私のルーツ旅・第9話|なぜ釜石だったのか?──郷土史が語る「航路」と「選択」
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コラム
釜石に渡って財を成したのは、
やはり長太郎だった──。
本家の口伝と商工年鑑の記録が
一致したとき、思わず膝を打った。
しかし、どうしても腑に落ちないことが一つあった。
なぜ、釜石だったのか?
小田原から数百キロも離れた東北の港町。
親類縁者もいないはずのその土地に、
なぜ長太郎は人生を賭ける決断をしたのか。
偶然だったのか。
それとも、何かから逃れるように
たどり着いたのか。
──その答えは、意外な場所に残されていた。
あの郷土史に、「鷹羽丸」という
船の名前が記されていた。
それは、かつて船銀(銀蔵が興した船の造船所)
が建造した遠洋漁業船の一つ。
その船が寄港した港の記録の中に、
見覚えのある地名があった。
釜石──。
他にも乙浜、塩釜、三崎などの港名が並んでいたが、
釜石だけは妙に回数が多い。
まるで「拠点」として機能していたかのように。
郷土史には、こう書かれていた。
「当時の漁船は、色丹や択捉の沖合まで出漁していた。その中継地点が釜石であり、船乗りたちは皆、そこを基地のように利用していた。」
つまり釜石は、単なる通過点ではなかった。
そこに行けば、誰かがいて、
「言付け」さえすれば話が通じるほど、
人の行き来があったという。
長太郎が釜石に降り立ったのは、
偶然ではなかったのかもしれない。
すでに家の誰かが築いた「航路」に沿って進んだのだ。
本家はこうも語っていた。
「長太郎は、村八分にされたんだよ」
どこまでが事実かはわからない。
しかし、当時の風習を調べていく中で、こんな話に辿り着いた。
地元の船乗らないで出稼ぎに行った者は、
「村に金を落とさず、外で稼ぎ、村の掟を破った」
として疎まれることがあったという。
若者が村を出て、新しい商売を始める。
それは時として「裏切り」とみなされた。
──長太郎は、釜石という地で
新たな可能性を求めて会社を興した。
しかし、その選択が、
故郷には受け入れられなかったのだ。
村の掟に背いた者。
それでもなお、新天地で己の道を切り拓いた男。
長太郎は釜石の港に降り立ち、
事業を興し、成功した。
そして私の曽祖父・庄太郎も、
同じく釜石で会社を立ち上げた。
曾祖父もまた、兄の背中を追って
ビジネスを始めたのだろう。
傍から見れば遊んでいたように映ったかもしれない。
だが、真実はわからない。
郷土史が語る、漁師町の暮らし──子どもたちと「貰いっ子」の記憶
郷土史には、この地で営まれていた暮らしの姿が、
克明に、そして温もりをもって記されていた。
たとえば、漁師の家に生まれた子どもたちは、
13〜14歳にもなると本格的に漁に出ていたという。
もっと幼いころから、
海への憧れを胸に秘めていた子もいた。
ある少年の思い出には、こんな冒険が綴られている。
小学生の頃、夜明け前の午前3時にこっそり起き出し、自分の家の漁船の船底に身を潜めた。エンジンの音、波のうねりで出航を感じると、そっと顔を出す。驚いた船頭に見つかり、当然のように叱られたが、彼は誇らしげにその冒険を語っていた。
子どもたちは、自分の好きな漁船を語り合い、
「はえ縄がかっこいい」「俺はマグロ漁がいい」と、
まるで現代の子どもがスポーツ選手に憧れるように、
“海の男”に夢を見ていた。
そして、見よう見まねで網を引き、
魚を選び、道具を手入れする。
そうして、漁師の仕事を自然と覚えていったのだ。
また、こんな記述もある。
一家の中で名字がそれぞれ違っていた。不思議に思った子どもが、後に「自分たちは貰いっ子だった」と聞かされた。
当時の農村では「口減らし」の風習があり、
生活が苦しくなると子どもを他家に預けることがあった。
血のつながりがなくとも、
共に暮らす“家族”の形が、そこにはあった。
「いたずらすると、千度小路にやっちゃうぞ」
千度小路(せんどこうじ)は、古新宿に隣接する地域の名前。
子どもたちにとっては「どこか遠くへ行かされる」
象徴だったのかもしれない。
親たちは冗談交じりにそう言って叱り、
子どもはびくっとして大人しくなる――
そんな家庭の風景が、文字の奥から浮かび上がってくる。
「作る」「届ける」「生き抜く」──家系に流れる、ひとつの意志
そうした暮らしの中で、
長太郎や庄太郎は「加工品の仲介業」に
活路を見いだしたのだろう。
桐タンスを作った長男家。
海産物の流通を担った二男家。
時代とともに、手にする技術も、生き方も変わった。
けれど、どちらにも通底していたのは、
「作る」「届ける」「生き抜く」という意志だった。
戸籍だけでは見えてこない、
物語の断片たち。
菩提寺の記録、郷土史の記述、
本家の語りがなければ、
たどり着けなかった事実。
──だがここで、さらに新たな問いが浮かぶ。
船大工・銀蔵の技術は、いったいどこから来たのか?
過去帳には、銀蔵(初代長蔵)より上の代、
「由兵衛」の名が記されていた。
彼が技術を受け継いだのか、
それとも、どこかから学んだのか。
郷土史には、こんな一文があった。
「大きすぎて浜に寄せられず、城ヶ崎で修理したという。」
城ヶ崎といえば、伊豆の海岸──
そして偶然か、光(私の祖母)さんの
養子縁組先の本籍地も伊豆だった。
家紋は「下り藤」。
本家が記憶違いしていた家紋だが、
名字の由来をたどると、
そこにも伊豆の痕跡が見つかる。
技術のルーツは、
もしかすると伊豆のどこかにあるのかもしれない。
その確信とも、予感ともつかぬ思いを胸に、
私は次の一歩を踏み出そうとしていた。
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