(1)問題
以下の文章を読み,設問に答えなさい。
① 自然は人間に製作的知性を授けた。多くの動物種のためにそうしたように人間に機具を与える代わりに,人間が自分で機具を組み立てることのほうをところで,人間は少なくとも機具を利用する間は必然的にその所有権を持つ。だが機具は人間から切り離されるものである以上,人間から奪われうる。すっかり出来上がった機具を奪うことは,それらを作ることよりも簡単である。何よりも,機具は物質に対して働きかけねばならず,例えば狩猟や漁労の武器として役立たねばならない。彼の属する集団がある森,湖,川に目をつけて狙うとして他の集団でも,他所を探すよりもこの場所に移住するほうが好都合と判断することがありえよう。他の集団でも,他所で争わねばならなくなる。われわれは狩猟場たる森と漁場たる湖について耕作すべき土地,略奪すべき婦女,連行すべき奴隷に関しても同じことがまた同様に,行ったことを正当化する理由も多岐にわたるだろうが何であれ,また,奪う動機が何であれ,それは重要ではない。戦争の起源は, 個人的なものであれ集団的なものであれ所有権であり,人類はその構造により所有権を持たざるをえないよう予め定められているので,戦争は自然的である。戦争本能は非常に強いので,自然を再び見つけるために文明の層をがりがりと引っ掻くと最初に現れてくるのが戦争本能だ。幼い男の子たちがどれほど取っ組み合いが好きかはよく知られている。彼らは殴られもしようが,自ら殴りつけることで知ら満足もしている。子供の遊びは一人前になった人間に課せられる労役を考慮して自然が子供を招待する予行練習であると言われているのは正しい。しかし,もっと先へ進んで,歴史によって記録された大部分の戦争のうちに予行練習や遊びを看取することができる。それらの戦争のうち多くを引き起こした動機のくだらなさを思えば,「何のためでもなく,ただ単に」果たし合いをした『マリオン・ドロルム』〔Marion De1orme.仏作家ヴィクト・ユゴーの1829年の戯曲〕の決闘者のことや,あるいは更に,ブライス卿の引用するアイルランド人,道端で殴り合っている二人の男を見ると必ず「これは私事だろうか,あるいは割って入ってもいいのだろうか」と尋ねるアイルランド人のことが想起される。翻って,数々の偶発的な争いの脇に,一民族の根絶にまで至った決定的な戦争を並べ置いてみると,後者の戦争が前者の争いの存在理由であったことが理解される。戦争本能がなければならなかった。そして,この本能は自然的と呼ぶこともできる残酷な戦争のために存在していたのだから,多くの偶発的な争いは単に武器を錆びつかせないために生じたにすぎない。一次に,開戦時における両国民の高揚について考えていただきたい! 確かにそこには恐怖に対する防御反応があり,勇気が自動的に鼓舞される。しかし,そこにはまた,われわれは危険を伴う冒険的な生を送るためにできているという感情もある。あたかも平和は二つの戦争間の休止でしかなかったように。けれども高揚はすぐに鎮まる。なぜなら,苦しみが甚大であるからだ。しかし,可能と思われていたことすべてを超えるほどの恐怖を与えた先の戦争〔第一次世界大戦〕を脇に置くなら,戦争の苦しみがどんなにすぐに平和が続くあいだに忘れ去られるかを見るのは興味深いことである。女性には,出産の痛みを忘れる特別な機制が備わっていると主張する人がいる。あまりにも完全な記憶は,女性が再び子供を産もうとすることを妨げてしまうというのだ。この種の機制は戦争の凄惨さを忘却させるために本当に機能していると思われる。とりわけ若い民族のところではそうである。この側面では自然はなお他の数々の予防措置を講じていた。つまり自然は外国人とわれわれのあいだに無知,偏見,予断によって巧妙に織り上げられたベールを垂らした。一度も訪れたことがない国について無知であることは,何ら驚くべきことではない。しかし,その国を知らないのに,その国について判断し,しかも,ほとんどつねに好意的な判断は下さないということ,これは説明を要する事実である。国外に滞在し,自分の同国人に外国人の「気性」(mentalite)と呼ぶものを教授しようとしたことがある人は誰でも,同国人の本能的な抵抗を確認しえただろう。この抵抗は,より遠方の国が問題であるときそれだけよりいっそう強いというわけではない。まったく逆に,抵抗はむしろ距離に反比例して変化する。われわれが最も出会う可能性が高い人々が,われわれが最も知ろうとは思わない人々なのである。自然は,外国人すべてを仮想敵とするのに,そうするほかなかったのだろう。なぜなら,完全な相互理解は必ずしも共感であるわけではないが,いずれにせよ憎悪を除去することにはなるからだ。われわれはこのことを先の戦争中に確かめることができた。ある〔フランス人の〕ドイツ語の教授は,他のどんなフランス人とも変わらず立派な愛国者で,彼らと等しく自分の命をかける用意ができており,また,彼らと同じくらいドイツに「憤慨」してさえいたのだが,それでもやはり事情は同じではなかった。ある一点が留保されていた。ある民族の言語と文学を深く知る者は,完全にその国の敵にはなることができないのである。教育により諸国民間の相互理解を準備しようとする際には,このことを念頭に置かねばならない。外国語の習熟は,対応する文学と文明を通してその国の精神が染み入ることを可能にし,外国人一般に対して自然が欲した偏見を一挙に除去することができる。しかし,われわれは隠れた偏見の目に見える外的な結果をすべて枚挙する必要はない。われわれとしては二つの対立する格言,「人間ハ人間二対シテ神デアル」(homo homini lupus) 〔シンマクスやカエキリウスが語ったとされる言葉。スピノザ『エチカ』第四部をも参照〕。「人間ハ人間二対シテ狼デアル」(homo homini lupus)〔プラウトゥスに依拠してホッブズが「語った言葉」は容易く和解するとだけ言っておこう。最初の格言を述べる時,人々は同国人の誰かを念頭に置いている。後者は外国人に係る。
② 先ほど,われわれは偶発的な戦争の脇には本質的な戦争があり,この種の戦争のために闘争本能が作られたように思われると述べた。今日の戦争は後者の戦争の一つに数えられる。征服のための征服は次第に少なくなっている。傷つけられた自尊心から,威信や栄光のために戦うことはもはやない。人々は飢餓で苦しまないために戦うのだと言われるが,――実際には,その水準以下では,もはや苦労して生き続けるに値しないと思われるある生活水準を維持するために戦うのである。限られた数の兵士が国家を代表するべく委任されることはもはやない。決闘に類似するものももはや何もない。最初期の遊牧民がそうしたように,全員が全員に対して戦わねばならないのだ。ただ,文明によって鍛え上げられた武器で戦うわけで,殺戮(さつりく)は古代人が想像さえしなかったほど凄惨なものとなる。科学が進歩する調子を考えれば,交戦国の一方,取っておきの秘密を所有するほうが,他方を壊滅させる手段を手に入れる日が近づいている。こうして多分,地上にはもはや敗者の痕跡さえも残らなくなるだろう。
③ さて,事態はその流れのままに進んでいくのだろうか。ある人間たち――われわれは躊躇せず彼らを人類の恩人に数え入れる――が幸いにもこの流れを遮ってくれた。すべての偉大な楽観主義者がそうであるように,彼らは解決すべき問題を解決済みと想定することから出発した。彼らは国際連盟を設立した。われわれの査定では,獲得された諸結果は,期待することができたものをすでに超えている。なぜなら,戦争の根絶はそれを信じていない人々が一般に想像しているよりも難しいからだ。悲観主義者たる人々は,戦争へ突き進む二つの民族の場合を,争う二人の個人の場合に類似したものと考える点では楽観主義者たちと一致している。ただ悲観主義者は,二つの民族の場合は,個人の場合のようには,裁判所で係争し判決に従うことを決して実際には強制されえないだろうと考えるだけだ。とはいえ,この相違は根底的である。たとえ国際連盟が見たところ十分な軍事力を自由にできるとしても(それでも,反抗国はつねに勢いで連盟に勝るだろうし,科学上の発見は予見不能なものであるから,連盟が対応しなければならない抵抗の本性はますます予見不能なものとなっていくだろう),国際連盟は文明が覆っている戦争の深い本能と衝突するだろう。それに反して,個人の場合,対立に決着をつけることを裁判官に任せる個人の場合は閉じた社会内在する規律本能によってそうするよう漠然と促されているのだ。もめ事によって,彼らは偶々(たまたま),社会への正確な統合という正常な位置から引き離されていたのだが,振り子が鉛直線に戻るように,彼らはその正常な位置へと立ち返る。したがって,二民族の場合の方が困難はよりいっそう重大である。
出典:アンリ・ベルクソン,2015年,『道徳と宗教の二つの源泉』合田正人・小野浩太郎訳,ちくま学芸文庫(原著は1932年)。
設問 あなたは筆者の見解を支持しますか,それとも筆者の見解に反対ですか。いずれの場合も,対立する意見に反論しつつ,適切な諭拠や具体例をあげながら,自らの見解を700字以上800字以内の日本語で述べなさい。
※解答においては段落を設けること。通例の原稿用紙の書き方に準拠し,段落冒頭は1マス下げる)。
(2)解答例
私は筆者の見解を支持する。戦争は所有権をめぐって起こる。筆者はこれを戦争本能に基づく戦争と規定する。現在、世界で起きている紛争は水や鉱物といった資源や領土をめぐる争いが中心である。アフリカで発生している内戦や紛争がこれにあてはまる。ロシアのウクライナ侵攻などは領土問題を背景としている。戦争が人間の本能に由来するならば、本能を持つ動物は戦争を起こさないことと矛盾するという反論がある。しかし、製作的知性を持つのは人間だけであり、所有権はこれに基づいているので、戦争を起こすのは人間に限定される。
一民族の根絶にまで至った戦争が戦争本能に基づく戦争であるとする意見については、ナチスのユダヤ人に対するホロコーストが挙げられる。しかし、ユダヤ人はナチスによって完全にせん滅されていないとする反論に対しては、第二次大戦が長引いたり、ドイツの勝利に終わったりしたなら、ユダヤ人のせん滅は現実化したおそれがある。
戦争の苦しみはすぐに忘れ去られてしまうので戦争が繰り返される。この主張は第一次世界大戦の惨禍にもかかわらず、その二十後に再び第二次世界大戦が起こったことが例証となる。これに対して、太平洋戦争後八十年を経た日本では戦争の惨禍を忘れずに平和が続いているという反論に対しては。日本以外では朝鮮、ベトナム等で第二次大戦後まもなく戦争が起こったことをもって再反論できる。
国際連盟が設立されたが、個人とは異なり国家を法廷に引き出すことはできないので国連により戦争を抑止することは困難である、という主張も国際連盟の不備が第二次世界大戦を招いたことを思い起こすと筆者の指摘は的確である。これに対して、国際連合は第三次世界大戦を抑止しているという反論があるが、世界規模の戦争は起こっていないが、局地戦は頻繁に発生し、国連はこれを完全に抑えることに成功していないと再反論できる。(800字)