【連載小説】第112話 疑う心、信じたい心

【連載小説】第112話 疑う心、信じたい心

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貴美が唐澤のマンションに通うようになって、しばらく経ったある日の深夜。

いつものように部屋へ入ると、唐澤が暗い表情でソファに座っていた。

『ただいま。あら……どうしたの? 何かあったの?』

『参ったよ……さっき連絡があって、親父が倒れたらしいんだ。意識もなくて、救急車で近くの病院に運ばれたって』

『えっ……大丈夫なの? 早く行ったほうがいいんじゃない?』

『俺もそうしたいよ。でも、もう電車もないしな。始発を待って行くしかない』

『そう……心配ね。前からあまり体調がよくないって言ってたものね』

『ああ。でも親父も無茶してたからな。毎晩のように会合だ、酒だって……。肝臓も悪かったのに、贅沢ばかりしてたからさ』

そう言いながら、唐澤の口元に一瞬だけ薄い笑みが浮かんだ。

貴美は、その表情を見逃さなかった。

――えっ……今、笑った?

ほんの一瞬だった。

気のせいだと思えば、それで済んでしまうほどの微かな変化だった。

『明日も早いでしょう。今日は私、帰るわ。お父様のこと心配だから、明日の夜にでも連絡を待ってるね』

『帰るの?』

唐澤は少し寂しそうな顔をした。

『こんな時だからこそ、一人でいたくないんだよ。少しだけここにいてくれないか』

そう言って貴美を隣に座らせると、後ろからそっと腕を回した。

そして耳元で、静かに語り始めた。

『俺の実家ってさ、代々地主なんだ。かなりの土地を持っていて、いろんな会社や店に貸してるから、家賃収入だけでも結構な額になるんだよ』

『そうなの?』

『でも、親父は昔から金に細かくてさ。金持ちほど財布の紐が固いっていうだろ。まさにあれだよ。お袋なんか、いつも泣かされてた記憶しかない』

唐澤はため息をついた。

『金はないよりあったほうがいい。でも俺は、金より大切なものがあるってことを親父に教えてやりたいんだ』

その言葉を聞きながら、貴美の頭に小さな疑問が浮かんだ。

――そういえば、マンションの頭金はお父様から出してもらったって言ってなかった?

――でも、お父様はお金を出さない人だって……。

矛盾しているような気がした。

けれど、それを口にすることはできなかった。

好きな人の言葉を疑うことに、どこか罪悪感があったからだ。

『貴美ちゃんと一緒だったら、どんなにいいかと思うよ』

唐澤の声が、再び柔らかくなった。

『欲しい物があれば何でも買ってあげたい。俺はお袋を見て育ったから、好きな女には苦労させたくないんだ』

『本当に?』

『ああ。お金なんて二人で幸せになるために使ってこそ意味があるんだよ』

貴美はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。

『ねえ、私って贅沢な女よ。貧乏なんて考えられないし、結婚するなら超お金持ちじゃなくちゃ嫌なの。そんな人、なかなかいないけどね』

すると唐澤は笑った。

『何言ってるんだよ。ほら、よく見てごらん』

そして貴美の目を見つめた。

『目の前にいるじゃないか』

貴美は思わず笑ってしまった。

働くことよりも、好きなものに囲まれて暮らすことを夢見ていた貴美にとって、唐澤の言葉はあまりにも心地よかった。

多少の違和感があっても、それ以上に信じたい気持ちのほうが大きかった。

それから数日後。

突然、唐澤から電話が入った。

『もしもし、俺だけど……大変なことになっちゃったよ』

いつもの声とは違い、ひどく慌てている。

『お父様? 大丈夫なの?』

『親父がさ……昏睡状態になって意識がないんだ。それなのに病院から、入院費の保証金を払ってくれって言われてさ』

『保証金? そんなものが必要なの?』

『そうなんだよ。今、お袋と一緒に通帳や印鑑を探してるんだけど、どこにあるのか分からなくて……。今日中に払わないと転院させるって言われたんだ』

『まあ……それは大変ね。それで、いくら必要なの?』

『それが……特別室に入ってるから100万だって。あとで入院費と精算されるらしいんだけど』

唐澤は困り果てたように続けた。

『お袋の手持ちと俺の金を合わせても、今、50万くらいしかなくてさ。通帳さえ見つかれば、何千万だって払えるのに……』

『病院と相談してみたら?』

『もちろんしたよ。でも規則だからって、どうにもならないんだ』

『そう……』

受話器を握ったまま、貴美は黙り込んだ。

これまで描いていた明るい未来に、突然、黒い雲がかかったようだった。

そして唐澤の声が、少しだけ弱くなった。

『情けないよな……こんな時に何もできないなんて。親父のことも心配だし、この先どうなるのか……』

その声を聞いた瞬間、貴美の中で何かが動いた。

『分かったわ。私が何とかする』

『えっ?』

『私、心当たりがあるから』

『いや、そんなつもりで電話したんじゃないよ。いいんだ』

『いいのよ。心配しないで』

貴美の頭に、母親の顔が浮かんだ。

『これから聞いてみる。少し待ってて。折り返し電話するから』

『……ありがとう』

その声には、安堵が滲んでいた。

貴美は急いで母親に電話をした。

突然お金が必要になったことだけを話し、詳しい事情はまた後で説明すると言って、50万円を借りることになった。

母親からお金を受け取ると、貴美は急いで唐澤との待ち合わせ場所へ向かった。

喫茶店に着くと、唐澤はすぐに貴美の姿を見つけた。

『貴美ちゃん! ありがとう。本当に助かったよ』

『間に合ってよかったわ。母にいろいろ聞かれそうだったから、慌てて出てきちゃった』

『そうか……悪かったね』

唐澤はそう言うと、貴美から封筒を受け取った。

『これで親父を転院させなくて済む。本当にありがとう』

『ううん。お父様、大丈夫なの?』

『分からない。でも、とにかく今は病院へ行かなくちゃならないから』

唐澤は時計を見ると、急いで立ち上がった。

『じゃあ、俺もう行くよ』

『えっ……もう?』

『時間がないんだ。本当にありがとう。落ち着いたらまた連絡するから』

そう言い残すと、唐澤は足早に店を出ていった。

一人残された貴美は、しばらくその後ろ姿を見つめていた。

――時間がないから仕方ないわよね。

そう思おうとした。

けれど、胸の奥には小さな棘のようなものが残っていた。

父親のこと。

病院のこと。

そして、50万円のこと。

何かがおかしいような気がする。

でも、もし本当にお父様が大変な状態だったら……。

そんな疑いを持つ自分のほうが、冷たい人間なのではないか。

貴美は自分にそう言い聞かせた。

そして、ふと手元を見る。

そこには、母親から借りた50万円を渡したときの、空になった封筒が残っていた。

貴美はそれを見つめながら、ほんの一瞬だけ思った。

――母のお金……ちゃんと戻ってくるのかしら。

その小さな疑問は、まだ声になることもなく、

貴美の心の奥へ静かに沈んでいった。
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