【連載小説】第98話 消えない傷

【連載小説】第98話 消えない傷

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『あなた、起きて』

まだ夜が明けきらない静かな部屋に、張りつめた声が響いた。

『こんな朝早く……どうしたんだ』

眠そうに目をこすった櫻田マスターの前へ、一枚の写真が差し出された。

『これ、どういうこと?』

そこには、温泉旅館の浴衣姿で並んで微笑む櫻田マスターと香奈ちゃんが写っていた。

マスターは写真を見た瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。

『……これは』

言葉が出ない。

『昨日、この写真が私宛てに送られてきたの』

奥様の声は震えていた。

『説明して』

部屋には重苦しい沈黙だけが流れた。

『違うんだ』

ようやく絞り出した言葉だった。

『こんな写真は……』

しかし、その続きを口にする前に、奥様が遮った。

『見え透いた言い訳は聞きたくないわ』

その一言が胸に突き刺さった。

『それに最近、何度も無言電話がかかってくるの。その相手も、この人なんでしょう』

マスターはうつむいた。

何を言っても信じてもらえない。

そんな空気だった。

『悪かった』

その一言が、かえって事態を悪くした。

『認めるのね』

『違う、そういう意味じゃ……』

『もういいわ』

奥様は静かに立ち上がった。

『しばらく実家へ帰ります』

荷物をまとめる音だけが部屋に響く。

止める言葉も見つからないまま、玄関のドアは静かに閉まった。

部屋には、取り残されたような静けさだけが残った。

一人になったマスターは、しばらく動けなかった。

頭の中では同じことが何度も繰り返されていた。

どうしてこんなことになってしまったのか。

そして、自然と受話器に手が伸びていた。

『もしもし』

電話口から聞こえたのは、香奈ちゃんの声だった。

『俺だ』

『……どちら様ですか?』

『櫻田だ』

しばらく沈黙が続いた。

『何のご用でしょう』

その冷たい声に、マスターは感情を抑えきれなかった。

『写真を送ったのは君だろう』

『何のことか分かりません』

『とぼけるな』

思わず声が大きくなる。

『こんなことをして何になるんだ』

受話器の向こうで、小さく笑うような気配がした。

『知りません』

そして、そのまま電話は切れた。

受話器を置いた香奈ちゃんは、窓の外を静かに眺めていた。

心のどこかで思っていた。

これで少しは私の苦しみが伝わっただろうか、と。

愛した人に裏切られた悲しみ。

一人取り残された寂しさ。

その痛みを、相手にも味わってほしかった。

ただ、それだけだった。

けれど、人を傷つけることで、自分の傷が癒えることはない。

そのことを、香奈ちゃんはまだ知らなかった。

そして美月も、この出来事が終わりではないことだけは感じていた。

胸騒ぎは消えない。

むしろ日を追うごとに大きくなっていく。

その時の美月は、まだ知る由もなかった。

この小さな出来事が、やがて誰も予想しなかった悲しい結末へとつながっていくことを。
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