【連載小説】第109話 心の傷が生んだ影

【連載小説】第109話 心の傷が生んだ影

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『ねえ、いつになったら私たち、一緒に暮らせるの?』

和子は唇を尖らせた。

『"もう少し"って何度聞いたか分からないわ。待つのにも限界があるのよ』

宙は困ったように笑う。

『悪いな。でも妥協だけはしたくないんだ。二人で暮らす最初の部屋だろう?和ちゃんが心から喜べる場所を見つけたいんだよ』

その言葉に、和子の表情が少しだけ和らいだ。

『宙って、本当に優しいね』

そう言って笑う顔は、恋をしている女性そのものだった。

『今の部屋に帰るたび嫌になるの。狭いし、おばあちゃんは一日中同じ話ばかりしてるし……。一秒でも早く出たい』

その言葉を聞きながら、宙は一瞬だけ目を伏せた。

本当なら叱りたかった。

親をそんなふうに言ってはいけない、と。

だが、その感情は胸の奥へ押し込める。

今は優しい恋人でいることが、自分にとって一番大切だった。

宙にも、忘れられない過去があった。

中学生のある日。

父親は『煙草を買ってくる』と言って家を出たまま、二度と帰らなかった。

残されたのは母親と四人の子どもたち。

生活は一変した。

働いた経験のない母親は昼も夜も仕事を掛け持ちしたが、家計は苦しいままだった。

日に日にやつれていく母親を見ながら、宙は野球を諦めた。

小学校でも中学校でもキャプテンを務め、強豪校への推薦まで決まっていた。

それでも夢を捨てた。

弟や妹を守るため。

母親を助けるため。

新聞配達をしながら家計を支える毎日だった。

だが数年後。

母親は突然、再婚すると言った。

相手は勤め先の社長。

妻を亡くし、子どものいない男性だった。

四人きょうだい全員を引き取るという。

弟や妹は新しい暮らしに胸を躍らせた。

だが宙だけは違った。

自分が諦めてきたもの。

我慢してきたもの。

それらが、一瞬で置き去りにされた気がした。

母親に裏切られた――。

その思いだけが胸に残った。

家を飛び出し、一人で東京へ向かう。

いつしか宙の中には、人を信じる気持ちより、

『裏切られる前に、自分が先に利用すればいい』

そんな歪んだ考えが根を下ろしていった。

数日後。

宙は和子へ電話をかけた。

『もしもし、和ちゃん?』

『宙?』

『今、不動産屋なんだけどね』

少し興奮した声だった。

『やっと見つけたんだ。和ちゃんが絶対気に入る部屋』

『本当?』

『表参道から歩いて3分。2LDKで、まだ築浅なんだ。景色も最高だったよ』

和子の胸が高鳴る。

表参道。

以前から一度は住んでみたいと話していた街だった。

『見に行きたい!』

『それが今日契約しないと、次の人に決まりそうなんだ』

少し間を置いて、宙はため息をついた。

『仕方ないかな……』

『えっ?』

『今ちょうど仕事の資金を動かしてるだろ。手元に余裕がなくてさ。今回は縁がなかったと思うしかないかな』

諦めたような声だった。

和子は胸が締めつけられる。

ようやく2人で暮らせる。

そんな未来が、目の前から消えようとしていた。

『……どのくらい必要なの?』

宙は少しだけ黙った。

『今日中に手付金として50万円なんだ。何とかするよ』

『何とかするって、どうするの?』

『また探せばいいさ』

その言葉が、かえって和子を焦らせた。

この部屋を逃したら、もう2度と出会えないかもしれない。

そんな思いが膨らんでいく。

『私が出す』

思わず口にしていた。

『えっ?』

『先月のボーナスとアパートの更新費用もまだ使ってないから』

宙はしばらく黙っていた。

『……本当にいいのか?』

『もちろん。私たちの新しい生活のためでしょう?』

その声は弾んでいた。

和子の頭の中にはもう、

表参道の新しい部屋で、宙と並んで暮らす未来しか見えていなかった。

『ありがとう』

宙は静かに言った。

『昼休み、会社の近くまで行くよ。近くに着いたら電話する』

『うん。待ってる』

電話が切れても、和子はしばらく受話器を握ったままだった。

夢は、手を伸ばせば届くところまで来た。

そう信じて疑わなかった。

けれど、その夢は――

誰かが丁寧に描いた幻だった。
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