青い春

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コラム
今年の春は例年より早く、ここ北海道十勝にも訪れているようである。
例年だとGW頃までは残っている根雪は既にすっかり溶けており、家の前の牧草地などでも白い雪は消え失せ、青い草が一面を覆い尽くしている。
我が家の庭では春の先駆けである「福寿草」は既に咲き終え、濃紺の「クロッカス」や白や黄色の「水仙」が庭を彩っており、春の到来を実感しているところである。

更には敷地の一画に生える野草である「行者ニンニク」も、かなり目立ち始めておりボチボチ初摘みをしようかと、考えている。
その「行者ニンニク」が採れ始めると、追いかけるように「フキノトウ」や「コゴミ」「ゼンマイ」といった野草たちも、あちこちに芽を出す様に成る。

そして未だビニール掛けをしていない、ビニールハウスの土壌からは「アスパラガス」や「ニラ」がにょきにょきと、生えてくるのである。
この様にして我が家の春は始まり、一面に緑色が茶色い土を覆い尽くす様に成るのだ。
文字通り「青い春」がやって来る。
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漢文化の影響を受けている我が国において、「春」は「青色」で語られ、方位としては「東」を意味し、ライフステージにおいては「10代半ば~30手前」を指し、「青春」と称される。象徴は「青龍」である。

このステージは発展途上であるが故に「無限の可能性」を感じさせ、「前途有望な将来に対する期待」や少なからぬ「夢想」や「妄想」を、私達に抱かせる。
もちろん現実にはその後の「多くのチャレンジ」や「試行錯誤」の結果、少なからぬ「失敗」や「壁の存在」を経験し、「学習」を積み重ね「挫折」をも体験する事で、自分という人間の「限界」や「身の丈」のリアリティを識ることに成る。
そうして次第に人間的には「丸く」成って行き、「とんがり」は消え「ムダな事」はしなくなる。

この様なプロセスを経て「現実を受け入れ」て、「想定内の日常」の中を毎日生きてゆくことに成り、やがて家庭を築き、家族を養うようになり一家を形成するようになる。
このステージを漢文化圏では「朱い夏」と言い、「朱い=赤・紅」色で表現され「熱い季節」を指す。

方位としては「南」を示し、ライフステージでは「30代~50手前」を指し、「朱夏」と称す。「朱雀」がその象徴である。
それから先は「白い秋」「黒い(=玄い)冬」に向かい、いよいよ「西」や「北」を指す様に成るのである。「白虎」「玄武」がその象徴である。


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こんな風にして私達は年齢を積み重ねていくのであるが、ときおり無性に新しいことにチャレンジしたくなる事があり、少なからぬ回数において「想定内の日常」を打ち破るアクションを、行いたくなる。「変化を求める」のである。
もちろん個人差があるのであるが、私などがその手の「チャレンジ」を行いたくなるのは、これまでのところ「人生の節目」を迎えた時期であり、「50歳前後」「還暦を迎えた頃(60前後)」「身体的な老いを感じた頃(70前後)」といった感じであった。

私の場合ほぼ10年周期で、この手の「変化を求める」ため「問題意識の発生」や「チャレンジ精神」が湧き起こって来たようだ。
「身体が元気」で「心も健全」で「時間がたくさん残って」っていて、「多少財布にゆとりが残って」いれば、単純な私はすぐさま「行動力」に任せて「チャレンジしまく」って来たのである。

が、「残された時間が多いとは言えず」「身体的にもあちこちで欠損が生じ」たりすると、簡単に「チャレンジ」することは出来ず、おのずと慎重にならざるを得ない。
将に「自分の身の丈」に合った範囲での「チャレンジ」、という事に成り「実現可能」な事柄にフォーカスを絞った「アクション」、という様に限定的に成ってくるのである。

その上、「アリさん」タイプの人間ではない「キリギリス」タイプの私は、「限られた原資」を使っての「チャレンジ」という事で、更なる絞り込みが必要に成る。

今年70歳の古稀を迎え「白秋前期」から「白秋後期」に差し掛かる身としては、「青春」や「朱夏」の世代の様に無茶をする事は難しくなってきている。
しかしながら、私は腹の中に天然の「チャレンジ虫」を抱えているため、キット死ぬまで「チャレンジは止めない」だろうという事が、自分でも判っている。
困ったものだが、その腹の中の「チャレンジ虫」と「どうやって折り合いをつけ」ていくか、を考えながら今でも毎日闘っているところだ。

そして、実年齢よりも「若く元気だねぇ」と周囲からよく言われるのは、この腹の中の「チャレンジ虫」のお陰かも知れない、などと時折想ったりするのである。
身体的には明らかに峠を越えた私は「チャレンジ虫」の突き上げを食らいながら、今年の「朱夏」や「白秋」「玄冬」をどう過ごそうか、考え始めているところである。
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