「嫌な記憶を忘れる方法はありませんか」と、以前、相談されたことがあります。おそらく、同じように思っている方は多いのではないでしょうか。
でも、嫌な記憶というのは、忘れようとすればするほど、逆に忘れられなくなるものだと思います。
「思い出さないようにしよう」とすること自体が、その記憶に何度も触れることになり、結果として記憶が強化されてしまう——そんな経験、ありませんか?
何かのきっかけで、ふとその記憶がよみがえってしまうたびに、まるで復習しているかのように記憶が定着していってしまうのです。
だとすれば、「忘れる」ことを目指すのではなく、別のアプローチが必要なのだと思います。それは、記憶そのものを消すのではなく、その記憶を「見る視点」を変えることです。忘れることはできなくても、学びとして思い出せるようになれば、嫌な記憶として思い出す苦しさから、少しは自由になれるのではないかと思います。
熱いご飯を投げつけられた
僕自身にも、今でも忘れられない記憶があります。小さい頃、僕の家での仕事は、米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れ、食堂に出すご飯を炊くことでした。あるとき、その仕事をうっかり忘れてしまい、芯の残ったご飯を炊いてしまったことがあります。食堂のお客さんには出せないご飯だったため、怒った父ちゃんは、その炊きたてのご飯を僕の胸に投げつけました。胸が真っ赤になったのを、今でも覚えています。
正直、かなり痛い思いをしました。この出来事は「痛い目にあった記憶」として、長い間、僕の中に残っていました。
解釈が変わると
でも、父ちゃんとの関係についての文章を何度も書き、読み返しているうちに、この記憶の見方が少しずつ変わってきました。
父ちゃんのあのやり方は、今振り返っても少々やり過ぎだったと思います。今の自分なら、同じことを自分の子供にはしないと思います。それでも、「任された仕事は、きちんと果たさなければならない。果たさなければ、それなりのことが起きる」ということを、あの出来事から、身をもって学んだのも事実です。今の僕は、与えられた仕事はきちんとやろう、と自然に思えるようになっています。それは、あの痛い記憶があったからこそ、身についた感覚なのかもしれません。
記憶そのものは、今も消えていません。でも、「痛い目にあった記憶」から、「責任について学んだ記憶」へと、その意味づけが変わったことで、思い出すたびに苦しむのではなく、学びとして受け止めて、思い出せるようになっています。
こうしてブログを書きながら、あらためて気づいたことがあります。父ちゃんは、ご飯を僕の顔に投げつけることもできたはずです。それでも顔ではなく、胸に投げつけました。今思えば、それは父ちゃんなりの、精一杯の配慮だったのかもしれません。痛みはきちんと伝えつつも、より酷い結果にはならないやり方を、無意識に選んでいたのではないか。そう感じられるようになったのも、この文章を何度も読み返してきたからこそだと思います。
学びに変わる
嫌な記憶を無理に忘れようとすると、かえってその記憶にとらわれ続けてしまいます。それよりも、その記憶を、文章にして書き出し、読み返しながら、「あの出来事から、自分は何を学んだのか?」と、視点を変えて問い直してみる。そうすることで、記憶を消すことは出来ませんが、その記憶との付き合い方を変えていくことができるのだと思います。
もしあなたの中にも、嫌な記憶があるなら、それを消そうとするのではなく、一度文章に書き出して、「そこから何を学んだか」を考えてみてはいかがでしょうか?
サービス内容で公開している18の質問の中にも、「やり過ぎだと感じること」や「厳しさから得た強み」を振り返る問いがあります。忘れられない記憶を、学びとして書き直すためのきっかけにしていただければと思います。
P.S.
なお、あまりにも深刻な記憶や、思い出すだけで強い苦痛を伴うような記憶については、無理に解釈を変えようとせず、医師やカウンセラーなど、専門家のアドバイスを受けることをおすすめします。