銀座の街に、涼しげな風鈴の音が響き始めた。
浴衣姿の女性たちが行き交い、街は少しずつ夏祭りの装いへと変わっていく。
クラブ結でも恒例の夏祭りに向けて準備が始まっていた。
浅草へ半纏を買いに行き、日暮里で駄菓子を探し、案内状や暑中見舞いを作る。
気がつけば、一日があっという間に終わる毎日だった。
そんな忙しさの中で、香奈ちゃんのことはいつも心の片隅にあった。
検査入院すると聞いて以来、連絡はない。
「電話をしよう」
そう思いながらも時間だけが過ぎ、気づけば数週間が経っていた。
店は開店から半年。
少しずつ常連のお客様も増え、深夜になると他店のホステスさんたちがアフターで立ち寄ってくれるようになった。
順調と言えば順調だった。
けれど、私の心はどこか満たされていなかった。
女の子たちはみんな真面目で、一生懸命だった。
接客も悪くない。
それでも、何かが足りない。
そんなある夜だった。
常連の渡辺さんが、一人の女の子を連れて来店した。
奈津子ちゃんというその子が店へ入った瞬間、不思議なくらい空気が変わった。
店中の視線が、一斉に彼女へ集まる。
明るい笑い声。
飾らない笑顔。
その場にいる誰もが自然と引き込まれていた。
美月は胸が高鳴った。
『この子だ』
理由なんて説明できない。
ただ直感だった。
美月が探し続けていたのは、この子かもしれない。
そう思った。
けれど、お客様に連れられて来た女性へ声を掛けるのは、この世界では暗黙のルールに反する。
その夜は結局、何も言えないまま奈津子ちゃんは帰っていった。
それでも諦めきれなかった。
数日後、私は意を決して渡辺さんへ電話をかけた。
『もしもし、渡辺さん。お仕事中でしたらすみません』
『おっ、ママ。珍しいね。どうした?』
『実は……お願いがあって』
少しためらいながら切り出した。
『この前、ご一緒だった奈津子ちゃんですが、もしご本人が嫌でなければ、一度お会いできないでしょうか』
電話の向こうで渡辺さんが笑った。
『いやあ、驚いたな』
美月は思わず身構えた。
『実はね、奈津子ちゃん、今のお店を辞めようか悩んでいて、新しい店を探してるって相談されたばかりなんだよ』
『本当ですか?』
思わず声が弾んだ。
『じゃあ、ママの電話番号を教えておくよ』
『ありがとうございます。本当にありがとうございます』
電話を切った瞬間、胸がいっぱいになった。
人との縁とは、不思議なものだ。
まだ何も始まっていないのに、私は奈津子ちゃんがお店へ来てくれるような気がしていた。
すると間もなく電話が鳴った。
美月は思わず受話器を取った。
「奈津子ちゃんかしら」
そう思った。
けれど、聞こえてきたのは、力なく沈んだ香奈ちゃんの声だった。
『美月ちゃん……電話しなくて、ごめんね』
『香奈ちゃん!私も電話しようと思っていたの。体調はどう?』
しばらく沈黙が続いた。
そして、小さな声で言った。
『病名が分かったの』
胸が締めつけられた。
『やっぱり病気だったの?』
『うん……少しやっかいな病気みたい』
『今どこにいるの?すぐ行くわ』
『来ないで』
その返事は、あまりにも静かだった。
『今は一人でいたいの』
『でも……』
『お願い』
その一言だけだった。
電話は静かに切れた。
美月は受話器を握ったまま、しばらく動くことができなかった。
あの沈んだ声だけが、耳に残っていた。
香奈ちゃんは、どれほど不安だったのだろう。
もっと早く連絡していれば。
もっと話を聞いてあげていたら。
そんな思いが胸をよぎる。
それでも美月は、お店を止めることはできなかった。
経営者として、前へ進まなければならない。
店を守ることは、そこで働く女の子たちの生活を守ることでもある。
香奈ちゃんへの心配と、お店への責任。
二つの思いが胸の中で揺れ続けていた。
そして翌日。
奈津子ちゃんとの面接の日がやって来る。
この出会いが、クラブ結の未来を大きく変えることになるとは、その時の美月はまだ知らなかった。