【連載小説】第99話 胸騒ぎの約束

【連載小説】第99話 胸騒ぎの約束

記事
小説

『ねえ、美月ちゃん。最近、変なのよ』

久しぶりに香奈ちゃんとランチへ出かけた。

場所は、目黒の庭園美術館近くにあるお気に入りのイタリアンレストラン。

テラスには心地よい風が吹き、穏やかな昼下がりだった。

それなのに、香奈ちゃんの表情だけは晴れなかった。

黒いタンクトップに幾何学模様のロングスカート。

道行く人が思わず振り返るほど華やかな装いだったが、その瞳には怯えが宿っていた。

『誰かにつけられている気がするの』

『どういうこと?』

『昨日もね、お店からタクシーで帰ったでしょう。降りる時に運転手さんが、「銀座からずっと後ろを走っている車がありますよ。気をつけてください」って』

香奈ちゃんは小さく身震いした。

『振り返ったら、少し離れたところに黒い車が止まっていたの』

『考えすぎじゃない?』

私は笑って答えた。

『こんな真っ昼間からサスペンスじゃあるまいし』

そう言ってみたものの、香奈ちゃんの不安そうな表情は変わらなかった。

『そうだといいんだけど……』

その声だけが、妙に胸に残った。

数日後。

香奈ちゃんのもとへ一本の電話が入った。

『俺だけど』

聞き慣れた声だった。

『……何の用?』

『一度、会って話がしたい』

『今さら何を話すの?』

『ちゃんと謝りたい』

その言葉に、香奈ちゃんは黙り込んだ。

忘れようとしても忘れられない相手だった。

だからこそ、心は揺れた。

『今日の六時、あのホテルの喫茶店で待っている』

「あのホテル」

二人が何度も待ち合わせを重ねた場所だった。

『……分かった』

電話を切ったあとも、受話器を握る手は震えていた。

しばらくして、香奈ちゃんから美月に電話がかかってきた。

『美月ちゃん、怒らないで聞いてね』

『どうしたの?』

『マスターから電話があったの』

私は思わず息をのんだ。

『それで?』

『会う約束をしちゃった』

『香奈ちゃん……』

自然と言葉がこぼれた。

『もう十分苦しんだでしょう。また会えば、もっと傷つくだけじゃない?』

電話の向こうで、小さく笑う声がした。

『そう思うよね。でも……まだ忘れられないの』

その一言が切なかった。

『謝りたいって言うの』

『私は行かないほうがいいと思う』

少し間を置いて続けた。

『もちろん決めるのは香奈ちゃん。でも、二人きりで会うのは心配なの』

『ありがとう』

香奈ちゃんは穏やかな声で言った。

『美月ちゃんに話したら少し楽になった』

『帰ったら連絡してね』

『うん、分かった』

電話は切れた。

それでも、私の胸騒ぎは消えなかった。

夕方。

約束のホテルは銀座からほど近い場所にあった。

重厚なロビーには静かな音楽が流れ、アンティーク調の家具が落ち着いた雰囲気を漂わせている。

『やあ、待ったかな』

『ううん、今来たところ』

『ここじゃ落ち着かない。部屋を取ってあるんだ』

『私はそんなつもりで来たんじゃないわ』

『少し話をするだけだ』

櫻田マスターは静かに微笑み、エレベーターへ向かった。

香奈ちゃんは一瞬ためらったものの、その後ろを歩き始めた。

二人が乗り込むと、扉がゆっくり閉まり始める。

その瞬間だった。

『失礼します』

一人の男性が、閉まりかけた扉に手を添え、静かに乗り込んできた。

どこにでもいそうな、ごく普通の中年男性だった。

美月はその時、もちろんその場にはいなかった。

それでも後になって思う。

あのエレベーターの扉が閉まった瞬間から、運命の歯車は静かに回り始めていたのだと。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す