとする』
真田マスターは指を折りながら続けた。
『家賃、女の子の給料、酒の仕入れ。その他の経費を全部合わせて200万円』
『残りは300万円』
蓉子が小さく呟いた。
『そう。その300万円を二人で分ける』
真田マスターは奈津子を見た。
『一人、150万円だ』
その瞬間。
奈津子の表情が変わった。
『……150万?』
『もちろん、売上によるけどね』
『月に500万も売上があるんですか?』
『それは2人の頑張り次第さ』
真田マスターは軽く笑った。
奈津子は黙ってグラスを見つめていた。
その頭の中に、どんな計算が浮かんでいたのだろう。
月に150万円。
その数字だけが、妙に現実味を持って彼女の心に入り込んでいった。
『奈津子さん』
蓉子がそっと近づいた。
『一緒にやろうよ』
奈津子は顔を上げた。
『私たちで、この店を盛り上げるの』
『……そうね』
しばらくの沈黙の後、奈津子が小さく笑った。
『面白そうじゃない』
その言葉を聞いた瞬間、真田マスターはグラスを持ち上げた。
『よし。決まりだな』
そして、少し大げさに笑った。
『奈津子ママの誕生だ。乾杯しよう!』
『もう、マスターったら』
奈津子は照れたように笑った。
けれど、その瞳には先ほどまでとは違う光が宿っていた。
――150万円。
たった一つの数字が、人の心を動かすことがある。
半分。
その甘い響きが奈津子の心を掴んだのか。
それとも、自分ならもっと稼げるという自信が芽生えたのか。
この時、奈津子はまだ知らなかった。
真田マスターが口にした数字は、未来を約束するものではない。
あくまでも――
売上が上がれば。
経費を差し引いて、残れば。
そして何より、
その条件がいつまで続くのか。
そんなことは、まだ何一つ決まっていなかった。
けれど人は時に、目の前に差し出された数字だけを見てしまう。
そこに至るまでの道のりや、その数字を受け取るために何を失うのかまでは考えずに。
奈津子はグラスを手に取った。
『じゃあ、乾杯』
3つのグラスが静かに触れ合った。
その夜。
3人はそれぞれ違う未来を思い描きながら、同じワインを飲んでいた。
誰もまだ気づいていなかった。
この小さな乾杯が、
やがて3人の思惑を大きく狂わせることになることを。
甘い言葉と、甘い数字。
その夜『クラブビー』で交わされた約束は、
まだ誰のものでもない未来に向けて、
静かに動き始めていた。