「相棒」最終話”後編”

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コラム
私は比較的「ミステリーもの」といったジャンルの、TVやDVDを見る傾向がある。
ではあるが「ミステリーもの」であれば何でもよいか、と言うと必ずしもそうではない。
やはり見ごたえのある番組や作品、それなりの内容でないと、納得しないし継続的に視聴し続けることは殆ど無い。

そんな中で比較的よく観る「ミステリー」として挙げることが出来るのは、「英国製のサスペンスドラマや番組」である。
やはりかの国のこの分野の作品はレベルが高く、クオリティーが維持できているものが多いようである。
「ポアロ」「ホームズ」「ミスマープル」といったおなじみの作品はもちろん、「刑事フォイル」「主任警部モース」「ニュートリックス」といった番組も比較的よく観る。

そしてこの「英国製ミステリー」の基盤を創ったのは、何と言っても「コナンドイル」だと私は想っている。
「シャーロックホームズ」がその象徴であるが、日本で言えば明治時代初期に当たる時代に彼に依って書かれた、本格的「ミステリー」の存在が、その後のイギリスの「推理小説」の基準と成り、それ以降メインストリームとして「推理小説」の方向性を決定づけた、と私は想っている。
その後創られた「アガサクリスティー」や「アンソニーホロビッツ」の作品群を観ても、彼らの作品が「コナンドイルの作品」をかなり意識している点を、私は感じることが少なくない。

そしてそのコナンドイルの作品の特徴でありかつ魅力となっているのは、やはり「社会的な背景を背負ったミステリー作品」である点が、大きいようである。少なくても私にとってはそうである。
「市井の殺人事件」や「社会的事件」といった現象の背景に、「社会的な要因」が在って当該する「事件」や「トラブル」が起こっている、という因果関係をしっかり押さえた構成になっている点が、彼の創作する「ミステリー作品」や「物語」に、深みや面白みを感じさせてくれている様に、私には想われる。

日本では「松本清張の作品」に同様の傾向があるが、彼の場合は「マニアックなトリック」に走る傾向があり、その点が私には鼻につく。
その代表例が『砂の器』で、野村芳太郎監督の「映画」の作品と松本清張の「原作=小説」とを比較してみればよく判る。
『砂の器』が高く評価されるのは、原作の「小説」以上に「映画」の作品が醸しだす「映像」や、その背景にある橋本忍らの「脚本」の力が高く評価されているからだ、と私は確信している。

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映画『砂の器』を観た後、原作の「小説」を読めば私の言っている事を理解してくれる人も多いのではないか、と私は想っている。
かの『砂の器』は日本の映画史上に残る、優れた「映像作品」だと私はそう位置づけ評価している。
そんな私が、日本のTV番組の中で殆ど唯一と言ってよくチェックしているのが、テレ朝の「相棒」である。
この番組の魅力は、先ほど述べたような「社会的な背景を持ったサスペンス番組」であり「社会派刑事ドラマ」と言ってよい内容を持っているから、である。

毎週のように欠かさずチェックしているのは、この番組がやはり私の好みにハマっているからでであろう。要は私の価値観がそのまま反映しているのである。
取り分け、シーズンの初めや終わり、そして元旦に放映される二時間のスペシャル番組は見応えがある作品が多かった。

そんな中で今回シリーズの「最終回」スペシャルが、先週の6日と先日の13日に放送され今回も私は観た。
下記はその視聴感想である。(前回コラムの転載)

*3月6日の番組を観終わった感想
今回の「相棒」は実に興味深い展開であった。
久々の政治ものであり実に多くの伏線が貼ってあり、来週の後編が大いに期待できる内容であった。
 「地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」
 「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」
 「政治家に依る司法への介入」
 「政権を批判したTV局の人事異動」
 「TV制作プロデユーサーの死」
 「杉下右京のネットでの告知と拡散」等など。
現在及びここ数年間「政治」や「社会」「TV局」の中で起きていた事が、随所に散りばめられ、撒かれているのである。

・そして最も気に成るのは、今回の「最終話」が一体何を意味しているのか、である。
・この番組を観たテレ朝の経営トップの対応によっては、「相棒」の番組自体が終わり得る可能性があるから、である。
そこに私は「相棒」の名物脚本家輿水泰弘や監督橋本一、プロデューサーらのある種の覚悟を感じた、のだ。
来週がどの様な展開になり、「相棒」の制作者たちへの影響が今後いかに行われ、TV朝日という会社がこれからどうなっていくのか、興味津々なのである。
                  ー 以上は前回のコラム ー

と、前回書いたように様に、3月6日の「最終話”前編”」の内容は充実していて、沢山の伏線が貼ってあり、この時点で私はおおいに「後編」に期待したのであった。
というのもこの「前編」に描かれていた内容から私が独断と偏見で読み取ったのは

・「地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」は、かつて安倍内閣で6・7年間官房長官を務め、最も安定していた官房長官と一部の人達に評された「菅義偉」氏の実家は、秋田の裕福な「イチゴ農家」であり、このエピソードはその事を連想させた。
・「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」のは、2・30年前に新進気鋭の社会学者と持てはやされ、2年ほど前に暴漢に襲われた都立大学教授「宮台真司」氏の事を彷彿させた。
宮台教授は以前ほどの輝きを失っているが、かつては「過激な発言」がウリの社会学者であった。

・「政治家に依る司法への介入」は、その菅官房長官が推し進め、自身が安倍元首相の後釜に収まった時に実現を図った、「黒川検事総長就任」ゴリ押しのエピソードを私には連想させた。
・「政権を批判したTV局の人事異動」は、「安倍晋三首相」「菅官房長官」「二階幹事長」の時代に、NHKで行われた「ニュースウォッチ9」「クローズアップ現代」のキャスター達の相次ぐ降番や、人事異動の事実が重なった。

これら伏線を経た上で番組の中で発生した事件「TV制作プロデューサーの死」は、NHKで起こって来たこれまでの事や数年前に発生した、テレ朝の看板番組の一つ「報道ステーション」のTV制作会社(オフィス2・1)の交替や、局の制作プロデューサーが「報道番組経験者」から、「バラエティー番組経験者」へと交替させられた事実を、私は思い起こしかつ連想し、その関連性を妄想してしまったのであった。

これらの番組にとって「看板は前と同じ」であっても、制作会社の変更や担当プロデューサーの交替は、当事者にとっては「死」を意味するからである。
従って、この「TV制作プロデューサーの死」という展開は、テレ朝首脳陣、より具体的には安倍晋三元首相のメシ友だった、「早河洋」現会長への「相棒」制作陣の「メッセージ」や「覚悟」を含んだ番組なのかもしれない、と更なる妄想をたくましくしたのであった。

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            テレ朝、早河会長


私が次週の「後編」の展開に大いに期待したのも、この様な連想や妄想が活発に働き好奇心が大いに蠢(うごめ)いたから、であった。
その様な妄想や期待があったから今回の「最終話」が引き起こすかもしれない、「テレ朝経営陣への影響」、そしてその反動としての経営陣から制作陣へのアクションがどうなるかを、私は大いに期待もし妄想を豊かにしたのであった。
即ちひょっとして、今回の「相棒最終話」制作陣の「メッセージ」や「反乱」が、テレ朝経営陣の怒りに触れ「番組がこのシリーズで完結してしまうかもしれない」

更にかつてテレ朝局内で行われて来た様に「看板だけ」残して、実質的な制作者である「番組制作会社」や「看板脚本家」「局の制作プロデューサー」の交替が、今回も行われるかもしれない等と邪推し、いろいろと妄想が広がって行ったのだった。
今回の「最終話」はそういった番組存続に繋がりかねない、今後への「影響」や「リアクション=反動」を覚悟しての「最終話」だったのかもしれない、等と制作陣の「想い」や「覚悟」を、勝手に妄想したのであった。

しかしながら実際に放映された「後編」は、「前編」の路線を敷衍(ふえん)するのではなく、いつもの60分番組に近いレベルの「フツーの相棒」内容であり、大いに肩透かしを食ってしまったのであった。
私の幾つもの「想像」や「予測」「推測」「妄想」「期待」はあえなくも飛び散り、雲散霧消してしまったのであった。

「前編」で大見えを切った割には、あっけない「官房長官の死」やその犯人の「リアリティの無い動機」、「未成熟で軽い人物像」「荒唐無稽な殺害方法」は、全くの残念な「小品」でしかなかったのである。
登場人物たちの設定上の役柄である、内閣の要である「官房長官」の登場も「前法務大臣」や「前特捜(検事)部長」の配役やその言動も実に軽く、リアリティさが全く感じられなかった。

残念ながら今回の「最終話」は「前編」が匂わせたような、「社会的な背景を背負った、重厚なミステリー作品」等ではなかったのである。
最近の「相棒」に「社会的な背景が無くなって、つまらない作品が多い」と、愚痴り嘆くことが増えた愚息の指摘を、今回の「最終話」で私は納得してしまったのである。
誠に残念で「尻すぼみ」な作品であった。

「相棒」もここらでもう一度原点に返って、「社会を意識」した「とんがった作品を⁈」と期待するのは、無理難題な事なのであろうか・・。
それとも現在のテレ朝の首脳陣の意向を忖度して、「反骨心」や「牙」を無くしてしまった「中途半端な作品」を、今後も作り続けるのであろうか・・。
この番組の制作陣に、このままこれから先も期待出来なくなっていくのであろうか・・。
などと考えてしまったのである。

かつての「報道ステーション」が持っていた、「ジャーナリズム」としての魅力が無くなってから、地上波のテレ朝の報道番組を観なくなり、BSTBSの「報道1930」にチャンネルを替えた様に、
「相棒」から遠ざかり「Amazonプライム」や「Unext」「Netflix」等で、「英国製社会派サスペンス番組」を見ることに成ってしまうのであろうか・・。

そうだとしたら、誠に残念な事である。
ますます日本の地上波がつまらなくなり、これから私は地上波そのものを見なくなるのであろうか?
それとも地上波を離れる事で、結果的に選択肢が増えることに成った、と喜ぶ様に成るのであろうか・・。
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