蓉子は奈津子が店を辞めるという話を聞いた時から、言い知れぬ運命のようなものを感じていた。
まるで何かに導かれるように、偶然が次々と重なっていく。
――もしかしたら、私にママになれと言っているのかもしれない。
そんな思いが、頭から離れなかった。
『奈津子さん、聞いてくれる?』
蓉子は少し興奮した声で電話をかけた。
『まだ雲を掴むような話なんだけどね。私、銀座のあるお店を一軒任せてもらえるかもしれないの。まだ返事はしてないんだけど』
『蓉ちゃん、凄いじゃない!』
奈津子の明るい声が電話の向こうから聞こえた。
『今、銀座は潰れるお店も多いって聞くし、やっていくのは簡単じゃないでしょう? でも新しくお店を出すなんて、私なんか夢のまた夢だわ』
『ううん、新規オープンって訳じゃないの。今営業しているお店なんだけど、ママが辞めてしまって、新しいママを探しているんですって。それで、なぜか私に話が来たのよ』
『へえ……』
『ただね、私一人という訳じゃなくて。奈津子さんも一緒にっていう話なの』
『え? 私も?』
奈津子の声が少し高くなった。
『びっくりした。それってすぐにという話なの? それに、その店ってどんな感じ? そもそも誰からの話なの?』
『ごめん、私の説明、全然なってないわね』
蓉子は思わず笑った。
『お店の名前は“クラブビー”。銀座六丁目のコリドー街の近くにあるの。そこのマスターが真田さんといって、以前“結”にも来たことがあるのよ』
『ああ……』
『その時に奈津子さんを見て、ぜひ来てほしいと思ったみたい。今はママも辞めてしまったし、できれば早く新しい体制を作りたいんじゃないかな。お店も今の“結”より広くて、なかなかいい店よ』
そして蓉子は、少し間を置いて言った。
『どう? 奈津子さん。一緒に移らない?』
しかし、奈津子の返事は蓉子が想像していたものとは少し違っていた。
『何だか急な話ね。今すぐ返事をするのは難しいわ』
『そうよね』
『唯ちゃんの紹介のお店のこともあるし、まずはその真田さんにお会いして詳しい話を聞かないと。お給料のこともあるし、無責任に返事はできないじゃない』
『そうよね。分かったわ。これからマスターに連絡して都合を聞いてみる。また電話するわね』
電話を切ったあと、蓉子はしばらく考え込んだ。
奈津子といえば、明るくて豪快で、細かいことなど気にしない女性。
そんなイメージを勝手に抱いていた。
けれど、今の奈津子は違った。
思っていた以上に現実的で、冷静だった。
――私のほうが、よほど何も考えていなかったのかもしれない。
そう思った時、蓉子ははっとした。
自分はまだ、真田マスターから詳しい条件を何ひとつ聞いていない。
売上の何パーセントを給料にする――。
そんな曖昧な話を聞いただけで、「ママになれる」という言葉に心を奪われていた。
一度きちんと話を聞かなければ。
蓉子は約束の月曜日を待たず、その日のうちにクラブビーへ向かった。
未来を確かめるために。
『今晩は』
ドアを開けると、真田マスターがカウンターの中から顔を上げた。
『おう、蓉子ちゃん。待ってたよ』
そして蓉子の顔を見るなり、意味ありげに笑った。
『いい返事を持ってきた顔だね』
『え?』
『分かるさ。蓉子ちゃんの目が生き生きしてる』
『マスターには隠し事ができないですね』
蓉子はそう言うと、さっそく奈津子から電話があったことを話した。
母親が入院したこと。
急にお金が必要になったこと。
そして、より条件のいい店へ移ろうとしていること。
『これって、チャンスですよね?』
蓉子の言葉に、真田はゆっくりとうなずいた。
『ああ。これほどタイミングのいい話はないな』
『それで、奈津子さんに話してみたんですけど……物事はそう簡単にはいかないですね。まずお給料の話を聞きたいみたいで』
『なるほどな』
真田はロックグラスを手に取った。
『まあ、当然だろうな』
『お母様の入院費のこともあるのかもしれません。でも、あんなにしっかりしている人だとは思わなかったから。どんな条件を出してくるのか、ちょっと分からなくて』
真田はグラスの中のウイスキーを見つめながら言った。
『人間、生活がかかれば現実的になるものさ』
そして、少しだけ声を低くした。
『ただな。銀座で高い給料をもらうってことは、それだけのものを求められる場合もある』
『どういうことですか?』
『厳しいノルマがあったり、売上を追いかけなきゃならなかったりな。稼げると思って店を移ったのに、気がついたら自分で抱え込んだ問題に苦しんでいる……そんな話も珍しくない』
『そんなことって、本当にあるんですか?』
『蓉子ちゃんはまだまだ知らないよ。銀座の表からは見えないことなんて、山ほどある』
その言葉に、蓉子は少し不安になった。
銀座に来て一年。
分かったつもりになっていたけれど、本当は何も知らないのかもしれない。
『何だか、怖くなってきました』
すると真田は笑った。
『蓉子ちゃんは大丈夫だよ』
その言葉は、不思議なくらい優しかった。
『今の“結”でも売上だけを追いかけている訳じゃないだろ。それに、そんな極端な話ばかりじゃない』
そして真田は、ふっと表情を変えた。
『そんなことより、蓉子ちゃん』
『はい』
『ここのママになる決心はついたのかな?』
蓉子は少しだけ黙った。
真田からこの話を聞いて以来、「ママ」という言葉が頭から離れなかった。
自分にできるだろうか。
まだ銀座に来て一年。
お客様だって、決して多い訳ではない。
それでも――。
『そのことで、今日お伺いしました』
蓉子はゆっくりと言った。
『マスターからここのお話を伺ってから、ずっと考えていました。そして……思い切って、やってみたくなりました』
真田の顔がぱっと明るくなった。
『やあ、それは嬉しいね。決心してくれたんだ』
『ええ。ただ、奈津子さんのことですけど……ここに来てくれるか自信がなくて』
『まあ、そうだろうな』
『私一人では、やはり限界があると思うんです。“結”のお客様を呼ぶにしても、奈津子さんの力は大きいですから』
真田はしばらく考え込んでいた。
『正直に言えば、奈津子さんの動員力は魅力だな』
『ですよね』
すると真田は急に顔を上げた。
『よし。じゃあ、ここで作戦会議といこうか』
『作戦?』
蓉子は思わず笑った。
『マスター、面白いこと言って』
『人生は、少しくらい作戦を立てたほうが面白い』
真田は指を一本立てた。
『作戦その1』
『始まりましたね』
『奈津子さんには、店の利益に応じた歩合を出す。頑張れば頑張っただけ、自分に返ってくる形だ』
『売上の半分くらいってことですか?』
『もちろん、店を維持するための経費を差し引いた上での話だ』
『それじゃ、私も半分いただけるんですか? マスターの取り分がなくなっちゃいますよ』
『何のための作戦会議なんだよ』
真田は笑った。
『家賃もある。仕入れもある。ヘルプの給料もある。そして俺だって、ただ働きする訳じゃない』
『そうですよね』
『店っていうのは、見えている売上だけじゃ成り立たないんだ』
蓉子はうなずいた。
『それで、残った分を二人で分けるということですね』
『そういうことだ』
真田は続けた。
『作戦その2。売上金や売掛の管理は、全部蓉子ちゃんに任せたい』
『私に?』
『あくまで蓉子ちゃんがママなんだからな。店の金の流れも分かっていないと、本当の意味で店を任せることはできない』
『それじゃ、お給料も私が決めるんですか?』
『基本的には、蓉子ちゃんに任せる』
その言葉に、蓉子の胸が高鳴った。
――私がママ。
その言葉が、少しずつ現実のものになっていく。
そして真田は、もう一本指を立てた。
『作戦その3』
『まだあるんですね』
『お給料のことも大事だが、それ以上に大事なのは、お客様との関係だ』
蓉子は真田の顔を見た。
『奈津子さんには、できるだけ早くお客様を紹介してもらう。そして蓉子ちゃんも、そのお客様と仲良くなるんだ』
『もし奈津子さんが辞めても……』
『そういうことだ』
真田はあっさりとうなずいた。
『人はいつまでも同じ場所にはいない。だから店は、誰か一人だけに頼ってはいけないんだよ』
蓉子は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
『マスターの考えていることが、だんだん分かってきました』
『ということは?』
『最初はいい条件を出してでも奈津子さんに来てもらう。そして、お客様にもクラブビーを気に入ってもらう』
真田は満足そうに笑った。
『さすが蓉子ちゃんだ。俺の目に狂いはなかったな』
その夜。
クラブビーのカウンターで、二人は何度もグラスを重ねながら、まだ見ぬ未来について語り合った。
蓉子にとって、それは夢への第一歩だった。
自分がママになる。
奈津子と一緒に、新しい店を作る。
今までとは違う人生が始まる。
その未来は、蓉子の目には眩しいほど輝いて見えていた。
けれど――。
同じ計画を聞きながら、2人が見ていた未来は、決して同じものではなかった。
蓉子は夢を見ていた。
真田は店の未来を計算していた。
そしてまだこの時、蓉子は知らなかった。
その甘い計画が、
やがて自分の人生を大きく揺るがすことになるとは。