『もしもし、唐澤さん。私、貴美です』
『ああ、待ってたよ。もう終わったの?』
『ええ。今、どちらにいらっしゃるの?』
『君の店の前で、足踏みして待ってるよ』
『えっ! そこでは和子さんに……』
『冗談だよ。「みゆき」っていう、深夜までやってる喫茶店があるだろ。そこで待ち合わせしないか? というか、さっきからもういるんだ』
『分かったわ。すぐ行きますね』
貴美は慌ててバッグを掴むと、急いで店を出た。
和子はまだ自分のお客様が残っていて、残業らしい。
もし、このことを和子に知られたら、大変な騒ぎになることは分かっていた。
それなのに、なぜかその罪悪感が心地よい刺激となり、貴美の胸をぞくぞくさせた。
それに――
唐澤という男性が、もしかしたら自分が探していた人なのかもしれない。
そんな直感が、貴美の心の中で囁いていた。
その喫茶店は旧電通通りにあり、夏になるとオープンエアーになって、南フランスの気楽さと温かさをイメージした、お洒落で開放感のある店だった。
深夜ともなると、店内の九割以上は銀座で働く女性たちのたまり場になる。
賑やかな店内は、まるで大きなクラブのようだった。
『お待たせしました! 唐澤さんと会えるなんて、夢みたい』
『お疲れ様。待ってたよ。でも、素敵な女性を待つのは何時間でも楽しいものさ』
『まあ、お上手なんだから』
『そんなことないよ。この前、店で会っただろ。あの数分が、今じゃ宝石みたいに俺のどこかで輝いていてさ。忘れられなくなったんだ。だから店まで電話したけど、迷惑だったかな?』
『迷惑だなんて……その反対ですごく嬉しかったけど……』
『どうしたの? 急に黙って』
『和子さんに知れたら、どうしようと思ったの』
『心配しなくて大丈夫だよ。この前も言ったけど、あいつとはただの友達さ。でも、店的には何かまずいんだろう?』
『ええ。売上のお姉さんのお客様とは、名刺交換もできないルールだから』
『そんな暗い顔しないで。ほら、これが俺の携帯の連絡先だ。今は店なんて関係ないプライベートな時間だろ。だから、何の問題もないよ』
そう言って宙は、メモに携帯番号を書いて貴美に渡した。
『そ、そうよね。今は私の時間だから、気にしなくていいのよね。何だか、ほっとしたわ』
『これから、どこか飲みに行かないか? 俺の知ってる店がこの近くにあって、深夜まで営業してるから行こうよ』
『ええ』
貴美は返事をした。
これから何かが始まろうとしている。
そんな予感がして、また胸がぞくぞくした。
こんなに堂々と長身でスタイルの良い唐澤と歩いていいのだろうか。
そんなことを思いながら歩いていると、着飾った銀座の女性たちが振り向き、羨ましそうな目で二人を見ている。
その視線が、貴美にはたまらなく嬉しかった。
自分だけが特別な女性になったような、そんな優越感さえ感じていた。
その夜、二人は銀座でも話題になっているナイトレストランへ向かった。
そして貴美は、夢のような時間を過ごした。
唐澤は優しく、笑顔で接してくれる。
こんなに素敵な男性が自分のことを想ってくれている。
そう思うと、貴美はもう唐澤の虜になってしまいそうで、かえって怖くなった。
そんな時、ふと目に入ったものがあった。
帰り際、唐澤が会計をしている時だった。
財布にかなりの厚みがある。
貴美は思わず驚いた。
――もしかしたら、相当なお金持ちなのかしら。
そんなことを考えているうちに、唐澤が言った。
『じゃあ、貴美ちゃん。送っていくよ』
『えっ? あっ、はい。ありがとうございます。今日はご馳走さまでした』
『明日は大事な取引先とのアポイントがあって早いんだ』
そう言うと、唐澤は呆気ないほどさっぱりと貴美を送り届けた。
貴美は、淡い期待を抱いていた自分が恥ずかしくなった。
――唐澤さんは、本物の紳士だわ。
そう思った。
そして別れたばかりだというのに、もう唐澤に会いたくて仕方がなかった。
その日を境に、二人の関係が急速に深まっていったのは、自然な流れだった。
やがて貴美は、唐澤の部屋を初めて訪ねることになった。
けれど、その部屋は貴美が想像していたものとは少し違っていた。
下町にある古いマンション。
決して綺麗とは言えず、部屋も1LDKで、広いとは言えない。
家具や荷物も雑然としていた。
貴美の表情から何かを察したのか、唐澤は言い訳するように言った。
『この部屋は仮住まいなんだ。先月、表参道に19階建てのマンションを買ったんだけど、まだ建築中でさ。来年の春には完成予定なんだよ。だから、こんな部屋で我慢してくれよ』
『表参道! 凄いじゃない! 私、憧れちゃうわ』
『大したことないさ。それより、今日はここでゆっくりしないか?』
そう言いながら、唐澤の手が優しく貴美を引き寄せた。
貴美はもう、夢の世界にいるような幸福を感じていた。
この人と一緒なら、きっと幸せになれる。
そんな思いが、貴美の心を満たしていた。
けれど――
その幸せが、いつまでも続くものではないことを、貴美はまだ知らなかった。