『ねえ、美月ちゃん。最近、変なのよ』
久しぶりに香奈ちゃんとランチへ出かけた。
場所は、目黒の庭園美術館近くにあるお気に入りのイタリアンレストラン。
テラスには心地よい風が吹き、穏やかな昼下がりだった。
それなのに、香奈ちゃんの表情だけは晴れなかった。
黒いタンクトップに幾何学模様のロングスカート。
道行く人が思わず振り返るほど華やかな装いだったが、その瞳には怯えが宿っていた。
『誰かにつけられている気がするの』
『どういうこと?』
『昨日もね、お店からタクシーで帰ったでしょう。降りる時に運転手さんが、「銀座からずっと後ろを走っている車がありますよ。気をつけてください」って』
香奈ちゃんは小さく身震いした。
『振り返ったら、少し離れたところに黒い車が止まっていたの』
『考えすぎじゃない?』
私は笑って答えた。
『こんな真っ昼間からサスペンスじゃあるまいし』
そう言ってみたものの、香奈ちゃんの不安そうな表情は変わらなかった。
『そうだといいんだけど……』
その声だけが、妙に胸に残った。
数日後。
香奈ちゃんのもとへ一本の電話が入った。
『俺だけど』
聞き慣れた声だった。
『……何の用?』
『一度、会って話がしたい』
『今さら何を話すの?』
『ちゃんと謝りたい』
その言葉に、香奈ちゃんは黙り込んだ。
忘れようとしても忘れられない相手だった。
だからこそ、心は揺れた。
『今日の六時、あのホテルの喫茶店で待っている』
「あのホテル」
二人が何度も待ち合わせを重ねた場所だった。
『……分かった』
電話を切ったあとも、受話器を握る手は震えていた。
しばらくして、香奈ちゃんから美月に電話がかかってきた。
『美月ちゃん、怒らないで聞いてね』
『どうしたの?』
『マスターから電話があったの』
私は思わず息をのんだ。
『それで?』
『会う約束をしちゃった』
『香奈ちゃん……』
自然と言葉がこぼれた。
『もう十分苦しんだでしょう。また会えば、もっと傷つくだけじゃない?』
電話の向こうで、小さく笑う声がした。
『そう思うよね。でも……まだ忘れられないの』
その一言が切なかった。
『謝りたいって言うの』
『私は行かないほうがいいと思う』
少し間を置いて続けた。
『もちろん決めるのは香奈ちゃん。でも、二人きりで会うのは心配なの』
『ありがとう』
香奈ちゃんは穏やかな声で言った。
『美月ちゃんに話したら少し楽になった』
『帰ったら連絡してね』
『うん、分かった』
電話は切れた。
それでも、私の胸騒ぎは消えなかった。
夕方。
約束のホテルは銀座からほど近い場所にあった。
重厚なロビーには静かな音楽が流れ、アンティーク調の家具が落ち着いた雰囲気を漂わせている。
『やあ、待ったかな』
『ううん、今来たところ』
『ここじゃ落ち着かない。部屋を取ってあるんだ』
『私はそんなつもりで来たんじゃないわ』
『少し話をするだけだ』
櫻田マスターは静かに微笑み、エレベーターへ向かった。
香奈ちゃんは一瞬ためらったものの、その後ろを歩き始めた。
二人が乗り込むと、扉がゆっくり閉まり始める。
その瞬間だった。
『失礼します』
一人の男性が、閉まりかけた扉に手を添え、静かに乗り込んできた。
どこにでもいそうな、ごく普通の中年男性だった。
美月はその時、もちろんその場にはいなかった。
それでも後になって思う。
あのエレベーターの扉が閉まった瞬間から、運命の歯車は静かに回り始めていたのだと。