『あなた、起きて』
まだ夜が明けきらない静かな部屋に、張りつめた声が響いた。
『こんな朝早く……どうしたんだ』
眠そうに目をこすった櫻田マスターの前へ、一枚の写真が差し出された。
『これ、どういうこと?』
そこには、温泉旅館の浴衣姿で並んで微笑む櫻田マスターと香奈ちゃんが写っていた。
マスターは写真を見た瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
『……これは』
言葉が出ない。
『昨日、この写真が私宛てに送られてきたの』
奥様の声は震えていた。
『説明して』
部屋には重苦しい沈黙だけが流れた。
『違うんだ』
ようやく絞り出した言葉だった。
『こんな写真は……』
しかし、その続きを口にする前に、奥様が遮った。
『見え透いた言い訳は聞きたくないわ』
その一言が胸に突き刺さった。
『それに最近、何度も無言電話がかかってくるの。その相手も、この人なんでしょう』
マスターはうつむいた。
何を言っても信じてもらえない。
そんな空気だった。
『悪かった』
その一言が、かえって事態を悪くした。
『認めるのね』
『違う、そういう意味じゃ……』
『もういいわ』
奥様は静かに立ち上がった。
『しばらく実家へ帰ります』
荷物をまとめる音だけが部屋に響く。
止める言葉も見つからないまま、玄関のドアは静かに閉まった。
部屋には、取り残されたような静けさだけが残った。
一人になったマスターは、しばらく動けなかった。
頭の中では同じことが何度も繰り返されていた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
そして、自然と受話器に手が伸びていた。
『もしもし』
電話口から聞こえたのは、香奈ちゃんの声だった。
『俺だ』
『……どちら様ですか?』
『櫻田だ』
しばらく沈黙が続いた。
『何のご用でしょう』
その冷たい声に、マスターは感情を抑えきれなかった。
『写真を送ったのは君だろう』
『何のことか分かりません』
『とぼけるな』
思わず声が大きくなる。
『こんなことをして何になるんだ』
受話器の向こうで、小さく笑うような気配がした。
『知りません』
そして、そのまま電話は切れた。
受話器を置いた香奈ちゃんは、窓の外を静かに眺めていた。
心のどこかで思っていた。
これで少しは私の苦しみが伝わっただろうか、と。
愛した人に裏切られた悲しみ。
一人取り残された寂しさ。
その痛みを、相手にも味わってほしかった。
ただ、それだけだった。
けれど、人を傷つけることで、自分の傷が癒えることはない。
そのことを、香奈ちゃんはまだ知らなかった。
そして美月も、この出来事が終わりではないことだけは感じていた。
胸騒ぎは消えない。
むしろ日を追うごとに大きくなっていく。
その時の美月は、まだ知る由もなかった。
この小さな出来事が、やがて誰も予想しなかった悲しい結末へとつながっていくことを。