【連載小説】第113話 信じた心の行方

【連載小説】第113話 信じた心の行方

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『もしもし……』

また留守番電話だった。

由美は、もう何度目になるか分からない電話を切った。

新しい事務所を借りるためにとお金を用立ててから、唐澤とは急に連絡が取れなくなっていた。

最初のうちは、会社を立ち上げるために忙しいのだろうと思っていた。

けれど、気がつけば一週間。

何度電話をしても出ない。

由美はふと、唐澤のことを何も知らない自分に気づいた。

住んでいる部屋も知らない。
これから始めるという会社の場所も知らない。

分かっているのは、携帯電話の番号だけだった。

お金のことが心配なのではない。

ただ、会いたかった。

声が聞きたかった。

どうしたのだろう。
何かあったのだろうか。

そんなことばかり考えているうちに、さらに数日が過ぎた。

もう自分だけではどうにもならない。

由美は思い切って、美月に電話をかけた。

『もしもし、ママ今いいかしら?』

『あら、由美ちゃん。久しぶりじゃない。元気だった?』

『まあ……元気は元気なんだけど。今日はちょっと相談があって』

『どうしたの?』

『唐澤さんのことで……』

『えっ? 唐澤さんって、うちに来ている唐澤さん?』

『そうなの。前にママのお店で隣に座ったでしょう?』

『そうだったわね。覚えてるわ』

『それで……』

『唐澤さんと何かあったの?』

少しの沈黙のあと、由美が小さな声で言った。

『実はね……私、唐澤さんと付き合ってるの』

『まあ……そうだったの』

美月は驚いた。

けれど、由美の声にはどこか元気がない。

『でも、最近どうしたの?』

『それが……連絡が取れなくなったの』

『そうなの?』

『うん。何度電話しても出なくて……。ママのお店に来たら、私に連絡してほしいって伝えてもらえないかなと思って』

『そういえば、最近あまり来ないわね。何かあったの?』

由美はしばらく迷ってから、ぽつりと口を開いた。

『実はね……少し前に唐澤さんにお金を用立てたの』

『お金を?』

『うん。会社を始めるために事務所を借りるって言ってて……』

『それで、いくら?』

『……50万円』

美月は思わず息をのんだ。

『50万円……?』

『別にお金のことだけを心配しているわけじゃないのよ。ただ、あれから連絡がなくて……会いたいっていうか。ママのお店に来たら、私、飛んで行こうかなと思って』

『由美ちゃん……』

美月は言葉を選んだ。

『唐澤さんと、結婚の話しとかしているの?』

『うん。私と結婚して幸せにしてくれるって……』

その言葉を聞いた瞬間、美月の胸に小さな不安がよぎった。

『でもね、由美ちゃん。結婚するつもりの人から、お金を借りるって……どうなのかしら』

『ママ……』

由美の声が震えた。

『私……騙されちゃったの?』

『あっ、ごめん。変な言い方をしてしまったわ。まだ唐澤さんの本当の気持ちは分からないものね』

美月自身、そんなことは考えたくなかった。

『私が直接聞いてみるわ。ここで知り合ったのも何かの縁だし……私も責任を感じるから』

『ママ……ごめんなさい。私、情けなくて』

由美の声が涙声になった。

『しっかりして。唐澤さんと連絡が取れたら、必ず由美ちゃんに電話するから。由美ちゃんも、もう少し連絡してみて』

『うん……ありがとう、ママ』

電話を切ったあと、美月はしばらく受話器を見つめていた。

胸の中に、嫌な予感が残っていた。

それから美月自身も何度か唐澤に電話をした。

けれど、やはり留守番電話だった。

ところが――。

それから数日後。

その日の遅い時間に唐澤が何事もなかったかのように店へ入ってきた。

『やあ、ママ。久しぶりだね』

『いらっしゃい』

美月は笑顔を作った。

けれど、今日はいつものようには振る舞えなかった。

『唐澤さん、少し話したいことがあるの。ちょっと待っててくれる?』

いつもとは違う美月の口調に、唐澤の笑顔が一瞬だけ止まった。

深夜だけにお客様も終電の時間を見計らって帰っていった。

そして美月と唐澤の2人っきりになった。

『ママ、どうしたの?何かあった?』

しばらくして席に戻った美月は、唐澤の顔をまっすぐ見た。

『唐澤さん。うちに来ている女の子のことで聞きたいことがあるの』

『女の子?』

『彼女と結婚の約束をしたって聞いたけど……本当なの?』

唐澤は少し驚いたような顔をした。

『えっ? いきなり結婚の約束? 何かの聞き違いじゃないの?』

『人違いで言っているわけじゃないわ。彼女から直接聞いたのよ』

『そう……』

唐澤は少し考えるように黙った。

『分かったよ。和ちゃんのことだろ? そういう話をしたことはあるけど、まだ先の話だよ』

『和ちゃん?』

美月の眉が動いた。

『クラブさくらの和子ちゃんのこと?』

『そうだけど……』

『和子ちゃんとも結婚の話をしているの?』

唐澤は答えなかった。

その沈黙が、美月には何よりも気になった。

『唐澤さん、私が聞いているのは由美ちゃんのことよ』

『由美ちゃん?』

『そう。由美ちゃんは、あなたと結婚するつもりでいるのよ。だから、あなたの気持ちを聞きたいの』

唐澤はしばらく黙ったあと、少し困ったように笑った。

『由美ね……。そんな話をしたかな』

『したか、しなかったかじゃないでしょう。彼女は本気なのよ』

『確かに、二度くらい部屋に遊びに行ったことはあるけど……それだけだよ。そこから結婚の話になるとは思わなかったな』

美月は胸の奥が冷たくなった。

『じゃあ、お金のことは?』

『お金?』

『由美ちゃんから50万円、用立ててもらったって聞いてるわ』

唐澤は少し間を置いて答えた。

『あれは……由美が自分から力になりたいって言ってくれたんだよ』

『でも、由美ちゃんは貸したつもりでいるわ』

『俺は借りたなんて言ってないよ。返すとも返さないとも、そんな話はしてない』

淡々とした口調だった。

それを聞いた美月は、思わず言葉を失った。

『そんな……』

由美がどんな気持ちで50万円を渡したのか。

美月には分かっていた。

『唐澤さん。もし結婚するつもりがないのなら、そのことはちゃんと伝えてあげて。由美ちゃんが可哀想よ』

『……』

『それから、お金も返してあげてほしいわ』

唐澤の表情が変わった。

『分かったよ』

短い言葉だった。

そして唐澤は急に財布を取り出した。

『帰るよ、いくら?』

『50万よ』

唐澤は何も言わずクレジットカードを出した。

その仕草には、さっきまでの軽さが消えていた。

『これでいいだろ』

そう言って立ち上がると、唐澤はそのまま店を出ていった。

ドアが閉まったあと、美月はしばらく動けなかった。

何とも言えない後味だけが残った。

そして美月は、由美に電話をした。

『もしもし、由美ちゃん。私だけど』

『あっ、ママ……。もしかして……』

『そう。唐澤さんがお店に来たの』

『今もいるの?』

『ううん、もう帰ったわ』

『そう……。それで、私のところに連絡してくれるって言ってくれた?』

美月は一度、深く息を吸った。

『由美ちゃん、落ち着いて聞いてね』

電話の向こうが静かになった。

『唐澤さんは……由美ちゃんとの結婚を考えているわけではないみたい』

『そんな……』

由美の声が震えた。

『私と結婚して幸せにしてくれるって……ちゃんと言ってくれたのよ』

『うん……』

『私、何を信じていたんだろう……』

そして由美は泣き出した。

美月も胸が苦しくなった。

『由美ちゃん、ごめんね。こんなことになるなんて……私も、もっと早く気づけばよかった』

『お金も……駄目よね』

『そのことも聞いたわ。返してほしいって伝えたの』

『……どうだった?』

『怒って帰ってしまったけど……お金は返してくれたわ、明日、由美ちゃんに振り込むわ』

『そう、ありがとう……』

由美の声には、安堵よりも深い悲しみが滲んでいた。

『ママ……私、情けない』

『そんなこと言わないで』

『でも、結婚するつもりの人からお金を借りるなんておかしいって……今なら分かる』

『由美ちゃん……』

『それに私、唐澤さんの住所すら知らないのよ』

美月は言葉を失った。

『お金を渡した時も、借用書なんて考えもしなかった。だって、結婚すると思っていたんだもの……』

『……そうよね』

美月は、それ以上何も言えなかった。

信じている時には、疑うための質問など思いつかない。

まして、これから一緒に生きていくと思っている相手ならなおさらだ。

電話を切ったあと、美月は一人、深夜の店に残った。

由美を責める気持ちなど少しもなかった。

むしろ、自分にも責任があるように思えてならなかった。

ここで出会わなければ――。

あの夜、由美と唐澤を隣り合わせにしなければ――。

そんな考えが頭から離れなかった。

けれど、人の心がどこへ向かうのかを、誰かが決めることなどできない。

恋をしている時、人は相手の言葉を疑うよりも、信じたいと思う。

信じたいと思う心が、時には見えないものまで見せてしまうこともある。

そして、しばらくしたある日。

美月は、またどこかで聞いたことのあるような話を耳にすることになる。

その瞬間、美月の胸に、あの嫌な予感が再びよみがえった。

――唐澤はいったい、何人の女性の心に入り込んでいたのだろう。

そして、その先には何が待っているのだろう。
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