【連載小説】第97話 壊れ始めた心

【連載小説】第97話 壊れ始めた心

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『実は俺は、とんでもない間違いをしてしまったのかもしれない……』

静かなバーのカウンターで、櫻田マスターはグラスを見つめたまま、小さくつぶやいた。

その横顔には、いつもの落ち着きはなかった。

『マスターがそんなことを言うなんて……何があったんですか?』

しばらく沈黙が流れた。

やがてマスターは、重い口を開いた。

『俺は昔から、公私混同だけはするまいと決めてきたんだ。店では感情を持ち込まない。家族のことも、自分のことも話さない。それが客商売だと思って生きてきた』

一度言葉を切ると、苦笑いを浮かべた。

『でも三か月くらい前かな。香奈ちゃんを酔って家まで送った夜があった。その時……一線を越えてしまった』

美月は思わず息をのんだ。

『それから付き合うようになったんだ。でも、俺は家庭もある。このまま続けるわけにはいかないと思って距離を置こうとした』

マスターは深く息をついた。

『ところが香奈ちゃんは、それを受け入れられなかった』

美月は静かに聞いていた。

『今日みたいなことが続いているんだ。この先、何か起きるような気がしてならない』

そして、美月の目を見た。

『美月ママ、頼めないだろうか』

嫌な予感がした。

『香奈ちゃんとは友達なんだろう?君から少し話をしてもらえないか。穏やかに別れられるように……』

美月はゆっくり首を横に振った。

『申し訳ありません。でも、それは私にはできません』

マスターは黙っていた。

『二人の問題は、お二人で向き合うしかないと思います』

『そうか……』

その一言だけだった。

けれど、その表情には焦りと後悔が入り混じっていた。

『俺だって苦しいんだ』

マスターは静かに続けた。

『こんなことになるとは思わなかった』

美月は何も答えられなかった。

その夜のマスターは、美月が尊敬してきた櫻田マスターとは、どこか違って見えた。

人はどんなに立派に見えても、弱さを抱えて生きている。

そんな当たり前のことを、私は初めて思い知らされた気がした。

美月は席を立ち、マスターの店へ戻った。

奥の部屋では香奈ちゃんがまだ眠っていた。

『香奈ちゃん、帰ろう』

肩を揺すると、ゆっくり目を開けた。

『あれ……ここ、どこ?』

『マスターのお店よ。心配して呼ばれたの』

香奈ちゃんはぼんやり私を見つめ、小さく笑った。

『迷惑かけちゃったね……』

『今日は何も考えなくていいから』

美月はタクシーを拾い、香奈ちゃんを家まで送った。

別れ際、香奈ちゃんは力なく笑った。

でも、その目だけは笑っていなかった。

何かを必死に押し殺しているような、そんな目だった。

その表情が妙に胸に引っかかった。

数日後。

気分転換になればと思い、私は香奈ちゃんを知り合いのバーへ誘った。

休日ということもあり、二人とも久しぶりに時間を忘れて飲んだ。

笑って、歌って、昔話をして。

少しだけ以前の香奈ちゃんに戻ったように見えた。

『ちょっと、お化粧室へ行ってくるね』

そう言って席を立った香奈ちゃんは、なかなか戻って来なかった。

心配になって様子を見に行こうとした時だった。

通路の奥で、香奈ちゃんが公衆電話の受話器を握っていた。

受話器を置いては、またかける。

それを何度も繰り返している。

美月は胸がざわついた。

『香奈ちゃん……』

振り向いた香奈ちゃんの目には、涙があふれていた。

『悔しいの……』

それだけ言うと、また受話器へ手を伸ばそうとした。

美月はその手をそっと押さえた。

『もうやめよう』

『でも……』

『こんなことをしても、苦しいのは香奈ちゃん自身よ』

香奈ちゃんはその場にしゃがみ込み、声を殺して泣き始めた。

美月は何も言えなかった。

好きになればなるほど、思いどおりにならない現実に心は傷つく。

その傷を抱えきれなくなった時、人は自分でも思いがけない行動を取ってしまうことがある。

その夜の美月は、ただ一つだけ強く感じていた。

胸騒ぎがする。

そして、その胸騒ぎは、残念なことに外れることはなかった。
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