【連載小説】第96話 眠れぬ夜の告白

【連載小説】第96話 眠れぬ夜の告白

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小説

 『お願い……一人にしないで。もう限界なの……』

香奈ちゃんの声が、静かなバーに響いた。

立っているのもやっとというほど酔いが回り、涙で化粧も崩れていた。

ここは銀座の片隅にある、知る人ぞ知るバー。

看板もなく、紹介がなければたどり着けない店だった。

店主の櫻田マスターは、日本中のバーテンダーが憧れる存在で、多くの若者がこの店で修業し、自分の店を持って巣立っていった。

それほど名の知れた人だったが、自分のことを語る人ではなかった。

『香奈、もうやめよう』

いつも穏やかな櫻田マスターの声が、少しだけ震えていた。

『やめない!』

香奈ちゃんは首を横に振る。

『どうして来てくれなかったのよ。私はずっと待ってたのに……』

店内の空気が張りつめた。

『ここは店なんだ』

櫻田マスターは静かに言った。

『お客様もいる。頼むから落ち着いてくれ』

『嫌よ』

香奈ちゃんは涙を流しながら叫んだ。

『もう私のところへ来ないなんて言わないで』

その声には怒りよりも、置いていかれることへの恐れが滲んでいた。

櫻田マスターは深く息をついた。

『今日は帰ろう』

タクシーを呼び、外まで付き添った。

けれど香奈ちゃんは座り込んだまま動かなかった。

『帰りたくない……』

小さな子どものように首を振る姿に、通りを歩く人たちまで足を止め始めた。

櫻田マスターは困ったように空を見上げると、帰しかけたタクシーを見送り、香奈ちゃんをもう一度店へ連れ戻した。

店の奥にある小さな部屋へ寝かせると、毛布を掛け、静かにドアを閉めた。

しばらくして、美月の店へ一本の電話が入った。

『もしもし、美月ママ?』

『あら、マスター珍しいですね』

『お願いがあるんだ』

その声には、いつもの落ち着きがなかった。

『香奈ちゃんが酔いつぶれてしまってね。男ばかりではどうにもならない。店が終わったら来てもらえないかな』

『香奈ちゃんが?』

思わず聞き返した。

『お願いだ』

その一言だけで、事の深刻さが伝わってきた。

店を閉めると、私は急いでマスターのお店へ向かった。

奥の部屋では香奈ちゃんが深く眠っていた。

『香奈ちゃん』

肩を優しく揺すると、小さく何かつぶやいたが、また眠ってしまう。

『起きられそうにないわね』

私がそう言うと、櫻田マスターは苦笑した。

『やっぱり駄目か』

その顔には疲れがにじんでいた。

『せっかく来てもらったのに悪かったね』

『いいえ』

私は首を振った。

『何か、お力になれればよかったのですが』

櫻田マスターは少し黙り、それから静かに言った。

『朝まで寝かせるしかないな』

そして、少し照れくさそうに笑った。

『もし時間があるなら、一杯付き合ってくれないか』

私はその笑顔を見て確信した。

マスターは、お酒に誘ったのではない。

誰かに話を聞いてほしかったのだ。

『もちろんです』

私は笑って答えた。

『今夜はマスターとデートですね』

二人で店を出て、歩いて数分のバーへ向かった。

そこは櫻田マスターの教え子が営む店だった。

落ち着いた照明の中、静かなジャズが流れている。

カウンターに座ると、マスターはグラスを見つめたまま、しばらく何も話さなかった。

やがて、小さく息をつく。

『今日は来てもらって悪かったね』

『いいえ。何もできませんでしたけど』

しばらく沈黙が流れた。

その静けさが、かえって次の言葉の重さを感じさせた。

櫻田マスターはゆっくり顔を上げた。

『実はね……』

その一言から、誰にも話したことのない夜が静かに始まろうとしていた。
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