「幻想としての自由意思」京都市立芸術大学美術学部総合芸術学科2020年度

記事
学び

(1)問題


 別紙の問題文は小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会)から抜き出したものである。この文章を読んで、以下の設問に答えなさい。

設問1.この文章の主旨を二00宇以内で要約しなさい。

設問2.芸術作品に対する判断に影響しうる(判断者側の)さまざまな要素・要因について、具体的に例を挙げながら、自身の考えを論述しなさい。その過程で、問題文内の主張や事例を何らかのかたちで取り入れて論述すること。(120点)(80点)

① 自分のことは自分自身が一番よく知っていると言う。しかしこの常識は事実からほど遠く、一種の信仰にすぎない。次のような簡単な実験を考えよう。靴下の展示スタンドをスーパーマーケットに設置し、通りかかる買物客に声をかけ、市場調査という口実の下に商品の質を評価してもらう。スタンドには見本として靴下が四本吊るしてある。実は靴下はすべて色・形・寸法・肌触りなどまったく同じものだ。しかしこの舞台裏は買物客に伏せておく。

② 普通に考えるならどの商品も同じ評価になるはずだが、実験では右側の商品ほど高い評価を受けた。さて「最も良質」の靴下が選ばれた。ところで、その理由を尋ねた。すると、こちらの方が肌触りがいいとか、丈夫そうだなどという、もっともらしい理由は返ってくるが、商品の位置に言及する買物客は皆無だった。選んだ靴下が単に右側にあったからではないかと尋ねても、そんな不合理な理由で選ぶはずがないという返事しか得られない。右側に吊るされた靴下が好まれた原因は不明だが、そこはここでの問題ではない。何らかの情報が無意識に判断に影響する事実だけ確認しておこう。虫の知らせとか勘が働くなどと言うが、これも同様の現象だ。外部情報の影響を受けるが、その過程が意識されないために超自然現象と勘違いするのである。

③ 人間の主体性を吟味する意味で、サブリミナル・パーセプション(閾下いきか知覚)についても簡単に押さえておこう。一〇〇〇分の毎秒という非常に短い時間だけ文字や絵を見せると、被験者は何を見たのかわからないだけでなく、何かを見たという意識さえ抱かない。二人(そのうち二人はサクラAとB)に参加してもらい、非常に短い時間だけ詩を見せるから、詩の作者が男性であるか女性であるかを当てて欲しいと依頼する。しかし実際には詩ではなく、サクラ二人のうちどちらか一人(例えばA)の写真を見せる。その後で、「見せられた詩」(実際にはサクラAの写真しか見ていない)の作者の性別について討論させる。サクラAは詩人が男性に違いないと主張し、サクラBは女性だと答える。タキストスコープ(瞬間露出器)による短時間(一〇〇〇分の四秒)の提示なので、何かを見たという意識さえ生じない。それでも無意識的情報が人間の判断を左右し、サクラAの意見に被験者は影響を受ける。つまり、詩だと偽ってサクラAの写真を見せると、Aの言う通り、詩人は男性だと判断する傾向がある(サクラAとBを入れ替えても、詩人の性別を男性と女性を入れ替えても結果は同じ)。

④ もう一つ例を挙げよう。簡単な図形Aを一〇〇〇分の一秒間だけ被験者に見せ、それを五回繰り返す。投影時間が短いので何かを見たという感覚さえ被験者には生じない。その後、まだ見せていない図形Bを先ほどの図形Aの横に並べて二枚を同時に今度はゆっくりと一秒間投影する。その上で、どちらの図形を前に見たか判断せよと指示する。当てずっぽうだから、ほとんど当たらない。次に質問内容を少し変えて、二つの図形のうちどちらが好きかと尋ねてみた。すると見た意識さえないのに、初めに見せられた図形Aをより高い確率で選ぶ傾向が現れた。

⑤ 閾下知覚の効果はかなり長い期間持続する。先の図形認識判断で当たる確率は時間の経過に連れて低下する。しかし好感度判断に関しては、瞬間的に見た図形(見たこときえ意識していない)を好む傾向が一週間経つと逆により強くなる。好き嫌いという素朴な感情さえも主体性の及ばない次元で起きる。意識されない微妙な体験がひとの感情を絶えず左右している。日常的な判断・行為はたいてい無意識に生じる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する原因と、判断や行動に対して本人が想起する理由との間には大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い。

⑥ 自らの行動あるいは身体や精神の状態に関しては当然ながら他者よりも本人の方がよく知っている。頭痛を感じる時、それは幻覚にすぎないと医者や周りの者がいくら説明しても意味がない。身体や心の痛みは本人だけに属する現象だ。他人には痛みを想像し心配はできても痛みを直接感ずることはできない。医者にわかるのは、どういう異常症状が生理的次元で発生しているかだけだ。その異常が原因でどのような苦痛を感じるかという経験則に照らし合わせて患者の痛みを想像するに過ぎない。自分の精神および身体の状態に関しては他人よりも本人の方が豊富かつ正確な情報を持つ。しかし心理状態がどのようにして生じるのか、何を原因として喜怒哀楽を覚えるのか、どのような過程を経て判断・意見を採用するのかは本人自身にもわからない。

⑦ そうは言っても何らかの合理的理由があって行為・判断を主体的に選び取っている印象を我々は禁じえない。急に催す吐き気のような形で行為や判断の原因が感知されることはない。何故か。「靴下実験」に戻ろう。展示商品の位置に影響されながらも被験者は選択の「理由」に言及する。影響された事実を調査員に対して繕うために嘘をつくのではない。被験者はその「理由」を誠実に「分析」して答えたのである。自らがとった行動の原因がわからないにもかかわらず、もっともらしい理由が無意識に捏造される。

⑧ これは催眠術が解かれた後に現れる暗示現象に似ている。催眠状態の人に「催眠が解けた後で私が眼鏡に手を触れると、あなたは窓辺に行って窓を開けます」と暗示する。その後、何気ない会話をし、自然な仕草で眼鏡に手をやる。すると被験者は突然立ち上がって窓を開けに行く。なぜ窓を開けたのかと尋ねてみよう。わからないけれど何となく急に窓が開けたくなったと答える人はまずいない。ちょっと暑かったとか、知人の声が外から聞こえたような気がするなどという合理的理由が持ち出される。自分の行為の原因がわからないから、「妥当そうな理由」が常識の中から選ばれて採用される。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影にほかならない。

⑨ 行為・判断が形成される過程は本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとくに推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意思決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状にあっている。

(2)出題意図


この問題はキュレーションについての含意がある。
キュレーションとは、展覧会やアートイベントを開催するにあたり、大会コンセプトをつくることから始めます。
そのコンセプトの下に作品を集め、展覧会で、一定の意図を持って、作品展示の配置や序列を施して流れ(文脈)を持たせる一連の作業を言います。
ちなみにこれを行う専門家をキュレーターといい、主に学芸員などが担当します。
展覧会は鑑賞者が自由に作品を見ているようでいて、実はキュレーターの演出に従って、作品を見させられていると言っていい。
以上の解説をみなさんが理解できないのであれば、キュレーターは映画監督や演出家にあたるものと言い換えれば、おわかりいただけるかと思います。
したがって、この問題は展覧会における「キュレーションの意義」「キュレーターの役割」という題意に置き換えて考えることがマストになります。

スクリーンショット (1869).png

(3)解答例


設問1.

人間は合理的理由の下に主体的に意思や行動を選択しているわけではない。後に付加される合理的理由は文化的産物であり、所属社会の世界観の投影にすぎない。閾下知覚の影響は無視できない。人間の嗜好や行動は対象の置かれている位置に影響を受け、非常に短い時間単位で無意識に働きかけられることで簡単に操作される。自らの行動や身体、精神の状態は他人よりも本人の方がわかるが、心理過程や原因は自身にもわからない。(196字)

設問2.

 美術館での作品を鑑賞に際して、私たちは主体的で合理的な判断の下に評価していると思い込んでいる。しかし、参考文でも指摘されているように、気づかずに外部要因の影響を受けていることが多い。

 たとえば、作品タイトルや解説文である。作品よりも先に解説文を読むと、その内容を参考にしながら美術品に相対することになる。コメントに歴史的名画という文字があれば、なるほどこの評価にふさわしい作品であると納得してしまう。また、国宝や重要文化財などという認定も私たちの判断を誘導する重要な要素になる。市場経済に慣れ親しんだ私たちはふだんから権威やブランドに順応した価値判断をするように刷り込まれている。希少な文化財に対して国から認定された価値付けに対して敏感に反応する。このように、美術作品に対する評価は、私たちが所属している社会の価値観で後付けされる。

 さらに、作品が展示されている場所や配置にも私たちは影響を受けやすい。展覧会で多くの作品を鑑賞する場合、最後まで集中力が保たれることはまれである。入口付近の作品は時間をかけて丁寧に観て、強い印象を受ける。しかし、終わりのほうになると疲労により、鑑賞時間も短くなり、流してしまうことで作品の印象が残らないということがよくある。

 このように、芸術作品における評価において考えるとき、もこれを私たちの主体的な意思決定の下になされるものという結論は留保する必要がある。もしかしたら、美術館にくる途中の街角でふと目にした街頭広告やすれ違った通行人が一瞬漏らした短い言葉に影響を受けていないと断言できる保証はない。(699字)



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