【連載小説】第60話 運命の橋渡し
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『どうだった?』
ホテルのフロント前のソファーで、
川崎先生は小さく身体を丸めるように座っていた。
その姿を見た瞬間、
私はなぜだかほっとした。
『先生!もう緊張したなんてもんじゃなかったわ』
『ははっ、顔見れば分かるよ』
『でもね、怖い人かと思ってたの。
もっと近寄りがたい感じの。
だけど違った。
すごいオーラなのに優しくて…
私が思い描いていた“銀座のママ”そのものだった』
『そうか』
先生は少し安心したように笑った。
『それで?』
『いつから来れるの?って』
『おお、採用か!』
『夢みたい…。本当に先生のお陰だわ』
そう言った瞬間、
先生の表情が一瞬だけ曇った。
『先生?』
『いや…』
『どうしたの?今日なんだか元気ないわよ』
『別に体調悪いとかじゃないんだ』
『じゃ何?』
先生は少し黙ったあと、
窓の外を見ながらぽつりと言った。
『美月ちゃんが東京へ行ったら、
店も寂しくなるなと思ってさ』
その瞬間、
私は胸の奥がざわついた。
もしかして――。
先生は私のことを…。
いや。
考えすぎかもしれない。
でももしそうだったとしても、
私は気づかないふりをするしかなかった。
先生を傷つけたくなかった。
それに今の私は、
もう銀座しか見えていなかった。
『先生、蘭子ちゃんも麻衣ちゃんもいるじゃない』
私はできるだけ明るく言った。
『みんな先生のこと大好きよ』
『そうか…』
『私ね、もう決めたの。
明日にでも店長に辞めるって話すつもり』
自分でも驚くくらい、
迷いはなかった。
頭の中は、
銀座のことでいっぱいだった。
『自分で姉さん紹介しといて、
なんで銀座なんだよって今さら後悔してる』
先生は苦笑いした。
『私ね、先生と出会った時から不思議だったの。
偶然が重なりすぎてるって』
マンションの広告。
先生との出会い。
銀座のママである姉。
そして今日。
全部、
最初から決まっていた気がした。
『たぶん私は、
最初から東京へ行く運命だったのよ』
『じゃ俺は、
運命の橋渡し役か』
『そうそう』
私は笑った。
『先生、お腹空かない?
今日はお礼に美味しいものご馳走する!』
『いいよそんな…』
『だめ。今日は絶対』
そのあと、
二人で銀座の有名な中華料理店へ行った。
だけど先生は、
どこか上の空だった。
いつもならよく笑うのに、
その日は妙に静かだった。
帰りの車の中も、
会話はほとんどなかった。
私は何度か話しかけたけれど、
先生は小さく返事をするだけだった。
怒っているのかな。
それとも…。
結局、
その答えは分からないまま、
車は私のマンションへ到着した。
『先生、今日は本当にありがとうございました』
『ああ…じゃあな』
先生はそれだけ言うと、
すぐに車を走らせた。
赤いテールランプだけが、
夜の中へ吸い込まれていった。
その数日後だった。
雅子ママから突然電話が入った。
『美月ちゃん、弟のこと聞いてない?』
『え?先生がどうかしたのですか?』
その瞬間、
嫌な胸騒ぎがした。
『昨日ね、会社で倒れたの』
『えっ…』
『緊急入院したのよ』
頭が真っ白になった。
『命に別状はないんだけど…
半身麻痺が残ってしまったの』
『そんな…』
『言葉も今はうまく話せないの』
私は声が出なかった。
あの日の、
元気のない横顔。
無口だった車の中。
全部、
繋がってしまった。
『担当医の話だと、
かなり前から兆候はあったみたいなの』
『私…何も気づかなかった』
『誰のせいでもないわ』
雅子ママは静かに言った。
『病気ってそういうものだから』
『先生には本当にお世話になったのに…』
胸が締めつけられた。
だけど――。
それでも。
それでも私の心は、
銀座へ向かっていた。
怖いくらいに。
『それより美月ちゃん、
部屋探ししなきゃね』
雅子ママは、
まるで背中を押すように言った。
『今週末には来れそう?』
『はい…たぶん』
『待ってるわよ』
電話を切ったあと、
私はしばらく動けなかった。
先生が倒れた。
なのに。
私の頭の中は、
まだ銀座でいっぱいだった。
まるで見えない激流に背中を押されるように、
私は東京へ向かおうとしていた。
もう、
止まれなかった。