【連載小説】第119話 甘い計画

【連載小説】第119話 甘い計画

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蓉子は奈津子が店を辞めるという話を聞いた時から、言い知れぬ運命のようなものを感じていた。

まるで何かに導かれるように、偶然が次々と重なっていく。

――もしかしたら、私にママになれと言っているのかもしれない。

そんな思いが、頭から離れなかった。

『奈津子さん、聞いてくれる?』

蓉子は少し興奮した声で電話をかけた。

『まだ雲を掴むような話なんだけどね。私、銀座のあるお店を一軒任せてもらえるかもしれないの。まだ返事はしてないんだけど』

『蓉ちゃん、凄いじゃない!』

奈津子の明るい声が電話の向こうから聞こえた。

『今、銀座は潰れるお店も多いって聞くし、やっていくのは簡単じゃないでしょう? でも新しくお店を出すなんて、私なんか夢のまた夢だわ』

『ううん、新規オープンって訳じゃないの。今営業しているお店なんだけど、ママが辞めてしまって、新しいママを探しているんですって。それで、なぜか私に話が来たのよ』

『へえ……』

『ただね、私一人という訳じゃなくて。奈津子さんも一緒にっていう話なの』

『え? 私も?』

奈津子の声が少し高くなった。

『びっくりした。それってすぐにという話なの? それに、その店ってどんな感じ? そもそも誰からの話なの?』

『ごめん、私の説明、全然なってないわね』

蓉子は思わず笑った。

『お店の名前は“クラブビー”。銀座六丁目のコリドー街の近くにあるの。そこのマスターが真田さんといって、以前“結”にも来たことがあるのよ』

『ああ……』

『その時に奈津子さんを見て、ぜひ来てほしいと思ったみたい。今はママも辞めてしまったし、できれば早く新しい体制を作りたいんじゃないかな。お店も今の“結”より広くて、なかなかいい店よ』

そして蓉子は、少し間を置いて言った。

『どう? 奈津子さん。一緒に移らない?』

しかし、奈津子の返事は蓉子が想像していたものとは少し違っていた。

『何だか急な話ね。今すぐ返事をするのは難しいわ』

『そうよね』

『唯ちゃんの紹介のお店のこともあるし、まずはその真田さんにお会いして詳しい話を聞かないと。お給料のこともあるし、無責任に返事はできないじゃない』

『そうよね。分かったわ。これからマスターに連絡して都合を聞いてみる。また電話するわね』

電話を切ったあと、蓉子はしばらく考え込んだ。

奈津子といえば、明るくて豪快で、細かいことなど気にしない女性。

そんなイメージを勝手に抱いていた。

けれど、今の奈津子は違った。

思っていた以上に現実的で、冷静だった。

――私のほうが、よほど何も考えていなかったのかもしれない。

そう思った時、蓉子ははっとした。

自分はまだ、真田マスターから詳しい条件を何ひとつ聞いていない。

売上の何パーセントを給料にする――。

そんな曖昧な話を聞いただけで、「ママになれる」という言葉に心を奪われていた。

一度きちんと話を聞かなければ。

蓉子は約束の月曜日を待たず、その日のうちにクラブビーへ向かった。

未来を確かめるために。

『今晩は』

ドアを開けると、真田マスターがカウンターの中から顔を上げた。

『おう、蓉子ちゃん。待ってたよ』

そして蓉子の顔を見るなり、意味ありげに笑った。

『いい返事を持ってきた顔だね』

『え?』

『分かるさ。蓉子ちゃんの目が生き生きしてる』

『マスターには隠し事ができないですね』

蓉子はそう言うと、さっそく奈津子から電話があったことを話した。

母親が入院したこと。

急にお金が必要になったこと。

そして、より条件のいい店へ移ろうとしていること。

『これって、チャンスですよね?』

蓉子の言葉に、真田はゆっくりとうなずいた。

『ああ。これほどタイミングのいい話はないな』

『それで、奈津子さんに話してみたんですけど……物事はそう簡単にはいかないですね。まずお給料の話を聞きたいみたいで』

『なるほどな』

真田はロックグラスを手に取った。

『まあ、当然だろうな』

『お母様の入院費のこともあるのかもしれません。でも、あんなにしっかりしている人だとは思わなかったから。どんな条件を出してくるのか、ちょっと分からなくて』

真田はグラスの中のウイスキーを見つめながら言った。

『人間、生活がかかれば現実的になるものさ』

そして、少しだけ声を低くした。

『ただな。銀座で高い給料をもらうってことは、それだけのものを求められる場合もある』

『どういうことですか?』

『厳しいノルマがあったり、売上を追いかけなきゃならなかったりな。稼げると思って店を移ったのに、気がついたら自分で抱え込んだ問題に苦しんでいる……そんな話も珍しくない』

『そんなことって、本当にあるんですか?』

『蓉子ちゃんはまだまだ知らないよ。銀座の表からは見えないことなんて、山ほどある』

その言葉に、蓉子は少し不安になった。

銀座に来て一年。

分かったつもりになっていたけれど、本当は何も知らないのかもしれない。

『何だか、怖くなってきました』

すると真田は笑った。

『蓉子ちゃんは大丈夫だよ』

その言葉は、不思議なくらい優しかった。

『今の“結”でも売上だけを追いかけている訳じゃないだろ。それに、そんな極端な話ばかりじゃない』

そして真田は、ふっと表情を変えた。

『そんなことより、蓉子ちゃん』

『はい』

『ここのママになる決心はついたのかな?』

蓉子は少しだけ黙った。

真田からこの話を聞いて以来、「ママ」という言葉が頭から離れなかった。

自分にできるだろうか。

まだ銀座に来て一年。

お客様だって、決して多い訳ではない。

それでも――。

『そのことで、今日お伺いしました』

蓉子はゆっくりと言った。

『マスターからここのお話を伺ってから、ずっと考えていました。そして……思い切って、やってみたくなりました』

真田の顔がぱっと明るくなった。

『やあ、それは嬉しいね。決心してくれたんだ』

『ええ。ただ、奈津子さんのことですけど……ここに来てくれるか自信がなくて』

『まあ、そうだろうな』

『私一人では、やはり限界があると思うんです。“結”のお客様を呼ぶにしても、奈津子さんの力は大きいですから』

真田はしばらく考え込んでいた。

『正直に言えば、奈津子さんの動員力は魅力だな』

『ですよね』

すると真田は急に顔を上げた。

『よし。じゃあ、ここで作戦会議といこうか』

『作戦?』

蓉子は思わず笑った。

『マスター、面白いこと言って』

『人生は、少しくらい作戦を立てたほうが面白い』

真田は指を一本立てた。

『作戦その1』

『始まりましたね』

『奈津子さんには、店の利益に応じた歩合を出す。頑張れば頑張っただけ、自分に返ってくる形だ』

『売上の半分くらいってことですか?』

『もちろん、店を維持するための経費を差し引いた上での話だ』

『それじゃ、私も半分いただけるんですか? マスターの取り分がなくなっちゃいますよ』

『何のための作戦会議なんだよ』

真田は笑った。

『家賃もある。仕入れもある。ヘルプの給料もある。そして俺だって、ただ働きする訳じゃない』

『そうですよね』

『店っていうのは、見えている売上だけじゃ成り立たないんだ』

蓉子はうなずいた。

『それで、残った分を二人で分けるということですね』

『そういうことだ』

真田は続けた。

『作戦その2。売上金や売掛の管理は、全部蓉子ちゃんに任せたい』

『私に?』

『あくまで蓉子ちゃんがママなんだからな。店の金の流れも分かっていないと、本当の意味で店を任せることはできない』

『それじゃ、お給料も私が決めるんですか?』

『基本的には、蓉子ちゃんに任せる』

その言葉に、蓉子の胸が高鳴った。

――私がママ。

その言葉が、少しずつ現実のものになっていく。

そして真田は、もう一本指を立てた。

『作戦その3』

『まだあるんですね』

『お給料のことも大事だが、それ以上に大事なのは、お客様との関係だ』

蓉子は真田の顔を見た。

『奈津子さんには、できるだけ早くお客様を紹介してもらう。そして蓉子ちゃんも、そのお客様と仲良くなるんだ』

『もし奈津子さんが辞めても……』

『そういうことだ』

真田はあっさりとうなずいた。

『人はいつまでも同じ場所にはいない。だから店は、誰か一人だけに頼ってはいけないんだよ』

蓉子は、しばらく黙っていた。

そして、ふっと笑った。

『マスターの考えていることが、だんだん分かってきました』

『ということは?』

『最初はいい条件を出してでも奈津子さんに来てもらう。そして、お客様にもクラブビーを気に入ってもらう』

真田は満足そうに笑った。

『さすが蓉子ちゃんだ。俺の目に狂いはなかったな』

その夜。

クラブビーのカウンターで、二人は何度もグラスを重ねながら、まだ見ぬ未来について語り合った。

蓉子にとって、それは夢への第一歩だった。

自分がママになる。

奈津子と一緒に、新しい店を作る。

今までとは違う人生が始まる。

その未来は、蓉子の目には眩しいほど輝いて見えていた。

けれど――。

同じ計画を聞きながら、2人が見ていた未来は、決して同じものではなかった。

蓉子は夢を見ていた。

真田は店の未来を計算していた。

そしてまだこの時、蓉子は知らなかった。

その甘い計画が、

やがて自分の人生を大きく揺るがすことになるとは。
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