【連載小説】第117話 裏切りのささやき

【連載小説】第117話 裏切りのささやき

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真田マスターは、蓉子にいきなりこう言った。

『うちの店でママをやらないか?』

あまりにも突然の話だった。

銀座に来て、まだ1年。

手元にあるお客様の名刺を数えても、50枚ほどしかない。

そんな自分が、いきなりママになれるのだろうか。

蓉子には、とても現実的な話とは思えなかった。

『マスターにそう言っていただけるのは嬉しいですけど……どう考えても無茶じゃないかしら?』

『どうして?』

『だって私、お客様をたくさん呼べるわけでもないし、自信なんてありません』

マスターは水割りを口に運び、少し考えるように黙った。

『まあ、そう結論を急がなくてもいいよ』

そして、グラスを置くと蓉子の顔を見た。

『実はな。これからが本題なんだけど、ちょっと微妙な話なんだ』

『微妙な話?』

『蓉子ちゃんは、これからどうしたい?』

突然そう聞かれ、蓉子は考え込んだ。

『私ですか……』

子供の顔が浮かんだ。

まだ小さい。

これから先、教育費もかかる。

今は何とか生活できていても、このままでいいのだろうかという不安は、いつも心のどこかにあった。

『子供もまだ小さいですし、これから教育費だってかかります。考えたら、とてつもなくお金が必要ですよね』

『そうだな』

『今のお店でも楽しく働かせてもらっています。でも経済的なことを考えると、このままでいいのかなって思うこともあります』

蓉子は少し笑った。

『でも、まだ銀座の空気にやっと慣れてきたくらいです。これから先のことなんて、正直、何も分からないっていう感じです』

『もしもだよ』

マスターがゆっくりと言った。

『今、結にいる古株の女性たちが一緒だったら、どうかな?』

『え? みんなですか?』

『いやいや、最後まで聞けよ』

マスターは笑った。

『みんなってわけじゃない。蓉子ちゃんから見て、結で一番実力があるのは誰だ?』

『それは絶対、奈津子さんですよ』

蓉子は迷わず答えた。

『お客様をたくさん持っているし、結のナンバーワンです。それに性格もいい人ですし』

『奈津子さんか……』

マスターは何かを思い出すように天井を見た。

『この前、結に行った時、隣の席にいたスタイルのいい子だろ?』

『そうです』

『あの子がナンバーワンなんだ』

『そうですよ』

『じゃあ、次は?』

『恵美さんかな。オープンの時からいるから、店のことは何でも分かっているし、すごく頼りになります。面倒見もいいですし』

『ああ……カウンターの中にいた、少し年上の女性か』

『そうです』

『派手なタイプじゃないけど、温和そうな感じだったな』

『そうなんです。みんな頼りにしています』

『じゃあ、他には?』

『人気があるのは唯さんです。でも……ちょっと問題ありかな』

『どういう意味?』

蓉子は声を落とした。

『これは、ここだけの話ですよ』

『分かってるよ』

『たぶんスポンサーがいるんじゃないかって、みんな言ってます。だからそんなに必死で働かなくてもいいのか、遅刻も多いし……。ママがよく何も言わないなって、不思議なくらいです』

マスターは頷いた。

『なるほどね』

そして、意味ありげに笑った。

『じゃあ、狙い目は奈津子さんと恵美さんってことか』

『狙い目って……どういう意味ですか?』

『一緒にここでやらないかってことだよ』

蓉子は一瞬、言葉を失った。

『最初に3人でスタートすれば、結のお客をこっちにも呼べるだろ?』

『そんな……』

『もちろん、蓉子ちゃんがママだ』

『私が?』

『そう。蓉子ちゃんには店のトップとして、みんなをまとめてもらう』

『でも……私にそんなことできるのかしら』

『できるさ』

マスターは、まるで当たり前のことのように言った。

その言葉が、蓉子の胸に静かに落ちた。

できる。

自分でも半信半疑だった。

けれど、人からそう言われると、不思議なことに少しだけ自信が湧いてくる。

『それに奈津子さんも恵美さんも、お店を辞めるとは思えません』

『それは、話してみなきゃ分からないよ』

『でも……美月ママのお店を、みんなで辞めるなんて。何だか裏切りみたいで』

その言葉に、マスターの表情が少し変わった。

『蓉子ちゃん』

『はい』

『この世界は弱肉強食だよ』

その声は、先ほどまでとは違っていた。

『人情を絡ませたところで、最後に頼りになるのは自分だけなんだ』

蓉子は黙って聞いていた。

『子供だって、これから教育費が必要なんだろ?』

『はい……』

『今の店にいたって、いつかは次のことを考えなきゃならない。別の店に移れば、売上やノルマに追われる』

マスターは指を折りながら言った。

『美容院代。着物。新調日。おしゃれ日。夜の仕事ってのは、稼いでも出ていく金が多いんだ』

確かに、その通りだった。

『それなら、自分で稼いだ分を自分の手にできるほうがいいと思わないか?』

蓉子はグラスを見つめた。

マスターの話を聞いていると、不思議だった。

自分には到底無理だと思っていたことが、少しだけできるような気がしてくる。

『マスターと話していると……』

『うん?』

『何だか、大変なことまで簡単に聞こえてきます』

マスターは笑った。

『それだけ、蓉子ちゃんには可能性があるってことだよ』

可能性。

その言葉が、心に残った。

『でも、今日聞いたばかりなので……少しだけ時間をください』

『もちろんだ』

マスターはあっさり頷いた。

『すぐ返事をしろって言ってるわけじゃない。来週の月曜日にでも、また話そう』

『分かりました』

『ただな』

マスターはグラスを置いた。

『ここもママ不在の状態が長引くと、俺も困る。他から誰か来てしまう可能性もある』

蓉子の胸が少しざわついた。

『その時は、恨まないでくれよ』

『……分かりました』

『じゃあ、来週の月曜日。待ってるよ』

『必ずお電話します』

店を出たあとも、蓉子の頭の中にはマスターの言葉が残っていた。

もしかしたら――。

これは、自分に与えられたチャンスなのかもしれない。



その翌日の午後だった。

電話が鳴った。

『もしもし、蓉子ちゃん? こんな時間、大丈夫?』

奈津子だった。

蓉子は思わず背筋を伸ばした。

『珍しいですね。奈津子さんから電話をいただくなんて』

『ちょっとね。蓉子ちゃんに聞いてほしい話があって』

『どうしたんですか? 何か悩みですか?』

『悩みね……そうね。すごく悩んだわ』

奈津子の声は、どこか沈んでいた。

『ここだけの話として聞いてくれる?』

『もちろんです』

『実家の母が病気になって入院しちゃったの』

『えっ……大変じゃないですか』

『兄夫婦が近くにいるから、私が毎日看病しなくちゃいけないわけじゃないんだけど……長くなりそうなのよ』

『そうですか……』

『それで兄から、入院費を半分負担してくれないかって言われて』

『半分ですか……それは大変ですね』

『そうなのよ。入院費だって、ばかにならないでしょう』

蓉子は一瞬、昨日のマスターの話を思い出した。

今なら言えるかもしれない。

奈津子さん。

一緒にお店をやりませんか?

喉まで言葉が出かかった。

その時だった。

『それでね』

奈津子が言った。

『今日、電話したのは……急なんだけど、お店を辞めることになったの』

『えっ!?』

思わず大きな声が出た。

『いきなり、どうしたんですか?』

『唯ちゃん、いるでしょう?』

『はい』

『彼女の知り合いのママから、前から話をもらっていたの』

『話?』

『結よりずっといい条件で、うちに来ないかって』

蓉子は黙った。

『ずっと迷っていたんだけどね。でも今回、母の入院もあったでしょう』

奈津子は静かに続けた。

『お金のことも考えて、移ることにしたの』

『もう……ママには話したんですか?』

『さっき、電話した』

『それで、美月ママは何て?』

奈津子は少し間を置いた。

『あっさりよ』

『えっ?』

『それじゃ仕方ないわね、って』

奈津子の声に、わずかな苛立ちが混じった。

『引き止めてもくれなかった』

蓉子は何も言えなかった。

けれど蓉子は知らなかった。

奈津子が電話をした時、最初からただ「辞めます」と伝えたわけではなかったことを。

新しい店から、今よりかなりいい条件を提示されている。

もし、それ以上の条件を出してもらえるなら残る――。

そんな意味の言葉を、奈津子は美月ママに投げかけた。

美月ママにとって奈津子は、お店のナンバーワンだった。

失いたくない存在だったことは間違いない。

けれど、その言葉を聞いた瞬間、美月ママの中で何かが切れた。

『あら、そんなにいい条件なら、私が行きたいくらいね』

そして、こう続けた。

『どうぞ、ご遠慮なく』

電話は、それで終わった。

奈津子は辞めると言った。

美月ママは引き止めなかった。

たったそれだけのことだった。

けれど、その電話の向こうには、それぞれの思いがあった。

奈津子は、少しだけ自分を引き止めてほしかったのかもしれない。

自分がどれほど必要とされているのか、確かめたかったのかもしれない。

そして美月ママには、美月ママなりの意地があった。

どちらが悪かったのか。

そんな簡単な話ではなかった。

ただ、その時にはもう、言葉は戻らなかった。

『私なりに頑張ってきたつもりだったのにね』

奈津子は寂しそうに笑った。

『ママは、私のことそんなに評価してくれてなかったのかも』

『そんなこと……』

『自分から辞めるって言ったくせに変よね』

奈津子は小さく息を吐いた。

『もしかしたら、引き止めてくれるんじゃないかって……どこかで期待していたのかもしれない』

蓉子は黙って聞いていた。

昨日までなら、奈津子が辞めるなど想像もしていなかった。

でも今――。

頭の中には、真田マスターの顔が浮かんでいた。

そして、その言葉。

「奈津子さんと恵美さんが一緒だったら、どうかな?」

まるで昨日の会話を、誰かが聞いていたかのような偶然だった。

『そんな訳で、蓉子ちゃんにも伝えておこうと思って電話したの』

『奈津子さん……』

『じゃあ、蓉子ちゃんも頑張ってね』

『奈津子さん、ちょっと待って!』

思わず蓉子は叫んだ。

『実は……私からも、折り入って話したいことがあるの』

電話の向こうで、奈津子が黙った。

そして蓉子は、自分でもまだ決心しきれていない未来の話を、静かに切り出そうとしていた。

真田マスターの――。

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