やっと暑さが和らぎ始めた頃。
3連休の前夜とあって、
この日の『クラブ 結』はいつになく賑わっていた。
店内には最後まで笑い声が響き、
営業を終えた美月は、心地よい疲れを感じながら後片付けをしていた。
その時だった。
ドアが開き、
1人の女性が青ざめた顔で入ってきた。
『今晩は……。もう終わりですよね。こんな時間にすみません』
顔を上げると、貴美ちゃんだった。
それほど親しい間柄ではなかったが、
クラブさくらの和子ちゃんと一緒にアフターで何度か来てくれていたので、顔は知っている。
けれど、こんな深夜に1人で訪ねてくるなんて……。
嫌な予感がした。
『いらっしゃい。確か……貴美ちゃんだったわね』
『はい。私のこと覚えていてくださったんですね。よかった……』
『まあ、そんなところに立ってないで座って。どうしたの?顔色が悪いわよ』
『いえ……体はどこも悪くないんです。ただ、ちょっとショックなことがあって……』
やはり何かある。
私は時計を見た。
『ねえ、貴美ちゃん。ちょっと待っててくれる?お店はもう終わりだから、あと少しで帰れるの』
『はい……』
『この近くに美味しいお蕎麦屋さんがあるの。そこのコロッケがね、熱々でやみつきになるくらい美味しいのよ。よかったら一緒に行かない?』
『えっ……私、ご一緒してもいいんですか?』
『何言ってるの。一人じゃ行きにくいでしょ。付き合ってよ』
『……じゃあ、お言葉に甘えて』
そう言って、貴美ちゃんは少しだけ笑った。
何かを抱えている人を、そのまま一人で帰す気にはなれなかった。
その蕎麦屋は、蕎麦屋にしては珍しく深夜まで営業している店で、民芸調の店内はこの時間でも賑わっていた。
幸い席が空いていて、私たちは奥の席に座った。
しばらくして料理が運ばれてくると、私はようやく口を開いた。
『貴美ちゃん。いったい何があったの?』
貴美ちゃんはしばらく黙っていた。
『お店に来てくれたってことは、私に話したいことがあるんでしょう。ゆっくりでいいから聞かせて』
『それが……何から話したらいいのか……』
『和子ちゃんのこと?』
貴美ちゃんが顔を上げた。
『……はい』
『和ちゃんね。最近会ってないけど、まだクラブさくらにいるんでしょ?』
『はい。それと……唐澤さんのことなんです』
『唐澤さん?』
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に小さなざわめきが走った。
『何かあったの?』
貴美ちゃんは俯いたまま、ゆっくり話し始めた。
『私……見てしまったんです』
『何を?』
『見なくてもよかったものを……』
声が震えていた。
『大丈夫よ。慌てなくていいから』
『唐澤の携帯を……見てしまったんです』
『唐澤さんの携帯を?』
『はい……』
貴美ちゃんは一度息を整えた。
『和子さんには内緒なんですけど……私、唐澤と付き合っていました』
『……そうだったの』
『でも最近、何かおかしいんです。行動が不自然で……』
少しずつ話を聞いていくと、唐澤が父親の入院を理由にしていた日に、銀座で別の女性と歩いているところを見かけたという。
声をかけようとしたが、2人はタクシーに乗って消えてしまった。
『それで今日、何も知らないふりをして、唐澤が寝たのを待って……また携帯を見たんです』
『それで……』
『そこには、いろんな女性からのメールが入っていました』
貴美ちゃんの指が、膝の上で小さく震えた。
『その中に和子さんからのメールもあったんです』
『和ちゃんから?』
『はい。お金を返してほしいって……。表参道の部屋はどうしたのか、結婚の約束はどうなったのかって……』
私は思わず息を呑んだ。
『それだけじゃありません。由美さんという女性からも何度もメールが来ていて……』
『由美ちゃん……』
『美月ママに相談したって書いてありました』
『ええ。由美ちゃんから相談されたのは本当よ』
私はそこで、今までのことをすべて話した。
由美ちゃんが唐澤にお金を貸していたこと。
連絡が取れなくなったこと。
そして唐澤が店に来た時、私が本人に問いただしたこと。
『それで……唐澤さんは?』
『結婚するつもりはないって言ったわ』
『……やっぱり』
貴美ちゃんは俯いた。
『私も騙されていたんですね』
『貴美ちゃん……』
『でも、私も悪いんです。和子さんのお客様だって知っていたのに……』
その言葉には、怒りよりも自分自身への悔しさが滲んでいた。
『そんなふうに自分を責めなくていいのよ』
『でも……』
『人を好きになるって、そういうこともあるでしょう。好きになった時には、相手を疑うことなんて考えないものよ』
貴美ちゃんは黙っていた。
そして小さな声で言った。
『実は……私もお金を貸してしまったんです』
『えっ?』
『お父さんの入院費の保証金が必要だって……』
私は言葉を失った。
『いくら?』
『50万円です』
3人目だった。
和子ちゃん。
由美ちゃん。
そして貴美ちゃん。
いったい唐澤という男は、何人の女性と同じようなことを繰り返しているのだろう。
『貴美ちゃん。早く返してもらったほうがいいわ。ここで分かっただけでも3人よ。まだ他にいるかもしれない』
美月はそう言いながらも、心の中では別のことを考えていた。
この子たちは、どうしてこんな男性を信じてしまったのだろう。
けれど、その答えは簡単なものではない。
人は、弱っている時ほど、差し出された優しい言葉を信じたくなる。
そして、その言葉が自分の欲しかったものならなおさらだった。
それから数日後。
貴美ちゃんから電話があった。
『もしもし、貴美です』
『貴美ちゃん、その後どう?』
『そのことで……ちょっと大騒ぎになってしまって』
『大騒ぎって、どうしたの?』
『唐澤に渡したお金、親から借りたものだったんです。それで父に何に使ったのかって問い詰められて……全部話しました』
『それで?』
『父が怒ってしまって……母と私と三人で唐澤のところへ行ったんです』
『ええっ、お父さんが?』
『はい』
私は驚いた。
『それでどうなったの?』
『唐澤は意外なくらい神妙な態度で、お金は返すって約束しました』
『そう……』
『父が、返さないなら訴えるって言ったからかもしれません』
貴美ちゃんは少し笑った。
『それから父が、私とはもう一切会うなって言ったんです』
『お父さん、よほど心配だったのね』
『はい……。私、父があんなに怒ったところを初めて見ました』
少しの沈黙。
そして貴美ちゃんは、静かな声で言った。
『でもね……なんだか、その時初めて分かったんです』
『何が?』
『私、親に愛されていたんだなって』
私は黙って聞いていた。
『唐澤のこと、もうどうでもよくなっちゃいました』
その言葉を聞いて、私は胸を撫で下ろした。
『そう。だったら、もう忘れなさい。貴美ちゃんを本当に心配してくれる人は、ちゃんとそばにいるんだから』
『はい。ママ、ありがとうございました』
電話が切れたあと、私はしばらく受話器を見つめていた。
貴美ちゃんが少しでも笑えるようになったことが嬉しかった。
もう、あんな悲しい顔を見たくはなかった。
結局、和子ちゃんは最後まで唐澤と連絡が取れず、
お金も、結婚という夢も戻ってこなかった。
それでも、和子ちゃんは銀座で働き続けた。
家族を支えるために。
そして由美ちゃんは、その数年後。
店に来ていたお客様との出会いから、新しい人生を歩み始めた。
二人とも再婚だったが、やがて彼女は一流企業の部長夫人となった。
人生とは、本当に分からないものだ。
あの夜、泣きながら私に電話をしてきた女性が、何年か後には別の人生を歩いている。
そして貴美ちゃんは、失ったものよりも大切なものに気づいた。
親の愛情。
それは、どんな高価なものよりも、彼女の心を支えてくれるものだった。
では、唐澤はどうなったのか。
風の便りに聞いた話では、
その後、ある女性との間で大きなトラブルになったという。
それがどんな結末だったのか、詳しいことまでは私には分からない。
ただ、長い人生を生きていると、時々思うことがある。
人にしたことは、いつかどこかで自分に返ってくる。
それは罰という形なのかもしれないし、
ただ人生の巡り合わせなのかもしれない。
けれど、誰かの心を傷つけたまま、ずっと何事もなく生きていけるほど、人生は甘くないのかもしれない。
あの夏。
三人の女性は、それぞれ違うものを失った。
お金を失った人。
恋を失った人。
未来への夢を失った人。
けれど、その夏を越えた先で、
それぞれがまた自分の人生を歩き始めていた。
そして、銀座の街にも少しずつ秋の気配が近づいていた。
夏に起きた、奇妙な物語。
それは、夏の終わりとともに、静かに幕を閉じた。