真田マスターは、蓉子にいきなりこう言った。
『うちの店でママをやらないか?』
あまりにも突然の話だった。
銀座に来て、まだ1年。
手元にあるお客様の名刺を数えても、50枚ほどしかない。
そんな自分が、いきなりママになれるのだろうか。
蓉子には、とても現実的な話とは思えなかった。
『マスターにそう言っていただけるのは嬉しいですけど……どう考えても無茶じゃないかしら?』
『どうして?』
『だって私、お客様をたくさん呼べるわけでもないし、自信なんてありません』
マスターは水割りを口に運び、少し考えるように黙った。
『まあ、そう結論を急がなくてもいいよ』
そして、グラスを置くと蓉子の顔を見た。
『実はな。これからが本題なんだけど、ちょっと微妙な話なんだ』
『微妙な話?』
『蓉子ちゃんは、これからどうしたい?』
突然そう聞かれ、蓉子は考え込んだ。
『私ですか……』
子供の顔が浮かんだ。
まだ小さい。
これから先、教育費もかかる。
今は何とか生活できていても、このままでいいのだろうかという不安は、いつも心のどこかにあった。
『子供もまだ小さいですし、これから教育費だってかかります。考えたら、とてつもなくお金が必要ですよね』
『そうだな』
『今のお店でも楽しく働かせてもらっています。でも経済的なことを考えると、このままでいいのかなって思うこともあります』
蓉子は少し笑った。
『でも、まだ銀座の空気にやっと慣れてきたくらいです。これから先のことなんて、正直、何も分からないっていう感じです』
『もしもだよ』
マスターがゆっくりと言った。
『今、結にいる古株の女性たちが一緒だったら、どうかな?』
『え? みんなですか?』
『いやいや、最後まで聞けよ』
マスターは笑った。
『みんなってわけじゃない。蓉子ちゃんから見て、結で一番実力があるのは誰だ?』
『それは絶対、奈津子さんですよ』
蓉子は迷わず答えた。
『お客様をたくさん持っているし、結のナンバーワンです。それに性格もいい人ですし』
『奈津子さんか……』
マスターは何かを思い出すように天井を見た。
『この前、結に行った時、隣の席にいたスタイルのいい子だろ?』
『そうです』
『あの子がナンバーワンなんだ』
『そうですよ』
『じゃあ、次は?』
『恵美さんかな。オープンの時からいるから、店のことは何でも分かっているし、すごく頼りになります。面倒見もいいですし』
『ああ……カウンターの中にいた、少し年上の女性か』
『そうです』
『派手なタイプじゃないけど、温和そうな感じだったな』
『そうなんです。みんな頼りにしています』
『じゃあ、他には?』
『人気があるのは唯さんです。でも……ちょっと問題ありかな』
『どういう意味?』
蓉子は声を落とした。
『これは、ここだけの話ですよ』
『分かってるよ』
『たぶんスポンサーがいるんじゃないかって、みんな言ってます。だからそんなに必死で働かなくてもいいのか、遅刻も多いし……。ママがよく何も言わないなって、不思議なくらいです』
マスターは頷いた。
『なるほどね』
そして、意味ありげに笑った。
『じゃあ、狙い目は奈津子さんと恵美さんってことか』
『狙い目って……どういう意味ですか?』
『一緒にここでやらないかってことだよ』
蓉子は一瞬、言葉を失った。
『最初に3人でスタートすれば、結のお客をこっちにも呼べるだろ?』
『そんな……』
『もちろん、蓉子ちゃんがママだ』
『私が?』
『そう。蓉子ちゃんには店のトップとして、みんなをまとめてもらう』
『でも……私にそんなことできるのかしら』
『できるさ』
マスターは、まるで当たり前のことのように言った。
その言葉が、蓉子の胸に静かに落ちた。
できる。
自分でも半信半疑だった。
けれど、人からそう言われると、不思議なことに少しだけ自信が湧いてくる。
『それに奈津子さんも恵美さんも、お店を辞めるとは思えません』
『それは、話してみなきゃ分からないよ』
『でも……美月ママのお店を、みんなで辞めるなんて。何だか裏切りみたいで』
その言葉に、マスターの表情が少し変わった。
『蓉子ちゃん』
『はい』
『この世界は弱肉強食だよ』
その声は、先ほどまでとは違っていた。
『人情を絡ませたところで、最後に頼りになるのは自分だけなんだ』
蓉子は黙って聞いていた。
『子供だって、これから教育費が必要なんだろ?』
『はい……』
『今の店にいたって、いつかは次のことを考えなきゃならない。別の店に移れば、売上やノルマに追われる』
マスターは指を折りながら言った。
『美容院代。着物。新調日。おしゃれ日。夜の仕事ってのは、稼いでも出ていく金が多いんだ』
確かに、その通りだった。
『それなら、自分で稼いだ分を自分の手にできるほうがいいと思わないか?』
蓉子はグラスを見つめた。
マスターの話を聞いていると、不思議だった。
自分には到底無理だと思っていたことが、少しだけできるような気がしてくる。
『マスターと話していると……』
『うん?』
『何だか、大変なことまで簡単に聞こえてきます』
マスターは笑った。
『それだけ、蓉子ちゃんには可能性があるってことだよ』
可能性。
その言葉が、心に残った。
『でも、今日聞いたばかりなので……少しだけ時間をください』
『もちろんだ』
マスターはあっさり頷いた。
『すぐ返事をしろって言ってるわけじゃない。来週の月曜日にでも、また話そう』
『分かりました』
『ただな』
マスターはグラスを置いた。
『ここもママ不在の状態が長引くと、俺も困る。他から誰か来てしまう可能性もある』
蓉子の胸が少しざわついた。
『その時は、恨まないでくれよ』
『……分かりました』
『じゃあ、来週の月曜日。待ってるよ』
『必ずお電話します』
店を出たあとも、蓉子の頭の中にはマスターの言葉が残っていた。
もしかしたら――。
これは、自分に与えられたチャンスなのかもしれない。
その翌日の午後だった。
電話が鳴った。
『もしもし、蓉子ちゃん? こんな時間、大丈夫?』
奈津子だった。
蓉子は思わず背筋を伸ばした。
『珍しいですね。奈津子さんから電話をいただくなんて』
『ちょっとね。蓉子ちゃんに聞いてほしい話があって』
『どうしたんですか? 何か悩みですか?』
『悩みね……そうね。すごく悩んだわ』
奈津子の声は、どこか沈んでいた。
『ここだけの話として聞いてくれる?』
『もちろんです』
『実家の母が病気になって入院しちゃったの』
『えっ……大変じゃないですか』
『兄夫婦が近くにいるから、私が毎日看病しなくちゃいけないわけじゃないんだけど……長くなりそうなのよ』
『そうですか……』
『それで兄から、入院費を半分負担してくれないかって言われて』
『半分ですか……それは大変ですね』
『そうなのよ。入院費だって、ばかにならないでしょう』
蓉子は一瞬、昨日のマスターの話を思い出した。
今なら言えるかもしれない。
奈津子さん。
一緒にお店をやりませんか?
喉まで言葉が出かかった。
その時だった。
『それでね』
奈津子が言った。
『今日、電話したのは……急なんだけど、お店を辞めることになったの』
『えっ!?』
思わず大きな声が出た。
『いきなり、どうしたんですか?』
『唯ちゃん、いるでしょう?』
『はい』
『彼女の知り合いのママから、前から話をもらっていたの』
『話?』
『結よりずっといい条件で、うちに来ないかって』
蓉子は黙った。
『ずっと迷っていたんだけどね。でも今回、母の入院もあったでしょう』
奈津子は静かに続けた。
『お金のことも考えて、移ることにしたの』
『もう……ママには話したんですか?』
『さっき、電話した』
『それで、美月ママは何て?』
奈津子は少し間を置いた。
『あっさりよ』
『えっ?』
『それじゃ仕方ないわね、って』
奈津子の声に、わずかな苛立ちが混じった。
『引き止めてもくれなかった』
蓉子は何も言えなかった。
けれど蓉子は知らなかった。
奈津子が電話をした時、最初からただ「辞めます」と伝えたわけではなかったことを。
新しい店から、今よりかなりいい条件を提示されている。
もし、それ以上の条件を出してもらえるなら残る――。
そんな意味の言葉を、奈津子は美月ママに投げかけた。
美月ママにとって奈津子は、お店のナンバーワンだった。
失いたくない存在だったことは間違いない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、美月ママの中で何かが切れた。
『あら、そんなにいい条件なら、私が行きたいくらいね』
そして、こう続けた。
『どうぞ、ご遠慮なく』
電話は、それで終わった。
奈津子は辞めると言った。
美月ママは引き止めなかった。
たったそれだけのことだった。
けれど、その電話の向こうには、それぞれの思いがあった。
奈津子は、少しだけ自分を引き止めてほしかったのかもしれない。
自分がどれほど必要とされているのか、確かめたかったのかもしれない。
そして美月ママには、美月ママなりの意地があった。
どちらが悪かったのか。
そんな簡単な話ではなかった。
ただ、その時にはもう、言葉は戻らなかった。
『私なりに頑張ってきたつもりだったのにね』
奈津子は寂しそうに笑った。
『ママは、私のことそんなに評価してくれてなかったのかも』
『そんなこと……』
『自分から辞めるって言ったくせに変よね』
奈津子は小さく息を吐いた。
『もしかしたら、引き止めてくれるんじゃないかって……どこかで期待していたのかもしれない』
蓉子は黙って聞いていた。
昨日までなら、奈津子が辞めるなど想像もしていなかった。
でも今――。
頭の中には、真田マスターの顔が浮かんでいた。
そして、その言葉。
「奈津子さんと恵美さんが一緒だったら、どうかな?」
まるで昨日の会話を、誰かが聞いていたかのような偶然だった。
『そんな訳で、蓉子ちゃんにも伝えておこうと思って電話したの』
『奈津子さん……』
『じゃあ、蓉子ちゃんも頑張ってね』
『奈津子さん、ちょっと待って!』
思わず蓉子は叫んだ。
『実は……私からも、折り入って話したいことがあるの』
電話の向こうで、奈津子が黙った。
そして蓉子は、自分でもまだ決心しきれていない未来の話を、静かに切り出そうとしていた。
真田マスターの――。
あの甘い誘いを。