【連載小説】第100話 運命の代償

【連載小説】第100話 運命の代償

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エレベーターの中に流れる静けさは、不思議なほど長く感じられた。

誰一人として口を開かない。

目的の階へ早く着いてほしい――そんな思いだけが、狭い空間を満たしていた。

15階に到着すると、櫻田マスターと香奈ちゃんは静かに降りた。

その時だった。

一階で慌ただしく乗り込んできた眼鏡の男性も、同じように15階で降りた。

客室しかないフロアだった。

香奈ちゃんは、その男性と一瞬だけ目が合った気がした。

だが相手は、すぐに視線をそらした。

どこか気になったものの、考えすぎだろうと自分に言い聞かせる。

男性は書類かばんを開き、何かを探すようなしぐさを見せていた。

鍵でも探しているのだろう。

そう思った香奈ちゃんは、それ以上気にも留めず、櫻田マスターの後を追った。

部屋へ入ろうとした、その瞬間だった。

静まり返った廊下に、小さく何かが鳴った気がした。

『カチッ』

ほんのわずかな音。

けれど、その時の香奈ちゃんは気のせいだと思った。

ここ数日、誰かにつけられているような気がして神経質になっているだけだ、と。

そのまま扉は閉まり、数時間が過ぎた。

久しぶりに向き合った二人は、言葉を交わし、心の距離を埋めようとしていた。

香奈ちゃんは、再び櫻田マスターに寄り添えたことに、どこか安堵していた。

一方の櫻田マスターも、妻と別居したまま先の見えない生活に疲れ果てていた。

どこかで元の生活へ戻れると信じていた。

しかし、その願いは突然打ち砕かれる。

数日後、一本の電話が入った。

『岡崎法律事務所と申します』

『……法律事務所?』

『奥様から離婚手続きについて一任され、ご連絡いたしました』

突然の言葉に、櫻田マスターは耳を疑った。

『離婚?そんな話は聞いていない』

『奥様は、今後は直接の連絡をご遠慮いただきたいとのご意向です』

『そんな馬鹿な……』

受話器を握る手に力が入る。

何を言っても、もう届かない。

電話を切ったあとも、しばらく動くことができなかった。

後になって分かったことだった。

あの日、エレベーターに乗り合わせた眼鏡の男性。

その正体は、法律事務所から依頼を受けた探偵だった。

ホテルの部屋へ入る2人の姿は、決定的な証拠として写真に収められていたのである。

香奈ちゃんが耳にした、あの小さな音。

あれは気のせいではなかった。

シャッターが切られた音だったのだ。

その後、櫻田マスターは家庭裁判所へ何度も足を運ぶことになった。

慰謝料の支払いに加え、豊洲のマンションも手放すことになった。

手元に残ったのは、銀座の店だけだった。

それでも櫻田マスターは店に立ち続けた。

仕事だけを見つめ、懸命に前を向いた。

やがて店は3店舗にまで増え、銀座を代表するバーマスターとして、再び多くの人に知られる存在になっていった。

その頃、私は一本の電話を受けた。

『美月ちゃん……私、大変なことになっちゃった』

聞き慣れた香奈ちゃんの声だった。

『どうしたの?』

『最近、すごく疲れやすくて病院へ行ったの。血液検査をしたら、詳しい検査が必要だって言われて……来週、検査入院することになったの』

『えっ、そうなの?』

突然の知らせに言葉を失った。

『でも、何も分かった訳じゃないでしょう。きっと大丈夫よ』

自分に言い聞かせるように、美月はそう答えた。

『検査が終わったら電話するね』

『うん。待ってるから』

電話を切ったあとも、不安は胸から消えなかった。

人生は、ときに残酷なほど無情だ。

ようやく前を向こうとしていた香奈ちゃんを、運命は再び試そうとしていた。

その時の美月は、これから待ち受ける現実の重さを、まだ何一つ知らなかった。
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