『クラブ結』は、煌びやかで華やかな銀座の高級クラブとは、少し違っていた。
美月が目指していたのは、どこか家庭的で温かい店。
初めて来たお客様でも、なぜか肩の力を抜いて過ごせる。
そんな店にしたかった。
それは、美月ママの変わらない信条でもあった。
そのせいか、『クラブ結』には女性のお客様も多かった。
ある日、昔からの馴染みのお客様、海老名さんが、会社の部下だという女性3人を連れて来店した。
その中に、桃子という女性がいた。
美月は、彼女を見た瞬間に目を奪われた。
華やかな美しさがある。
けれど、ただ綺麗なだけではない。
どこか知的で、品のある雰囲気をまとっていた。
――この子、いいわね。
なぜだか、そう思った。
『海老名さん、今日はありがとうございます。こんな素敵な女性に囲まれて会社へ行けるなんて、毎日楽しみでしょうね』
『ママ、分かる? そうなんだよ』
海老名さんは嬉しそうに笑うと、周りには聞こえないように、美月だけにそっと言った。
『やっぱり女性は美人に限るよ』
美月は思わず笑った。
今の時代なら、そんなこともなかなか口にしづらいのかもしれない。
『桃ちゃん、このお店は初めてだったね? こちらがママさんよ』
『あっ、初めまして。桃子と申します』
『まあ、桃ちゃん。なんて綺麗な方なの』
美月は思わず、本音を口にしてしまった。
『こんな美人さん、うちで働いてくれたら嬉しいんだけど』
『おいおい、ママ。勘弁してくれよ。親御さんに叱られちゃうよ』
海老名さんが慌てたように笑った。
『冗談ですよ』
美月も笑ってごまかした。
けれど――。
まんざら冗談でもなかった。
ただ、その頃の『クラブ結』は女の子も揃っていて、募集をする必要もなかった。
だから、それ以上は何も言わなかった。
美月が女性のお客様に、
「うちで働かない?」
そんなことを言うのは、滅多にないことだった。
それなのに桃子には、なぜか心を惹かれるものがあった。
お帰りになる時、美月は桃子だけに、そっと名刺を渡した。
『何かあったら、いつでも連絡してね』
その言葉に、桃子は少し驚いたように微笑んだ。
『はい。ありがとうございます』
それから数週間が過ぎた。
突然、美月の電話が鳴った。
『もしもし、あの……私、桃子です。覚えていらっしゃいますか?』
『ああ! 海老名さんと一緒にいらした桃ちゃんね』
『そうです。実はママさんに、お聞きしたいことがあってお電話しました』
『あら、どうしたの?』
『今、お店は募集していますか?』
美月は少し驚いた。
『実は私、契約社員だったんですが、契約が終了してしまって……。今、仕事を探しているんです。それで、もしよかったらママさんのお店で働けないかなと思って、ご連絡しました』
美月は一瞬、言葉に詰まった。
――まさか、桃ちゃんの方から電話をくれるなんて。
本当なら、すぐにでも「来て」と言いたかった。
けれど、現実には女の子の数は足りていた。
『そうだったの……』
美月は、残念そうにため息をついた。
『桃ちゃんみたいな子なら、ぜひ来てもらいたいんだけどね。でも今は、ちょうど女の子が揃っているのよ』
『そうでしたか……』
桃子の声が、少しだけ沈んだ。
『ママさんのお店だったら、何となく怖くないかなって思っていたんですけど……残念です』
その言葉が、美月の胸に残った。
『本当にごめんなさいね。でも、もし誰か辞めるようなことがあったら、すぐに連絡するから』
『はい。その時は、よろしくお願いします』
電話を切ったあと、美月はしばらく受話器を見つめていた。
――断ってしまって、よかったのかしら。
あんなに来てほしいと思った子なのに。
けれど、今はどうすることもできなかった。
そして――。
その数分後だった。
奈津子から、電話がかかってきた。
今まで『クラブ結』を支えてくれた、ナンバーワンの女性。
その奈津子から、他店から誘いを受けているという話を聞かされた。
しかも、その言葉の奥には、
「もし、それ以上の条件を出してくれるなら残る」
そんな思いが透けて見えた。
美月は、一瞬だけ迷った。
奈津子を失うことは、お店にとって大きな痛手だった。
けれど――。
だからといって、その場で条件をつり上げるつもりもなかった。
『あら、そんなにいい条件のお店なら、私が行きたいくらいね』
美月は、そう言った。
そして、続けた。
『どうぞ、ご遠慮なく』
電話の向こうで、一瞬、奈津子が黙った。
美月は、そのまま電話を切った。
受話器を置いたあとも、しばらく胸の奥がざわついていた。
――これで、よかったのよね。
そう自分に言い聞かせながらも、長い間一緒に働いてきた奈津子を失うことは、やはり辛かった。
だが、その時だった。
美月の頭に、さっきの桃子の声がよみがえった。
――ママさんのお店だったら、怖くないかなって思っていたんですけど。
美月は、はっとした。
そして迷うことなく、桃子の番号を押した。
『もしもし、桃ちゃん?』
『はい』
『さっきはごめんなさいね。でも……もし、まだ気持ちが変わっていなかったら』
美月は一度、息を吸った。
『ぜひ、うちに来てくれない?』
電話の向こうで、桃子の声が一気に明るくなった。
『本当ですか? 嬉しい! ありがとうございます!』
その弾んだ声を聞いた瞬間、美月の心も少しだけ軽くなった。
ほんの数十分前まで、
「女の子は足りている」
そう思っていた。
それが、突然一人辞めることになり、
そして、その直後には新しい女性を迎えることになった。
まるで誰かが、最初から決めていたかのようだった。
捨てる神あれば、拾う神あり。
人生とは、本当に分からない。
奈津子が辞めることは、大きな痛手だった。
奈津子は、どちらかといえば野性的で、豪快だった。
お客様を楽しませることに関しては、天性の才能を持っていた。
店の空気を一瞬で変え、笑い声を起こす。
奈津子がいるだけで、店が華やぐ。
そんな存在だった。
一方の桃子は、奈津子とはまるで正反対だった。
上品で、どこか控えめ。
けれど、その美しさには、人を惹きつける不思議な力があった。
同じ「人気者」でも、その魅力はまったく違う。
奈津子を失った穴を、桃子が埋める。
もちろん、そんな簡単な話ではない。
けれど美月には、新しい風が吹き始めたような気がした。
あの日は、まるでジェットコースターのような一日だった。
思いがけない出会いがあり。
手放すことがあり。
そして、また新しい縁を手にした。
美月はその時、まだ知らなかった。
一つの縁が去り、新しい縁が訪れたその裏で――。
すでに、自分の知らないところで何かが動き始めていたことを。
そしてそれはやがて、美月の心を深く傷つけることになる。