出し方を知っていても、出せないとき
失った悲しみにどうしようもない時。
泣いていい。話していい。書いていい。
今はその気持ちにただ、素直に感情に付き合うのが一番の処方箋。
そうわかっていても、中にはどうしても感情に従えない人もいる。
それはなぜだろう、とずっと思っていました。
実は私が出来ない人でありまして(苦笑)。書くことくらい簡単に出来ると思っているのに、それすら行動に移せないという始末。
でもカウンセリングでペットロスや死別の相談を受けていると、ある言葉が繰り返し出てきます。
「泣いてしまったら、本当にいなくなった気がして」
「写真を整理したら、終わりな気がして、できない」
「形見を片付けると、あの子のことを忘れてしまいそうで」
「目に見えないものは信じられない気持ちが強い」
これが、根っこだと私は思っています。
悲しみを出せないのは、「終わり」を認めることへの抵抗という道筋が、見える見えないという物理的なものにこだわっていることから来ているのだと。
「終わり」を認めることは、裏切りじゃない。
悲しみを出すことは、その子、その人のことを過去にすることじゃない。
泣き終わったあとも、その子、その人は私たちの中にいます。
写真を整理しても、形見を片付けても、愛した記憶は消えない。
でも、心はそれをなかなか信じられない。
見えないから。触れられないから。温度を感じられないから。肉体で感じるものが真実だという価値観、消えるとなくなるという概念。
「終わりを認めたら、あの子がいなくなってしまう」そのような恐怖が、悲しみの出口を塞いでいます。
だから出せない。だから引きずる。
それは弱さじゃなく、それだけ深く愛した証だからなんです。
「否認」心が自分を守る仕組み。
グリーフケアの世界では、喪失直後に「否認」という段階があります。
これは嘘だ、信じたくない。こんなことがあるはずがない。「信じられない」「まだどこかにいる気がする」そういう感覚です。
これは心が、あまりにも大きな痛みから自分を守るために働く、自然な反応です。それで正しい。普通。当たり前。おかしくない。壊れていない。
「終わりを認めたくない」という気持ちは、人間として当然の反応です。
ただ、その状態がずっと続くと、悲しみが深いところに溜まったまま出口を失ってしまいます。否認という気持ちをどんどん強固なものにしてしまい、現実を見ようとしない流れになっていく。
少しずつ、「終わり」と向き合う。
「終わり」を認めることは、一度で出来なくてもいい。出来るわけがない。それで当たり前です。
写真を一枚だけ見る。名前を声に出して呼んでみる。「いなくなったんだね」と、誰もいない部屋でつぶやいてみる。
そういう小さなことの積み重ねが、少しずつ「終わり」と向き合う練習になります。
「終わり」を認めることは、さよならを言うことじゃない。「あなたは私の中にいる」と確かめることです。
そしてもう一つ。愛する存在の引っ越しをすること。実際の引っ越しと同じで、時間をかけて新しい部屋にする。心の居場所を整えるという行為になります。
悲しみが出せたとき、その子との記憶は消えるんじゃなく、もっとクリアに、もっと美しく、心の中に残っていく。私はそう信じています。
「終わり」と向き合うことが、まだ怖くて一人では難しいと感じたら、話しかけてみてください。
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