『実は俺は、とんでもない間違いをしてしまったのかもしれない……』
静かなバーのカウンターで、櫻田マスターはグラスを見つめたまま、小さくつぶやいた。
その横顔には、いつもの落ち着きはなかった。
『マスターがそんなことを言うなんて……何があったんですか?』
しばらく沈黙が流れた。
やがてマスターは、重い口を開いた。
『俺は昔から、公私混同だけはするまいと決めてきたんだ。店では感情を持ち込まない。家族のことも、自分のことも話さない。それが客商売だと思って生きてきた』
一度言葉を切ると、苦笑いを浮かべた。
『でも三か月くらい前かな。香奈ちゃんを酔って家まで送った夜があった。その時……一線を越えてしまった』
美月は思わず息をのんだ。
『それから付き合うようになったんだ。でも、俺は家庭もある。このまま続けるわけにはいかないと思って距離を置こうとした』
マスターは深く息をついた。
『ところが香奈ちゃんは、それを受け入れられなかった』
美月は静かに聞いていた。
『今日みたいなことが続いているんだ。この先、何か起きるような気がしてならない』
そして、美月の目を見た。
『美月ママ、頼めないだろうか』
嫌な予感がした。
『香奈ちゃんとは友達なんだろう?君から少し話をしてもらえないか。穏やかに別れられるように……』
美月はゆっくり首を横に振った。
『申し訳ありません。でも、それは私にはできません』
マスターは黙っていた。
『二人の問題は、お二人で向き合うしかないと思います』
『そうか……』
その一言だけだった。
けれど、その表情には焦りと後悔が入り混じっていた。
『俺だって苦しいんだ』
マスターは静かに続けた。
『こんなことになるとは思わなかった』
美月は何も答えられなかった。
その夜のマスターは、美月が尊敬してきた櫻田マスターとは、どこか違って見えた。
人はどんなに立派に見えても、弱さを抱えて生きている。
そんな当たり前のことを、私は初めて思い知らされた気がした。
美月は席を立ち、マスターの店へ戻った。
奥の部屋では香奈ちゃんがまだ眠っていた。
『香奈ちゃん、帰ろう』
肩を揺すると、ゆっくり目を開けた。
『あれ……ここ、どこ?』
『マスターのお店よ。心配して呼ばれたの』
香奈ちゃんはぼんやり私を見つめ、小さく笑った。
『迷惑かけちゃったね……』
『今日は何も考えなくていいから』
美月はタクシーを拾い、香奈ちゃんを家まで送った。
別れ際、香奈ちゃんは力なく笑った。
でも、その目だけは笑っていなかった。
何かを必死に押し殺しているような、そんな目だった。
その表情が妙に胸に引っかかった。
数日後。
気分転換になればと思い、私は香奈ちゃんを知り合いのバーへ誘った。
休日ということもあり、二人とも久しぶりに時間を忘れて飲んだ。
笑って、歌って、昔話をして。
少しだけ以前の香奈ちゃんに戻ったように見えた。
『ちょっと、お化粧室へ行ってくるね』
そう言って席を立った香奈ちゃんは、なかなか戻って来なかった。
心配になって様子を見に行こうとした時だった。
通路の奥で、香奈ちゃんが公衆電話の受話器を握っていた。
受話器を置いては、またかける。
それを何度も繰り返している。
美月は胸がざわついた。
『香奈ちゃん……』
振り向いた香奈ちゃんの目には、涙があふれていた。
『悔しいの……』
それだけ言うと、また受話器へ手を伸ばそうとした。
美月はその手をそっと押さえた。
『もうやめよう』
『でも……』
『こんなことをしても、苦しいのは香奈ちゃん自身よ』
香奈ちゃんはその場にしゃがみ込み、声を殺して泣き始めた。
美月は何も言えなかった。
好きになればなるほど、思いどおりにならない現実に心は傷つく。
その傷を抱えきれなくなった時、人は自分でも思いがけない行動を取ってしまうことがある。
その夜の美月は、ただ一つだけ強く感じていた。
胸騒ぎがする。
そして、その胸騒ぎは、残念なことに外れることはなかった。