【哲学的思考で書け】文学部小論文をどう書くか

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(1)文学部小論文では哲学的な思考をとること


小論文は大学・学部によって書き方が異なる、という話をしてきました。
今回から文学部の書き方に迫りたいと思います。

文学部の入試小論文はある意味で特殊なものと言っていい。

文学部は哲学や歴史学などの学科を含みます。

政治学、経済学、法学などの文系はもとより、物理学、化学などの理系の学問も哲学、ギリシャ哲学からその源は発生していることはみんさんもご存じかと思います。

したがって、哲学は諸学の根本にあたり、あらゆる学問の基礎を支えると同時に、諸学を批判する位置付けになります。

批判するということは、教科書などで当たり前と考えられていた「常識」を疑うこと。

たとえば、歴史や科学は進歩するという「常識」を見直すことは、批判的精神が必要になります。

経済学部の小論文では、経済成長することが「善」であり、経済政策の目的は初めに経済成長ありきというのが総論で、各論で実際に経済成長を促す方策を論じる構成になると考えられます。

しかし、文学部小論文で経済問題が出題された場合、「経済成長が善」という「常識」を疑い、むしろ経済縮小に合わせた暮らしを考えるという方向性で書くことがひとつの方法になるでしょう。

最近ベストセラーになった斎藤幸平の『人新生の「資本論」』の趣旨も経済を縮小することで、我々が直面する地球環境問題の危機を乗り越えるようと説くが、その背景として哲学者マルクスの著作の読み直しがあります。

受験生がいきなりマルクスを出すのも大変だろうから、実際に答案を書く場合、いわゆる「断捨離」※1という言葉を手掛かりにしたり、「ミニマリズム」※2の生活様式を考えたりという具体的なアプローチをとるといいでしょう。

※1「断捨離」:モノへの執着を捨て不要なモノを減らすことにより、生活の質の向上・心の平穏・運気向上などを得ようとする考え方のこと。~『知恵蔵mini』の解説より

※2「ミニマリズム」:1960年代の米国で影響力をもった、形態や色彩を最小限度までに突き詰めようとした一連の態度。本来は芸術用語であったが、転じて、必要最小限のもので生活するライフスタイルも指す。こうしたライフスタイルの実践者や支持者を「ミニマリスト」(minimalist)と呼ぶ。~『知恵蔵mini』の解説を参照。

このように、哲学的思考は単に諸学の批判にとどまらず、「豊かさとは何か」という問題に対して、「経済的な豊かさ」を指標とするような、現代社会の価値観や人々の生活やその意識をも批判の対象とするものです。
文学部で求められる哲学的思考とは、批判精神と言い換えてもよいかと思います。

それでは、次章以下で、実際の入試問題に即して、哲学的思考とは何かを解説してゆくことにします。

(2)問題・「幸福であること」東洋大学文学部哲学科自己推薦小論文型2021年


次の文章を読み、自分自身の経験をふまえて、「幸福であること」について1,000宇以内で論じなさい。

幸福論の幸不幸 2014年5月

① 世紀を跨いだ頃から、「国民総幸福度」(GNH:Gross National Happiness )が、国情、ないしは国家の発展を測る指標として人口に膾炙(かいしゃ)するようになった。1972年にブータン王国の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクによって提唱されたこの考えは、国民総生産(GDP:Gross Domestic Product)ないしは国民総所得(GNI:Gross National Income)という経済指標に代わるものとして広まった。社会のほんとうの豊かさは、経済の規模や成長度で測れないというところから、GDPに象徴されるような豊かさのイメージに対抗するものとして提唱されたのである。ちなみに、政財界の人たちがひたすら注視してきた「経済成長率」といえば、このGDPの伸び率のことである。

② 「国民総幸福度」でいう「幸福」は、国民の満足感の多寡で測られ、その満足感はさらに健康や心の安らぎ、寿命の長さ、失業や事故の少なさ、仕事と生活の調和などの観点から測られる。そしてそれを裏づける指標を求めて、「幸福に関する実証研究」なるものに取り組まれるようにもなっている。

③ しかしいざ「幸福とは何か」というふうにその定義をなそうとすると、それは日々の暮らしに満足できていることだとはかんたんに言えないことがあきらかになる。そもそも何を満足とするかについて、意見の一致を見ることは少ないからである。

④ 人間の行為はみな幸福をめざしているという点については、おそらく異議はなかろう。だが、いざこの幸福が何であるかと問いはじめると、意見はちりぢりになる。快楽だ、名誉だ、富だ、健康だ、というふうにである。けれども、快楽や名誉や富や健康、さらにはそれらを手に入れるための知恵や技能は、幸福になるためには望ましいものであっても、その逆はありえない。つまり、快楽や名誉や富、知恵や技能を手に入れるために幸福になるということはありえない。そういう意味で、アリストテレスは幸福を「自足した善」と呼んだ。つまり、「いかなる場合にもけっして他のもののために追求されることのないもの」、「つねにそれ自体として望ましく、けっして他のものゆえに望ましくあることのないようなもの」、それが幸福であるとしたのである。

⑤ が、そういう「自足的な善」を、個人の主観的な満足感、あるいは「安楽」という個人的な充足感と考えることは、あまりに単純すぎる。

⑥ まず、ひとは幸福の渦中にいるときはそれを幸福として意識しえず、それを失ったときにはじめてそれが幸福であったと知るということがある。「あのときは幸福だった」というふうに、幸福は失ってはじめて切にわかる。それに、あるとき幸福を感じても幸福感というものは長続きせずに凡庸な日常へとすぐに均されてしまうのがつねだ。幸福感覚としては持続しない。やっと試験が終わった」「きょうは出かけなくていい」といったときのほっとした感覚に見られるように、幸福とはむしろ移行の感覚のことであり、幸福になればもはや幸福とは感じない。つまり色褪せてしまう。幸福にはこのように、だれもが幸輻でありたいと願うのに、幸福と思っていたものを手に入れたとたんに幸福でなくなる。あるいは幸福でいつづけることはできないという、そのような逆説がまとわりついている。また、ある時点で満足だと思っていたものが、振り返ってとんでもない思い違いだったと気づかされることもある。ことほどさように、幸福は不幸に、不幸は幸福にたやすく裏返る。「幸福は糾える縄の如し」とは司馬遷の言葉である。このように見てくると、幸福に関しては、内容からはどうも十全に規定できなさそうである。

⑦ また「総幸福度」とか「総幸福量」とかいっても、一人の満足が別の人の不満の上に成り立っているという社会的事実を無視することもできない。その意味でも、幸福を個人の満足度に求めるのは虚構である。

鵞田清一『濃霧の中の方向感覚』(晶文社、二〇一九年、一八五〜一八七より一部抜粋)

(3)幸福論は哲学の定番


参考文の「幸福論」はズバリ、」哲学上の重要テーマになります。

イギリスのベンサムやミルの功利主義の思想は、まさしく幸福について真正面から論じたものとして、みなさんも高校の倫理や現代社会の教科書で聞いたことがあるにちがいありません。

古くは、アリストテレスの観想(テオリア)的生活やヘレニズムの哲学者である)ストア派のゼノンの「自然に従って生きる」や快楽主義エピクロスの「隠れて生きよ」という言葉もみな彼らの理想とする幸福のあり方を示すものです。

ここでは、あえて哲学者の意見に全面的に寄りかかり、哲学史から知識を借りるのではなく、あえて別の角度から「幸福」の問題を考えてみることにします。

参考文の筆者鷲田清一氏は、幸福の定義について、「快楽だ、名誉だ、富だ、健康だ」とその範囲の広さに困惑しているのがわかります。

幸福観は十人十色であり、まとまりがつかない。

ここに幸福論の難しさがあります。

しかし、受験生は上記の「快楽だ、名誉だ、富だ、健康だ」に共通する定義を定立することが求められるのです。

いきなりここで答えを書くのは止めて置き、いったん、みなさんの頭で幸福の定義を考えてみてください。

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(4)考え方①「定義から始める」


それでは、解答例を以下に示します。

「幸福とは欲望が充足されることである」

この定義は「快楽、名誉、富、健康」に共通するものになります。

「快楽」とは気持ちいいこと、楽しいこと、美味しいことなど、心に何らかの刺激がもたらされること。

美味しいものをお腹いっぱい食べたい。

美男美女とデートして、最終的には性的快楽を得たい。

思いっきり歌ったり、踊ったり、バンドで演奏したい。

プライベートビーチで静かな海を見ながら、ワイングラスを傾けたい。

スポーツや遊びを心行くまで楽しみたい。

「快楽」はこうした欲望の充足と直結する。

人から褒められたい。

インスタの写真やツィッターのつぶやき、ブログやyoutube動画でたくさんの「いいね」をもらいたい。

芸能人やスポーツ選手になって人から注目を集めたい。

オリンピックなどの世界大会で金メダルを獲得したい。

ノーベル賞を獲りたい。

社長や大臣などの高い役職に就きたい。

このような欲望はいずれも名誉を求めることを動機とします。

富についてはそのまま金銭的、物質的欲望と無縁でないことは説明を要しません。

健康志向もその根底にはある種の欲望があります。

病気になりたくない、長生きしたい、死にたくない、といった欲望は、そのまま「生きたい」という「生」に対する直截的な欲望と直結します。

(5)考え方②参考文の筆者の意見を踏襲する


「幸福」が「欲望の充足」でいいとして、次に参考文の意見を踏襲しつつ「自分自身の経験をふまえて」書くという設問の要求を満たさなければ合格点はもらえません。

まず、参考文の筆者の意見を箇条書きで簡潔にまとめます。

・「ひとは幸福の渦中にいるときはそれを幸福として意識しえず、それを失ったときにはじめてそれが幸福であったと知るということがある。」

・「だれもが幸輻でありたいと願うのに、幸福と思っていたものを手に入れたとたんに幸福でなくなる。あるいは幸福でいつづけることはできないという、そのような逆説がまとわりついている。」

・「幸福は不幸に、不幸は幸福にたやすく裏返る。」

・「一人の満足が別の人の不満の上に成り立っているという社会的事実を無視することもできない。」

この4つの論点をまとめると、以下のようになります。

①「幸福」は現在進行形では実感できず、これを喪失して事後的に確認するもの。

②「幸福」は達成・獲得しても「幸福感」は継続しない。

③「幸福」と「不幸」とは表裏一体である。

④一人の「幸福」は多数の「不幸」を前提に成立している。

この論点を先の「幸福の定義」と関連付けて考えてみましょう。

①「幸福」を意識すること(「幸福」の希求)は、対象が欠落した状態からの対象への欲望の発動を契機とする。このことから考えると、欠落が満たされれば、欲望は消滅し、「幸福」の希求も同時に消失することで説明される。

②これはマズローの「欲求の階層構造説」から説明できる。
マズローによれば、欲求は5つの階層から構成されている。
この5つの欲求は「生理的欲求」「安全欲求」「親和欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」を表し、これは欲求が発言する時系列順を意味する。
欲望が充足されて「幸福」は達成・獲得されても、新たな上位の欲望が喚起されるので、「幸福感」は継続しない。

※ここでは便宜上、「欲望」を「欲求」と同義にものとする。

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③「欲望」が過度に発動されれば、心身にダメージを与えることになる。
過食が肥満につながり、生活習慣病の因子になることは明白である。

④これは市場経済(資本主義経済)の原理と特徴で説明できる。

まず、市場経済は前提として、「快楽」を善とする功利主義の哲学をベースにしている。イギリスの古典派経済学の祖アダム・スミスによれば、市場経済の目標としくみは以下のように規定される。

「快楽」を求める「欲望」を持つことを人間性の基本原理として考える。経済学ではこれを需要という言葉に置き換える。こうした需要に応えるために、資源を効率的に配分することで人々の「欲望」を充足させ、社会全体の満足度(厚生水準)が最大化された状態を理想とする。こうした効率的な資源配分は商品の価格に対する需要と供給の関係で自動的に調整される。

ところが、市場はアダム・スミスの考えたように完璧なものではなく、独占・寡占やその他さまざまな理由によって、効率化を阻害する動きが起こってくる。

その結果、市場の失敗として公害問題や格差の弊害が起こり、ひとりの幸福な経済勝者の下には、多数の競争で敗れた弱者や途上国で低賃金重労働に苦しみ、必要な水や食料などの資源の不足にあえぐ「不幸な」人々を生む出すことになる。

(6)考え方③設問の要求を満たす


最後に、自分の経験を照らして答案をまとめあげます。

この際、第五章で挙げた5つの論点から1つだけ採用して自分の経験を踏まえた意見の補強材料に用いることになります。

高校生の場合、②の論点で書くのが書きやすいでしょう。

たとえば、「志望校に合格する」という欲望を自分の「幸福」と考えて、高校合格でいったん欲望が満たされて「幸福」の継続が途絶えたことから書き始めましょう。

その後、大学入試に向けて受験勉強をしても身が入らないのは、低次の「生理的欲求」が満たされないからと考えます。

食べ盛りの高校生はまず食べ物のことばかりに目が行きます。

この欲望が満たされれば、安全欲求、たとえば衣服、ファッションに夢中になります。こうなると勉強に身が入りません。

さらには、「承認欲求」、つまりメールやインスタなどのSNSで友人、知人やユーザーの「いいね」が気になって、勉強に手がつかないということになりかねないのは、みなさん自身を振り返ればわかるかと思います。

ところで、現在はこどもの貧困が社会問題となっていて、満足に食事に預かることができない家庭が存在します。
このような家庭で育った子どもは、食べることだけに興味と関心が向かい、高次の「自己実現」に向けて勉強したいという「欲望」まで向かわないことになります。

結果、このような貧困世帯の子どもは保護者の経済的な事情に加えて、「欲望」が向かう先の問題から、高等教育を受けられる機会を逸し、さらに満足な就業機会が得られずに、貧困になる。このような貧困の再生産が現実のものとなっています。

こうした問題を指摘したうえで、小論文の結論として、世間一般の「幸福」は自らの「快楽」をひたすら追求する個人主義に陥り、ほかの人のことまで考える余裕を失っているように見受けられることを指摘するのです。

このような「世間一般の幸福観」に対して、批判的に対峙して考えることによって「新しい幸福観」を提示することができます。

それは、次のようなものになります。

自分の「幸福」を「自己実現に向けた欲望」と捉え、「自己実現」の内容を「子どもの貧困」の解決に置くと、うまくまとまると思います。

私は将来、教師(カウンセラー、児童相談所の相談員等)になり、劣悪な環境に置かれた子どもたちが「幸福」になれるように支援する。

このような決意を最終段落で表明します。

そして、最後に宮沢賢治の次の言葉で締めくくると、完璧でしょう。

宮沢賢治.png

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

注記.

今回のお題は「哲学的思考で書け」ということでした。

用いた材料はマズローの欲求の階層説で、こちらは心理学の内容でした。
文学部ではもちろん、心理学も学びます。

したがって、小論文の答案で哲学のほかに、心理学を素材として用いてもかまいません。

なお、最後に引用した宮沢賢治の言葉は法華経を踏まえたもので、こちらは仏教哲学になります。

また、功利主義の哲学者ミルは「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」という言葉を残し、他人の幸福、人類の向上などを理想の目的として掲げています。

今回の結論は、はからずもミルと同じ方向性を示すものとなりました。



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