『ねえ、いつになったら私たち、一緒に暮らせるの?』
和子は唇を尖らせた。
『"もう少し"って何度聞いたか分からないわ。待つのにも限界があるのよ』
宙は困ったように笑う。
『悪いな。でも妥協だけはしたくないんだ。二人で暮らす最初の部屋だろう?和ちゃんが心から喜べる場所を見つけたいんだよ』
その言葉に、和子の表情が少しだけ和らいだ。
『宙って、本当に優しいね』
そう言って笑う顔は、恋をしている女性そのものだった。
『今の部屋に帰るたび嫌になるの。狭いし、おばあちゃんは一日中同じ話ばかりしてるし……。一秒でも早く出たい』
その言葉を聞きながら、宙は一瞬だけ目を伏せた。
本当なら叱りたかった。
親をそんなふうに言ってはいけない、と。
だが、その感情は胸の奥へ押し込める。
今は優しい恋人でいることが、自分にとって一番大切だった。
宙にも、忘れられない過去があった。
中学生のある日。
父親は『煙草を買ってくる』と言って家を出たまま、二度と帰らなかった。
残されたのは母親と四人の子どもたち。
生活は一変した。
働いた経験のない母親は昼も夜も仕事を掛け持ちしたが、家計は苦しいままだった。
日に日にやつれていく母親を見ながら、宙は野球を諦めた。
小学校でも中学校でもキャプテンを務め、強豪校への推薦まで決まっていた。
それでも夢を捨てた。
弟や妹を守るため。
母親を助けるため。
新聞配達をしながら家計を支える毎日だった。
だが数年後。
母親は突然、再婚すると言った。
相手は勤め先の社長。
妻を亡くし、子どものいない男性だった。
四人きょうだい全員を引き取るという。
弟や妹は新しい暮らしに胸を躍らせた。
だが宙だけは違った。
自分が諦めてきたもの。
我慢してきたもの。
それらが、一瞬で置き去りにされた気がした。
母親に裏切られた――。
その思いだけが胸に残った。
家を飛び出し、一人で東京へ向かう。
いつしか宙の中には、人を信じる気持ちより、
『裏切られる前に、自分が先に利用すればいい』
そんな歪んだ考えが根を下ろしていった。
数日後。
宙は和子へ電話をかけた。
『もしもし、和ちゃん?』
『宙?』
『今、不動産屋なんだけどね』
少し興奮した声だった。
『やっと見つけたんだ。和ちゃんが絶対気に入る部屋』
『本当?』
『表参道から歩いて3分。2LDKで、まだ築浅なんだ。景色も最高だったよ』
和子の胸が高鳴る。
表参道。
以前から一度は住んでみたいと話していた街だった。
『見に行きたい!』
『それが今日契約しないと、次の人に決まりそうなんだ』
少し間を置いて、宙はため息をついた。
『仕方ないかな……』
『えっ?』
『今ちょうど仕事の資金を動かしてるだろ。手元に余裕がなくてさ。今回は縁がなかったと思うしかないかな』
諦めたような声だった。
和子は胸が締めつけられる。
ようやく2人で暮らせる。
そんな未来が、目の前から消えようとしていた。
『……どのくらい必要なの?』
宙は少しだけ黙った。
『今日中に手付金として50万円なんだ。何とかするよ』
『何とかするって、どうするの?』
『また探せばいいさ』
その言葉が、かえって和子を焦らせた。
この部屋を逃したら、もう2度と出会えないかもしれない。
そんな思いが膨らんでいく。
『私が出す』
思わず口にしていた。
『えっ?』
『先月のボーナスとアパートの更新費用もまだ使ってないから』
宙はしばらく黙っていた。
『……本当にいいのか?』
『もちろん。私たちの新しい生活のためでしょう?』
その声は弾んでいた。
和子の頭の中にはもう、
表参道の新しい部屋で、宙と並んで暮らす未来しか見えていなかった。
『ありがとう』
宙は静かに言った。
『昼休み、会社の近くまで行くよ。近くに着いたら電話する』
『うん。待ってる』
電話が切れても、和子はしばらく受話器を握ったままだった。
夢は、手を伸ばせば届くところまで来た。
そう信じて疑わなかった。
けれど、その夢は――
誰かが丁寧に描いた幻だった。