『それが……一緒に暮らしている人で』
友子ちゃんは血のにじんだ唇をそっと押さえ、小さな声で答えた。
『一緒に暮らしているって、お姉さん?それともお友達?』
『姉というわけでもないし、友達とも少し違うんです。うまく説明できなくて……』
言葉を選びながら話す友子ちゃんの姿に、私は胸が締めつけられた。
『その人が、この傷を?』
友子ちゃんは黙ったまま、小さくうなずいた。
『でも、こんなになるまで傷つけるなんて普通じゃないわ』
『私が悪かったんです。怒られるようなことをしてしまったので……』
私は思わず首を振った。
『事情は分からない。でも、誰にもこんなことをされていい理由なんてないと思う』
友子ちゃんは俯いたままだった。
『このままの生活じゃいけないって、自分でも思うんです。でも、どうしたらいいのか分からなくて……』
その言葉は、助けを求める声のように聞こえた。
『ご実家へ帰ることはできないの?』
『母は再婚していて、義理の弟もいます。家へ帰っても、自分の居場所がない気がして……。母も気を遣っているのが分かるので、帰りたくないんです』
話し終える頃には、友子ちゃんの頬は涙で濡れていた。
美月は何か励ましの言葉を探した。
けれど、どんな言葉も軽く思えて口にできなかった。
『でもね、このままだけは駄目』
それだけを静かに伝えた。
友子ちゃんは涙を拭きながら、小さくうなずいた。
そして、痛む足をかばうように歩きながら帰っていった。
その後ろ姿が、ひどく小さく見えた。
数日後。
友子ちゃんは無断で店を休んだ。
それまで一度も欠勤したことがない子だった。
嫌な予感がした。
翌日、思い切って電話をかけてみた。
『もしもし。友子ちゃん、いらっしゃいますか?美月と申します』
電話に出たのは女性だった。
『友子は体調を崩していて、今は電話に出られません』
そう言うと、慌ただしく電話は切れてしまった。
それ以上、何も聞くことはできなかった。
私はただ、無事でいてくれることを願うしかなかった。
それから数週間後のことだった。
店へ一本の電話が入った。
『ママですか。友子です』
聞き慣れた声だった。
『友子ちゃん!どうしてたの?心配してたのよ』
『ごめんなさい。本当にごめんなさい』
友子ちゃんは何度も謝った。
『実は……今、北海道にいるんです』
私は驚いた。
『北海道?』
『ママと話をしてから、これからの人生をずっと考えていました。でも、その様子を見て、一緒に暮らしていた人に問い詰められてしまって……』
友子ちゃんは静かに続けた。
『ママに相談したことも全部話してしまいました。そうしたら、お店へ行くことも、外へ出ることも許してもらえなくなったんです』
私は胸が痛くなった。
『私が余計なことを言ったせいね……』
『違います』
友子ちゃんはすぐに言った。
『ママのせいじゃありません。むしろ、あの時の言葉があったから、自分の人生を考えることができました』
その一言に、私は救われた気がした。
『それで、どうしたの?』
『このままでは駄目になると思ったんです』
友子ちゃんの声は、もう以前のような弱々しさはなかった。
『夜中に、その人が寝ている間に家を出ました』
『そうだったの……』
『母に頼んで、離れて暮らしている父の連絡先を教えてもらいました。父は札幌で喫茶店をやっているので、そこへ行こうと思って』
『今は、そのお父さんのところ?』
『はい。今、千歳空港に着いたところです』
私は自然と笑顔になっていた。
『良かった。本当に良かった』
『ママ、ありがとうございました』
友子ちゃんは穏やかな声で言った。
『あのまま東京にいたら、私は何も変われなかったと思います』
『そんなことないわ。変わろうと決めたのは友子ちゃん自身よ』
『でも、最初に背中を押してくれたのはママでした』
しばらく二人とも黙っていた。
『北海道で幸せになってね』
『はい』
短い返事だった。
でも、その一言には、新しい人生へ歩き出す決意が込められていた。
電話を切ったあと、美月は静かに息をついた。
あれほど心配していた出来事が、ようやく終わった。
数年後。
友子ちゃんは、お父さんの喫茶店を手伝いながら、店の常連だった男性と結婚したと風の便りで聞いた。
その知らせを聞いた時、美月は心から思った。
人生は、ほんの少し勇気を出すだけで、大きく変わることがある。
あの日、友子ちゃんが選んだ一歩は、間違いなく新しい人生への第一歩だった。