中小企業経営のための情報発信ブログ74:間抜けの構造

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今日もブログをご覧いただきありがとうございます。
2021年大晦日、今年最後ですが、新型コロナで振り回された1年でした。
今日も本の紹介です。今日は、若干古い本ですが、ビートたけし著「間抜けの構造」(新潮新書)を紹介します。1年の最後、間抜けな人たちに振り回された1年、「間抜け」の「間」を考えてみるのにちょうどいい本です。
たけしさんは、本書の「はじめに」で「間抜けなやつ、というのはどこの時代にもどこの世界にでもいる。こういう仕事をしているからか、昔からおいらのところには間抜けばかりが集まってきたけど、芸人になるような奴ばかりが間抜けかって言うと、そうとは限らない。『間抜けに貴賎なし』と言いたくなるくらい、生まれも育ちも学歴も地位も性別も関係ない。政治家だろうと学者先生だろうと、間抜けは間抜け。でも、間抜けには愛嬌というか、どこか憎めないところもある」と言っています。芸人やお笑いは間抜けでは務まりません。笑いというのは間を外すことで生まれるのですが、正しい間を弁えているから間を外した時に笑いになるのです。その点、最近の政治家は間抜けばかり、たけしさんが言うような愛嬌のかけらもありません。
間抜け」というのは、「間の悪い奴」、大辞林によると「考えや行動に抜かりがあること、気が利かないこと」とあります。それでは「」とは何かというとなかなか定義しにくいように思います。大辞林にも色々と説明が載っていますが、「間抜け」の「間」は「日本の伝統(音楽・舞踊・演劇など)で、拍と拍(動作と動作)のあいだの時間的間隔。転じてリズムやテンポの意」のことでしょう。
たけしさんは、「何かモノと͡コトがあって、そのモノとモノ、コトとコトの間が、”間”なわけだけれど、それは目に見えるものではない。身につけられるものかどうか、教わることができるものかどうか・・・考えれば考えるほどわからなくなる」と言っています。
日本人は、「床の間」「茶の間」という空間を大事にし、「間にあう」「間尺に合わない」という慣用句もあるほど「間」という言葉に親しんできました。今、改めて「間」とは何かを考えれことは意味があることです。こういう観点から、たけしは、本書で「間とは何か」を考えていきます。
色々な間抜けな奴らが紹介され、漫才の「間」、落語の「間」、テレビの「間」、スポーツ・芸術の「間」、映画の「間」が、さらに、日本人の「間」と人生の「間」では日本人論や人生論が語られます。
ここに挙げられる間抜けな政治家たち、間抜けな芸能レポーター、ソープの待合室で経済誌を読む間抜けな客、ことが終わったとでソープ嬢に説教する間抜けな客、ラブホテルの壁に車ごと激突したビートきよしさん、GWで閑散とした繁華街で「今日はl混んでるね」という間抜けな田舎者、手相を見て「何かありましたね」という占い師、などなど面白おかしいエピソードが満載です。
たけしさんは、TVタックルの司会を長年務め、政治家や評論家たちと議論を展開してきました。政治家でも評論家でも、「間」のいい人と悪い人というのはすぐにわかると言っています。間が悪い人は、話の途中で息を吸うのです。息継ぎが下手だということ。漫才の場合、原稿があって練習するので、どこで息継ぎをすればいいかをちゃんと考えるのだそうです。確かに一文の途中で息継ぎされると話の内容がすんなりと入ってきません。
また、討論の「間」を制する技術というのも参考になります。討論の途中で話に入るのが上手い人と下手な人がいます。上手い人は、相手が息を吸った瞬間に入ってきます。このあたりの間合いを熟知し息継ぎのタイミングを研究しているのです。間と呼吸というのは密接に関係しています。
話に割り込む際には「いや違う、あんたの言うのは間違っている」と否定するのではなく「それはあんたの言う通り」と肯定から入っていく。人は自分の意見に同調されると、気持ちよくなり「間」ができます。その間に、自分の話をして、最終的には否定的な意見を述べて相手の言うことを潰していくというのです。相手に気づかれないように自分の持っていきたい方向に持っていくには、否定から入ったのではお互いヤジ合戦になって収拾がつかなくなります。一旦は肯定して相手の意見を認めたうえでその問題点を指摘して自分の考えに誘導していくのです。国会の答弁を見ていてもこのような論戦の仕方をしている人は見かけなくなりました。菅元首相のみならず、すべての政治家の答弁能力、説明力、説得力などが低下しているように思います。
討論が上手くなる方法というのも役に立ちます。ちょっと長めに話したいなら、「私の言いたいことは2つあるんですよ」と言って。その1つ目は短くして、2つ目に自分の言いたいことを眺めに主張するというわけです。私自身の考えをいうと、まず自分の結論を述べて、その結論に至る筋道を説明するという方法も良いように思います。最初に結論を言っておけば、途中で遮られたとしても自分の考えの結論はすでに言っていますので、自分の意見は言えています。
たけしさんは、「”間”というのを大事にするのは日本の長所でもあるけど、その一方で、短所もそこにある」と言っています。「間」を大事にするというのは、つまり過剰に空気を読むということで、そうすると、そこから新しい何かを生み出そうという能力が弱くなるというのです。「間」を読むということと空気を読むということは若干違うような気がしますが、確かに日本人には周りの雰囲気を読んで同調しようという傾向はあります。組織の中でも半沢直樹的な尖ったタイプでなく丸いタイプが好まれます。そうなると「右に倣え」ということで、新しいものを生み出そうという気概が欠けて、これまでの慣習を壊さないように維持するだけになってしまいます。
宮本武蔵の五輪書には「ちがふ拍子をわきまへ、大小遅速の拍子の中にも、あたる拍子をしり、間の拍子をしり、背く拍子を知ること、兵法の専也。・・・敵のおもひよらざる拍子をもって、空の拍子より発して勝つ所也」とあります。間を知ることの大切さといかにして間を外すかが必勝の極意だと言っています。「間」を読むということは空気を読んで同調することではありません。
間を理解し間を外す術を知れば、人々のニーズを弁えて、更にその先にあるニーズを掴まえることができ、新商品の開発やイノベーションを起こす機会になるように思うのです。
たけしさんは、「振り返れば、おいらの人生、山あり谷ありだったけど、その両方があったからこそ今があるんだよ・・・やっぱり適度に”間”があったからよかったんじゃないかな。結果論だけど、その”間”によって思わぬ転機が生まれて、次々と新しいことにチャレンジできたわけだから。人生というのは本当に何が起こるか分からない」と言っています。
また、「その人の”間”がいいか悪いかというのは、どの時代に生まれたかに尽きるんじゃないか・・・野球で言えば長嶋さんと王さん、相撲だったら大鵬と柏戸、芸能界だったら裕次郎さんとひばりさん、お笑いだと一番ピークはおいらたち。・・・企業だってそうだろう。ソニーがすごかった時代もあったけど、今は見る影もない。IT企業は今は全盛かもしれないけど、10年後は分からない。あらゆる業種というか職種に波みたいなのがあって、その時代にその分野にいるかどうかというのは運でもあるし、“間”がいいかどうかが試される」とも言います。
更に「基本的に生きている意味なんて分からない・・・『人間ってなんだ』『宇宙ってなんだ』と考えても分からないことばかり。だからこそ、人生というのは”間”だと思った方がいいんじゃないか。われわれの人生というのは生きて死ぬまでの『間』でしかない。・・・見つかることのない『生きている理由』を探すよりも、そう思った方が楽になる」と言っています。人の一生というのは、この宇宙が誕生して138億年という歳月のなかで、「生と死」というたった80年程の短い人生にしかすぎず、一瞬の「間」にしかすぎません。人間という言葉にも「間」という字が使われます。人間とはまさに「生と死の一瞬の間」なんです。と言っても、これが自分の人生ですから、この「間」を大切にして精一杯生きるということが大切だと思います。
最後に、たけしさんは「もう一回、”間”というものを見直して、生き方を考えてもいいんじゃないかと思うけどね」と言って締めくくっています。
人生においても、ビジネスにおいても「間」というのは極めて重要です。本当の「間抜け」にならないためにも「間」を弁えることが重要です。
面白おかしく読めてちょっぴりというかかなり役に立つ本です。
来年もできる限りブログ更新していきますので、よろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えください。
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