『お願い……一人にしないで。もう限界なの……』
香奈ちゃんの声が、静かなバーに響いた。
立っているのもやっとというほど酔いが回り、涙で化粧も崩れていた。
ここは銀座の片隅にある、知る人ぞ知るバー。
看板もなく、紹介がなければたどり着けない店だった。
店主の櫻田マスターは、日本中のバーテンダーが憧れる存在で、多くの若者がこの店で修業し、自分の店を持って巣立っていった。
それほど名の知れた人だったが、自分のことを語る人ではなかった。
『香奈、もうやめよう』
いつも穏やかな櫻田マスターの声が、少しだけ震えていた。
『やめない!』
香奈ちゃんは首を横に振る。
『どうして来てくれなかったのよ。私はずっと待ってたのに……』
店内の空気が張りつめた。
『ここは店なんだ』
櫻田マスターは静かに言った。
『お客様もいる。頼むから落ち着いてくれ』
『嫌よ』
香奈ちゃんは涙を流しながら叫んだ。
『もう私のところへ来ないなんて言わないで』
その声には怒りよりも、置いていかれることへの恐れが滲んでいた。
櫻田マスターは深く息をついた。
『今日は帰ろう』
タクシーを呼び、外まで付き添った。
けれど香奈ちゃんは座り込んだまま動かなかった。
『帰りたくない……』
小さな子どものように首を振る姿に、通りを歩く人たちまで足を止め始めた。
櫻田マスターは困ったように空を見上げると、帰しかけたタクシーを見送り、香奈ちゃんをもう一度店へ連れ戻した。
店の奥にある小さな部屋へ寝かせると、毛布を掛け、静かにドアを閉めた。
しばらくして、美月の店へ一本の電話が入った。
『もしもし、美月ママ?』
『あら、マスター珍しいですね』
『お願いがあるんだ』
その声には、いつもの落ち着きがなかった。
『香奈ちゃんが酔いつぶれてしまってね。男ばかりではどうにもならない。店が終わったら来てもらえないかな』
『香奈ちゃんが?』
思わず聞き返した。
『お願いだ』
その一言だけで、事の深刻さが伝わってきた。
店を閉めると、私は急いでマスターのお店へ向かった。
奥の部屋では香奈ちゃんが深く眠っていた。
『香奈ちゃん』
肩を優しく揺すると、小さく何かつぶやいたが、また眠ってしまう。
『起きられそうにないわね』
私がそう言うと、櫻田マスターは苦笑した。
『やっぱり駄目か』
その顔には疲れがにじんでいた。
『せっかく来てもらったのに悪かったね』
『いいえ』
私は首を振った。
『何か、お力になれればよかったのですが』
櫻田マスターは少し黙り、それから静かに言った。
『朝まで寝かせるしかないな』
そして、少し照れくさそうに笑った。
『もし時間があるなら、一杯付き合ってくれないか』
私はその笑顔を見て確信した。
マスターは、お酒に誘ったのではない。
誰かに話を聞いてほしかったのだ。
『もちろんです』
私は笑って答えた。
『今夜はマスターとデートですね』
二人で店を出て、歩いて数分のバーへ向かった。
そこは櫻田マスターの教え子が営む店だった。
落ち着いた照明の中、静かなジャズが流れている。
カウンターに座ると、マスターはグラスを見つめたまま、しばらく何も話さなかった。
やがて、小さく息をつく。
『今日は来てもらって悪かったね』
『いいえ。何もできませんでしたけど』
しばらく沈黙が流れた。
その静けさが、かえって次の言葉の重さを感じさせた。
櫻田マスターはゆっくり顔を上げた。
『実はね……』
その一言から、誰にも話したことのない夜が静かに始まろうとしていた。