櫻木の顧問弁護士が帰った後、
雅子は全身の力が抜けたようになり立ち上がることも出来なくなった。
萌が幼稚園に通うようになってからお手伝いの恒さんは辞めることになり
雅子と萌の二人暮らしだったので家事一切を雅子がしていたが
その日は何をする気力も残っていなかった。
『ママ、ママ!お腹空いた』
といきなり萌が抱きついてきた。
『ん、何?えっ!こんな時間、何も用意してないわ、
萌ごめんね、今日は何か出前お願いしようか?』
『わぁーい!萌はね、ハンバーグとオムライシュが食べたい!』
『まあそんなに食べられるの?それからオムライシュじゃなくてオムライスでしょ』
『萌、オムライス全部食べれるもん、いっぱい食べて大きくなってママに熊さん買ってあげるの』
『熊さんかぁ、いいわね、でもどうして熊さんなの』
『だって熊さんがママを守ってくれるから。
ねえママ知ってる?森で一番強いのは熊さんだよ』
雅子はもう我慢しきれなくなっていきなり萌の体を抱きしめた。
『萌ごめんね。ごめんね。こんなママで』
『ママ痛いよ』
『ねえ萌、この家を出てもっと違うところに住もうか』
『お引越しするの?たーちゃんちもこの前お引越しして海が見えるお家なんだって』
『そう隆君ね。萌とは仲良かったわね』
『うん、萌も海の見えるお家がいい』
『そうね、そうしようね』
『わーい!海!海!』
萌はまだ治りかけた足をぎくしゃくさせながら走り回った。
何も言わず消えることが櫻木への償いだと思った。
幸い櫻木からはこの家を出て行くようにと勧告されただけで
それ以上のことはなかった。
毎月、櫻木から貰っていた生活費の中から
僅かばかりの蓄えもあったので
暫くの間は何とかなる。
もう、誰の影にも頼らない。
それから1ヶ月後、
住み慣れた白山を離れ江東区東雲2丁目へと引越した。
そこは当時としては画期的な高層マンションで
その最上階の32階の窓からは東京湾の海が見えた。
まだそのマンションの周りは開発が遅れていたため
駅や学校へ行くのが不便ではあったが
家賃と景色を考えてそこに決めた。
やはり海の見えるマンションとなると限られた場所でしかなかった。
『もしもし三上さん私だけど今大丈夫?』
『おお、引越しは落ち着いた?』
『まあ、何とか終ったけど変更の手続きやらなんやらで
まだ落ち着かないわ』
『今度、立候補することになってさ、何かと忙しいよ』
『計画通りじゃない、応援するわね』
『それはそうと何か話があるんだろう。電話してきたのは』
『ええ、三上さんに折り入ってお願いがあって電話したの。
三上さんよく銀座に飲みに行くでしょう。
それでもし知り合いのお店があったら紹介してほしいと思って』
『銀座の店?誰が働くの?まさか雅子が?』
『ええ、あら私だってまだ20代よ、それに接客は生まれた時から
知ってるようなものじゃない?』
『それはそうだけど銀座の店だぞ?いいのか』
『萌はもう幼稚園だし私が一日中付いていなくてもいいし
夜はベビーシッター頼んでみようかなと思っているのよ』
『そう、銀座のクラブかぁ、知らない訳じゃないが、
ちょっと時間くれよ。心当たりがあるから』
『忙しい時にごめんね』
『ああ、また電話するよ』
三上が萌の本当の父親だと分かっていても
これから選挙に出ようとしている大事な時に
面倒をかけてもいけないと思った。
それよりある程度の距離を保ちつつ
相談相手として友人として大切にしたいと思っていた。
今まさに雅子は本当の意味での自立だった。
そしてこれから生きていくにはどうしたらいいのかを考えた。
萌の学費だけでも相当な負担となったが
萌だけには恥ずかしくない教育と生活環境を与えたい。
自分の二の舞だけは踏ませたくなかった。
それから数日後、
三上から連絡があり
銀座の『ラビアンローズ』というお店のママが会いたいとのことで
面接を受けに行くことになった。
その店は銀座6丁目の数寄屋橋の近くにあり
店内はそれ程広くはないが
店内には、季節外れの薔薇が咲き誇っていて
甘い香りが、雅子の覚悟を試すようだった。
『失礼します』
『あら、待ってたわ。高梨さんでしょ』
『はい、三上さんのご紹介で伺わせていただきました』
『ええ三上ちゃんね。聞いてますよ。いろいろ訳ありだからって言ってたけど
こんな素敵な女性だなんて聞いてなかったわ』
由香里ママという60歳位のママは気さくな感じで
まるで昔からの知り合いのように接してくれた。
『あの私、銀座にお勤めするのは初めてで勤まるかどうか分からないのですが
接客の仕事は経験がありますので何とかなると思います』
『安心して実は全部三上ちゃんから聞いてるの。
お子さんがいることもね。
それに浅草で芸妓さんしていたのでしょう。
心強いわって三上ちゃんに言ったのよ。
だって先月末でチーママだった人が独立しちゃってね。
すごく困っていたの。
今いる女の子は若いだけでお客さんの名前も覚えられないような子ばかりで
どこかにお店を任せられるようなプロの女性がいないかなって思っていた矢先に三上ちゃんからの話でしょう。
なんだか私、運命を感じちゃったわ』
『いいえ、私なんて銀座は初めてだし
浅草の時のお客様とはもう縁遠くなってしまって
お店に貢献できるかどうかわからないです』
『いいのよ。浅草のお客様を呼んでという意味じゃないの。
このお店にいらっしゃるお客様を大事にしてもらって
少しづつ任せられればいいかなって思ったのよ。
高梨さんに会った瞬間にそう感じたわ。
私もそろそろ年だしね。
この辺で後継者を育てないとなんて考えたりしてね。
やっぱりこれは運命だわね』
と由香里ママは品よく微笑んだ。
『それで私、採用していただけるのですか?』
『あら、今日からでも来てほしいくらいよ。三上ちゃんに感謝だわ』
『それでは宜しくお願いします』
こんな簡単に採用してもらえるとは思わなかったので面食らったが
雅子は、もう後ろを振り返らかった。