大相撲における”記録”と”記憶”問題

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コラム
2024年春場所は記録や記憶に残る場所であった。
その主役となったのは110年振りの「新入幕優勝」を遂げた尊富士の大活躍と、ザンバラ髪の関取大の里の活躍であった。

14日の朝乃山との勝負で「足の靱帯」に損傷を負い、車いすに乗って土俵を去った彼を見て、「今場所は尊富士の相撲も終わったな」と想ったのであったが、何と千秋楽に出場する、という情報が入った。

この一報を聞き私はかつて「貴景勝」が何回か繰り返したように、「無理して試合に出なくっても次があるだろうに・・」と想い、師匠の判断を疑ったのであった。
その貴景勝は無理して土俵に出続けて、結局回復を遅らせてきた事が何回もあったからである。彼の二の舞を尊富士には繰り返して欲しくない、と想ったからである。
ところが、である。
この間彼の所属する「伊勢ヶ浜部屋(元旭富士親方)」ではこの数時間の間に、幾つかのドラマが起きていた様である。

尊富士のインタビュー記事や伊勢ヶ浜親方のコメント記事などを観ていると、
・横綱照ノ富士の「記録に残る相撲より、記憶に残る相撲をめざせ。お前ならできる!」
といった先輩力士としての激励やアドバイス。

・「出場しても後悔する、出場を止めても後悔する。同じ後悔すのなら・・。最後は彼の言った『記憶に残る相撲を取りたい!』という気力に委ねました・・」と言いながら言葉を詰まらせた、伊勢ヶ浜親方の想い。
このようなやり取りが「伊勢ヶ浜部屋」の中では、繰り広げられていたのだ、という。

私はこのエピソードを聞いて、尊富士は「良い相撲部屋を撰んだな・・」と感じたのであった。
よき先輩力士を持ち、よき親方の指導する部屋を撰び、入った事をである。
今場所途中休場した照ノ富士は、ケガや病でかつて序二段まで転落し、そこから這い上がって復活して来た力士であり、辛酸をなめ尽くし、自らと闘って横綱と成った力士であった。

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その彼は昨夜車いすで部屋に戻って来た尊富士の元に自ら出向き、上述の様な激励やアドバイスを行ったというのであった。
「記憶に残る力士に成れ!」と。
そしてその照ノ富士の成長の軌跡を一部始終観て来た伊勢ヶ浜親方の、「熱い想い」である。この師匠にして、この力士あり。なのだ。

かつて照ノ富士が序二段から復活して優勝した時の試合を観ていたこの親方が、花道で天井を見て涙をこらえていた姿を私は思い出した。
やはり「良い部屋に入って好かったな・・」と私は感じたのである。
そして今回の「尊富士優勝のエピソード」を聞いて改めて私が思い起こしたしたのは、「宮城野部屋の不祥事」であった。

平成の大横綱として数多くの「記録」を残してきた、元白鵬が親方として継承した「宮城野部屋の不祥事」の事をである。
部屋頭の「北青鵬の弟弟子イジメ」や、夜は弟子たちを残し部屋には泊まらず、弟子たちと寝食を共にしないで自宅で過ごし、「観光客がたくさん来るから銀座に相撲部屋を作りたい」と言った白鵬親方の事を、である。

彼は「記録」に拘り、相撲を「格闘技」や「エンターテイメント」としてしか、捉えていなかったのではないか、としか思えない元白鵬の相撲部屋との違いを、私は今回の「尊富士のエピソード」で思い起こしたのであった。

日本に千年以上続く「相撲文化」を今後も維持し、継続し発展させるのは「人間の心」を大切にし、「記憶に残る力士たち」を排出し続ける親方の率いる「相撲部屋」であってほしいものだと、願って止まないのである。
「伊勢ヶ浜部屋よありがとう!」なのだ。


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