エレベーターの中に流れる静けさは、不思議なほど長く感じられた。
誰一人として口を開かない。
目的の階へ早く着いてほしい――そんな思いだけが、狭い空間を満たしていた。
15階に到着すると、櫻田マスターと香奈ちゃんは静かに降りた。
その時だった。
一階で慌ただしく乗り込んできた眼鏡の男性も、同じように15階で降りた。
客室しかないフロアだった。
香奈ちゃんは、その男性と一瞬だけ目が合った気がした。
だが相手は、すぐに視線をそらした。
どこか気になったものの、考えすぎだろうと自分に言い聞かせる。
男性は書類かばんを開き、何かを探すようなしぐさを見せていた。
鍵でも探しているのだろう。
そう思った香奈ちゃんは、それ以上気にも留めず、櫻田マスターの後を追った。
部屋へ入ろうとした、その瞬間だった。
静まり返った廊下に、小さく何かが鳴った気がした。
『カチッ』
ほんのわずかな音。
けれど、その時の香奈ちゃんは気のせいだと思った。
ここ数日、誰かにつけられているような気がして神経質になっているだけだ、と。
そのまま扉は閉まり、数時間が過ぎた。
久しぶりに向き合った二人は、言葉を交わし、心の距離を埋めようとしていた。
香奈ちゃんは、再び櫻田マスターに寄り添えたことに、どこか安堵していた。
一方の櫻田マスターも、妻と別居したまま先の見えない生活に疲れ果てていた。
どこかで元の生活へ戻れると信じていた。
しかし、その願いは突然打ち砕かれる。
数日後、一本の電話が入った。
『岡崎法律事務所と申します』
『……法律事務所?』
『奥様から離婚手続きについて一任され、ご連絡いたしました』
突然の言葉に、櫻田マスターは耳を疑った。
『離婚?そんな話は聞いていない』
『奥様は、今後は直接の連絡をご遠慮いただきたいとのご意向です』
『そんな馬鹿な……』
受話器を握る手に力が入る。
何を言っても、もう届かない。
電話を切ったあとも、しばらく動くことができなかった。
後になって分かったことだった。
あの日、エレベーターに乗り合わせた眼鏡の男性。
その正体は、法律事務所から依頼を受けた探偵だった。
ホテルの部屋へ入る2人の姿は、決定的な証拠として写真に収められていたのである。
香奈ちゃんが耳にした、あの小さな音。
あれは気のせいではなかった。
シャッターが切られた音だったのだ。
その後、櫻田マスターは家庭裁判所へ何度も足を運ぶことになった。
慰謝料の支払いに加え、豊洲のマンションも手放すことになった。
手元に残ったのは、銀座の店だけだった。
それでも櫻田マスターは店に立ち続けた。
仕事だけを見つめ、懸命に前を向いた。
やがて店は3店舗にまで増え、銀座を代表するバーマスターとして、再び多くの人に知られる存在になっていった。
その頃、私は一本の電話を受けた。
『美月ちゃん……私、大変なことになっちゃった』
聞き慣れた香奈ちゃんの声だった。
『どうしたの?』
『最近、すごく疲れやすくて病院へ行ったの。血液検査をしたら、詳しい検査が必要だって言われて……来週、検査入院することになったの』
『えっ、そうなの?』
突然の知らせに言葉を失った。
『でも、何も分かった訳じゃないでしょう。きっと大丈夫よ』
自分に言い聞かせるように、美月はそう答えた。
『検査が終わったら電話するね』
『うん。待ってるから』
電話を切ったあとも、不安は胸から消えなかった。
人生は、ときに残酷なほど無情だ。
ようやく前を向こうとしていた香奈ちゃんを、運命は再び試そうとしていた。
その時の美月は、これから待ち受ける現実の重さを、まだ何一つ知らなかった。