店に戻ったところで、もう以前のような居場所はなかった。
美月がペペルモコへ移っていた間に、店の空気はすっかり変わっていた。
奈々ママ、美涙さん、そして新しく入った由美さん——。
三つの勢力が水面下でぶつかり合い、店の中はいつも張りつめていた。
誰が誰の客についた。
誰が悪口を言った。
誰が自分のお客を横取りした。
笑顔の裏では、そんな話ばかりが飛び交っていた。
その渦の中へ戻ってきた美月は、自分でも驚くほど心が冷めているのを感じていた。
もう以前のように、この店で勝ちたいとは思えなかった。
そんなある夏の日だった。
何気なく手に取った住宅情報誌。
その中の一枚の広告に、美月の目は止まった。
市内では珍しい高級賃貸マンション。
広いリビング。
新築。
敷地内にはコンビニまである。
今住んでいる古いアパートとは、まるで別世界だった。
——ここに住みたい。
そう思った瞬間、自分でも怖くなるくらい気持ちが動いた。
まるで誰かに背中を押されているようだった。
その頃の美月は、何もかもが苦しかった。
高坂は、あの事故をきっかけに東京へ転勤になった。
突然の遠距離恋愛。
会いたい時に会えない。
声を聞くだけで安心していたのに、電話を切るたびに孤独だけが残った。
仕事も、恋も、未来も。
何もかもが曖昧になっていた。
だからこそ——
何かを変えたかったのかもしれない。
『すみません。このマンション、まだ空いてますか?』
訪ねた先は、小さな設計事務所だった。
対応してくれたのは、少しお腹の出た柔らかい雰囲気の男性。
『ああ、このマンションね』
人懐っこく笑いながら名刺を差し出した。
“川崎設計一級建築士事務所”
『先生なんですね』
『先生なんて柄じゃないよ』
川崎は照れくさそうに笑った。
『このマンション、実は私が設計したんだ。だからちょっと思い入れがあってね』
その言葉に、なぜか安心した。
マンションは想像以上だった。
広い駐車場。
明るい廊下。
真新しい木の匂い。
中でも東南の角部屋に入った瞬間、美月は決めていた。
『……ここにします』
『即決だね』
『はい。なんだか、この部屋好きです』
『ここは日当たりもいいし、運も入る部屋だからね』
川崎は冗談っぽく笑った。
けれど、その言葉は妙に胸に残った。
数日後。
美月は新しいマンションへ引っ越した。
家具は少なかったが、不思議と心は少し軽くなった。
窓を開けると風が通る。
夜になると街の灯りが静かに見えた。
この部屋なら、自分をやり直せる気がした。
一方、店では相変わらず女同士の争いが続いていた。
知らない客。
知らないルール。
知らない空気。
気づけば、自分の心だけが置いていかれていた。
そんな時だった。
高坂から電話がきた。
『美月ちゃん、どうしてる?東京、落ち着いたよ』
胸が、静かに沈んだ。
好きなのに。
好きだから苦しい。
会えない距離は、少しずつ人を不安に変えていく。
だからあの時、美月は新しい部屋を求めたのかもしれない。
心を壊さないために。
何かを終わらせないために。
けれど——
その出会いが、
これから自分を銀座へ導く最初の扉になるとは、
まだ知るはずもなかった。
そして、
その川崎先生こそ、
雅子の弟だったのである。