夏の陽射しが、ほんの少し柔らかくなった頃。
貴美が贔屓にしているブティックのウインドウは、すでに秋一色に染まっていた。
新作の洋服が次々と並び、貴美はその前で足を止める。
以前から目をつけていた洋服も入荷していた。
――欲しい。
そう思ったら、もう堪らなかった。
並んでいるのは、どれも決して安いものではない。一着数十万円する洋服も珍しくなかった。
クローゼットは、もう新しい洋服を入れる隙間もないほど埋まっている。
贅沢だと言われれば、その通りだと思う。
それでも貴美は、
『物欲があるうちは、まだ若いってことよ』
と、都合よく自分に言い聞かせていた。
給料のほとんどは、お洒落のために消えていった。
その頃の貴美は、親の家にいることが窮屈になり、両親の反対を押し切って銀座へ出てきたばかりだった。
容姿には恵まれていた。
そして何より、昔から人と話すことが好きだった。
銀座のクラブという世界は、自分に合っている。
そう思った貴美は麻布へ引っ越し、毎日を楽しんでいた。
ただ、働いても働いても、お金は出ていくばかりだった。
そんなある夜のことだった。
同じ店の先輩、和子の席に呼ばれた。
たまたま和子が化粧室へ立つことになり、その間のヘルプとして貴美が呼ばれたのだ。
お客様を一人にしない。
それは、この世界では当たり前のことだった。
たとえ女性が化粧室へ立つのが、ほんの2、3分であっても、お客様が1人になるのであれば、誰かが席に入る。
そして、ヘルプの女性とバトンタッチをして化粧室へ向かう。
その夜、貴美は何も知らずに、その席へ向かった。
しかし――
そこで、思いもよらない出会いが待っていた。
『こんばんは。お邪魔します』
貴美が席に着くと、和子が紹介した。
『貴美ちゃん、こちら唐澤宙さん。私の一番大事なお客様だから、よろしくね』
そう言うと、和子は待ちきれないように席を立った。
『ヒロシさんですか?』
貴美が尋ねる。
『私、以前お付き合いしていた人もヒロシという名前だったので、同じですね』
『そう。ヒロシなんて、どこにでもある名前だから珍しくないよ』
『そんな、どこにでもあるなんて……。それで、ヒロシさんって、どう書くんですか?』
『漢字?』
『はい』
『宇宙の「宙」と書いてヒロシと読む。なんてね。珍しいだろ?』
『ええ。私、初めてお聞きしましたわ』
『貴美ちゃんか。綺麗な名前だね』
『まあ……そんなことないです。それより唐澤さんのお名前のほうが素敵です。俳優さんみたい』
そう言いながら、貴美は唐澤の目を真っ直ぐ見ることができなかった。
自分でも分かっていた。
あまりにも好みの男性だった。
胸が高鳴り、緊張しているのが自分でも分かる。
すると唐澤が、少し声を落として言った。
『ここだけの話だけど……貴美ちゃん、俺の好みだよ』
『また……。和子さんに叱られますよ』
『大丈夫。あいつは、ただの友達さ』
『そうは見えませんけど……。あっ、帰ってきた』
『ただいま。お待たせしました。貴美ちゃん、ありがとう』
戻ってきた和子と入れ替わるように、貴美には別の席へ行くようマネージャーから指示が出た。
『どうも、ご馳走さまでした。失礼します』
貴美は席を離れた。
けれど――
気になる。
他の席に着いていても、視線は無意識に唐澤を探していた。
たった数分の会話だった。
それなのに、唐澤が口にした一言一言が、いつまでも頭から離れなかった。
そして翌日。
思いがけないことが起きた。
『貴美さん、お電話です』
『はい、もしもし。貴美ですけど……』
『名前は言わないで。俺、唐澤だよ』
『あっ……はい、分かります』
昨日の声だった。
『昨日から貴美ちゃんのことが気になって、思わず電話しちゃったけど……迷惑じゃないかな?』
『いいえ……。反対に嬉しくて、声が出ないくらいです』
貴美の胸は、昨日以上に大きく高鳴っていた。
『昨日は連絡先も聞けなかったから、お店へ電話したんだ。今日、お店が終わったあと、ちょっと会えないかな?』
『ええ、大丈夫です』
一瞬の迷いもなかった。
『携帯の電話番号を教えていただけますか? 終わり次第、電話しますね』
『待ってるよ。今日はゆっくり話したいね』
『じゃあ、後ほど』
電話を切った。
受話器を握っていた指が、強張っている。
緊張と嬉しさが入り混じり、胸の鼓動が収まらない。
昨日、初めて会ったばかりの男性から電話がかかってきた。
しかも、会いたいと言われた。
まるで夢を見ているようで、貴美にはそれが現実なのか、にわかには信じられなかった。
たった数分の出会いが、
この先、自分の人生を大きく変えることになるとは――
この時の貴美は、まだ知る由もなかった。