EVAシリーズの最新作にして最後の作品となる
シン・エヴァンゲリオン劇場版。
公開日ないし、その後に続いて見に行った人たち(私の知人達です)
の意見を聞くと殆どの人の回答が「とてもよかった」か「まぁよかった」
との意見を聞きました。
現在コロナの影響で映画館に足を運ぶのも中々に厄介だったため
私は見に行かないつもりだったのですが、AmazonPrimeで会員は無料で
見れるとわかり早速視聴しました。
(2021/10/13現在もまだ見れるようなので気になる方は是非)
また、Q:3.333なるものが8/25に発表された模様で、Qとシンを
全面的に見直しして、くっつけたような形になるかもとのこと。
気になる方はチェックしてみるのもいかがでしょうか。
以下ネタバレになりますため、上をみて、自分も見てからにしたいと
思った方はここでお帰りください。
結論から言うと、見た人はわかると思いますが
シン・エヴァンゲリオン劇場版は「だいぶわかりやすい」
ハッピーエンドで物語が終了となります。
そして身も蓋もない事を言うと、人々は物語にハッピーエンドを
求めていることが確か統計的にもデータが有ったはずです。
また、人は理解できない要素が混じり合うのを嫌うというのがあります。
例えば極論ですが、ごつい男性がゴスロリの服装して電車に乗ってたら
「なんだありゃ!?」ってなって、たぶんほとんどの人は
いい気分はしない、むしろ不気味さを感じて不快感を覚えるでしょう。
これは差異が強いほど、不快感を覚えるとのことなので
例えば女性か?というほどの美男子が
ボーイッシュな女性の服を着ている場合はさほどの不快感がないでしょう。
一応断っておきますが、別にごつい男性の人が女装するなとか
女装しているのは気持ち悪いとか言っているわけではないので
そこはあしからず。
ここで、アニメ版の終わりと、旧劇場版の終わりと、
新のQおよびシン・エヴァで比較して見てみましょう。
アニメ版は最終話付近になるとまず全般的に作品が
暗い雰囲気になっていきます。やはりこうなってくると最後は
バットエンドかもしれないけど、なにか救われるのではないか?
という期待感もあった気がします。
しかし『まともな』という言い方をしていいのでしょうか、少し悩みますが
渚カヲル君が出てくる回が終わると、よくわからない台本やら
よくわからない絵柄が出てきたり、話自体がそもそもどうなったの?と
まるで視聴者を置いてけぼりにした展開でそのまま最後に
『おめでとう』『ありがとう』で終わってしまいます。
もうこれは当時から賛否両論、というより否定的意見のほうが
多かったと思います。
そして上の例でいうならば、そもそも言葉の上では
ハッピーエンドっぽいですが、それすらもよくわかりません。
むしろ意味不明で暗い雰囲気で強制的なハッピーエンド。
この上ないほどに見た人は不気味さ等を感じたと思います。
当時私は小学6年生ぐらいでしたが、感想としては
「なんで最終話2個分、アニメじゃないの?」であり
2話分の評価としてはかつて見たアニメの中で
最も最悪だと心のなかでは思ってました。
その後しばらくして旧劇場版の話が上がります。
実際には総集編1時間強+30分程度の1回目と
30分公開された分も含めて最後まで公開された2回目に
分かれて上映されました。
まず最初の総集編からスタートしてる時点で?が浮かんでましたし
それが1時間以上も続くものですから、正直金を返してくれと
思ったのが記憶に残ってます。こういうのも訳のわからない要素ですね。
2回目はようやくお題目通りのアニメ後の世界が描かれました。
アスカが覚醒して大暴れしたり、やっぱりやられてしまったり
ミサトさんがシンジくんにキスをしたりして、そこらへんまでは
『まだ』ちゃんと作品としての体裁を保ってたと思います。
ただ、突然恐らくですがサードインパクトが発生し、なんとなく各キャラの
最期が描かれていき、最後にシンジくんとアスカが浜辺に残るシーンは
結構有名ですよね。
ここの描写については、現在では様々な考察がされており
それを見ると一応の納得ができるのですが・・・・・・
当時も考察は盛んに行われてましたが、まだ出されている情報が
少ないこともあり、またコアなEVAのファンではない人にとっては
そんな情報は知る余地もない話なのです。
結論を言うと結局この旧劇場版も、『一般大衆』からするとやはり
意味のわからない、不気味な作品として終わってしまったという印象です。
アニメよりはだいぶマシでしたが、映画でもこれだったので
一部のコアなファンを除いて一般の人は庵野秀明氏は
まともな作品が作れないのでは?などと言われてた時期もありました。
そしてその歴史はまた再び新劇場版でもQにおいて発生します。
まず、序・破と続いた新劇場版ですが、ここは違いはあれど
基本的にアニメ版を踏襲した流れであったこともあり
またアニメでもまだわかりやすく、話としても明るい頃の部分が多い
(最後のほうはちょっとダーク路線入ってましたが)ので
多くの人が作品を称賛し、Qの予告に期待と不安を交えて待っていました。
そして現れたQはある意味期待を裏切りませんでした。
破の最後にあったはずの次回予告のシーンは何処かに消えさり
また、描写のされ方にも問題があったのですが、Qの描写で重視されてたのは
主人公であるシンジくんが、何年もの時間を飛び越えて
急に未来の世界に来てしまって、物事がどんどん進んでいってしまって
彼だけが取り残されているという描写を、視聴者も体感できるような作りに
なっていたことは、Qの評価を下げる一因にもなってたと私は考えてます。
結果的に意味はわからないけどなんか戦闘が起こって
相変わらずカヲル君だけは味方だけどやっぱ死んじゃって
一体主人公はどうすれば良いのかわからないのに
周りからは凄まじく駄目だしされる。
たぶんかつてのアニメ版、旧劇場版よりは
まだしっかりしてたほうだと思いますが、やはり視聴者を置いてけぼりにした
構成になってるなという感じを受けました。一応シン・エヴァンゲリオンが
続きで最後に残されているということで一応の最後の希望として
残されたような印象でした。
ただ上映は当分先ということで、生きてるうちに見れるのか?
などと揶揄されてましたが、この頃は、具体的には時期は不明ですが
庵野秀明氏が元々いたガイナックスと袂を分ち、バチバチやってたころなので
庵野氏を非難するのは些か可哀想かなと思います。
たしか、破のアスカが最初に倒す使徒がまったく姿が別物だったのも
ガイナックス側が資料を紛失したためだったと記憶してますが
曖昧なのでまぁ気になる人は自分で調べてみてください
*この件に関しては恐らく検索すれば色々でてくると思いますので
興味がある方は見てみると良いと思います。
結果的に最後に出てきたシンエヴァンゲリオンですが
ニアサードインパクトの発生によって世界は滅亡の危機にある状態と
明確に示される一方で、過去のクラスメートや
一般の人たちの力強く生きる姿は多くの人がわかりやすく
つまり理解できる世界だったと思います。
またシンジくんの描写についても角度が変わっていきます。
Qでは置いてけぼりで何も教えてももらえないというような
孤独感をテーマにしたような感じのポジションでしたが
シンではニアサードインパクトを起こし、恨まれる要素もあれど
だけど彼がいたからまだ世界は踏みとどまっている。
とかつての仲間たちからの説明があり、最後に彼が立ち上がれるか。
というのが作品の流れになっていたため、これも視聴者からは
わかりやすい要素として捉えられたことでしょう。
また、シンジくん以上に意味がわからなかったのがお父さんのゲンドウです。
コイツ一体何がしたいんねん状態だったんですが、一応旧劇場版の描写を
見る感じとして、描写こそ少ないんですが、少ない中でゲンドウの欲求が
出る場面は常に妻であるユイと居たい、ユイと再開したいという
ことであるのが見えていたので、個人的にはシンでのゲンドウを見た時は
やはりそうか、と言う感じで、ただより多くの人がはっきりと分かるように
シンジくんとゲンドウが対峙するシーンが作られたのだろうと思われます。
冒頭の話しに戻りますが、私の知り合いが直接映画館でみた人。
アマプラで見た人、問わずですがシン・エヴァの感想は概ね良好で
「なにがいいかは特に誰もいわない」というのが特徴でした。
感想を聞くと「よかったよ」とか「悪くない」みたいな反応はあるんですが
具体的にどこどこにシーンが感動してーとかそういうのは
殆ど聞きませんでした。
Qのときは結構、なんで渚くんがピアノ引いてるんだか意味わからんとか
シンジくんが迫害されてて意味がわからないとか、まぁ色々悪いところは
一杯挙げられてた印象なので、非常に対照的ですね。
結局、シン・エヴァは多くの人が新劇場版を通してみてきた人が
1本の話として納得できる、一本筋の通った話しとしておわったから
『良かった』という評価なのかなと思ってます。
別に悪いことだとは思いませんが、そういう意味であまりシン・エヴァは
QよりTwitterなどで悪目立ちすることもなく、良かったよという話で
さっぱりおわっていて、あまり騒がれなかったなと言う印象です。
最後に、ここからは私の考えるエヴァンゲリオンから見て取れる
シナリオについて少しだけ語りたいと思います。
エヴァンゲリオンの解説をする際に一度「一般大衆」という表現を
使用させていただきましたが、この表現について皆さんはどのような
印象を抱かれたでしょうか。
人間は当然たくさんいますので、その大部分が「一般大衆」に分類されます。
あたり前のことなのですが、その一方で『俗物的』というか
『平凡ないしそれ以下』みたいな負のイメージを持っている言葉と思います。
エヴァンゲリオン全体を通して、これは庵野秀明氏が意図してそうしたのか
それとも制作期間などの関係で時間が取れず説明しきれなかったのかで
見方が変わるのですが、まず前提としてシナリオというのは
何でもわかりやすければ面白い、というわけでは無い。
というのはみなさんもご同意いただけるかと思います。
なのでよくそういうよくわからない要素を先に出すことを
伏線などと言ったりしますよね。
そしてそれを殆どの場合は後半の大詰めの段階になって意味が説明される。
これが伏線回収というやつですね。
で、更に作品の演出を行うにあたって、あるモチーフや有名なものを
参考にして、作中では語らないけど、でも読者には
嫌でも思い浮かんでしまう。
そんな見せ方があると思います。
凄くシンプルな例で言うならば日本を代表するYoutuberさんが~
という文脈があったとします。
そうすると、全員がそうではないにしても、多くの人がヒカキンさんのことを
イメージするのではないでしょうか。こういった意味のもたせ方をする
シナリオや小説などは多数あり、エヴァンゲリオンについては
キリスト教関連のモチーフが多数盛り込まれています。
私もあまりキリスト教への知識が深いわけではありませんが
アダムとイブやロンギヌスの槍
(キリストを処刑する際に使用された槍を指す言葉)など
ちょいちょい聞き覚えのある程度には知っています。
なので、そこからある程度イメージを膨らませてくれーという意図が
多かれ少なかれあったのは確かだと思います。
私にとってはガフの扉とかなんのこっちゃですが、知ってる人は
ニヤッとするのかもしれません。
まあここに関しては日本人は意外とキリスト教を知らないっていうのと
どっちかというと北欧神話が好きっていうのがあるんですよね。
多分知られてないからこそあえてそっちを使ってるんだと思うんですが。
アダムとイブとかロンギヌスの槍とか言われるからわからないんですよ。
オーディンとか、トールとか。グングニルの槍やトールハンマーって
言われればピンとくる人は多いのでは?
まぁ槍は今は某ランサーさんのヤツのほうが有名かもですが。
日本のRPGでは北欧神話をモチーフにしているものが多いですからね。
セカンドインパクトはまぁ多分造語ですが、まぁラグナロクとか言っておけば
今どきの若い子はあーなるほどねみたいな感じなのでは。
で、再び話を戻しますが、『一般大衆』っていうのは
そういう事、普通知らないんですよ。という意味で使いました。
だからそういうことばっか羅列されて意味分かんないままどっかーんって
なって終わりましたっていわても「は?」ってなるわけですね。
誰しもが知っていると言える有名な小説に
シャーロック・ホームズというのがありますが、著者のコナン・ドイルは
細かく複雑でこだわった小説を書き続けていたものの、まったく売れず
半ばやけくそ気味で、今までの趣向とはまったく違うものを書きます。
頭もいいし運動もできるし察しもいいし、ちょっと麻薬したりする
悪いやつだけどいざとなるとめっちゃ頼れるスーパーマン。
つまりそういうキャラであるシャーロック・ホームズという小説を作った結果
爆発的に売れたという話があります。
コナン・ドイル自身はそんな小説はただの俺つえーの無双小説みたいな
ものだから、ガチモンの小説を作りたいって言い続けるらしいですが
あらゆる出版社からまるで奪い取るかのように、普通の小説の10倍以上の
金額で「頼むからシャーロック・ホームズを書いてくれ!」と言われ続け
いやいやずっと書き続けることになり、強制的に終わらせたくなって
ホームズを作品上で死亡させようとしたら
殺害予告が届いたような話もあったかとか。
仕方なく復活させてましたが、またファンがそれで盛り上がること。
また、そんなホームズを殺害させるわけですから
相手も凄いやつがいないといけない。なのでコイツはロンドンの
犯罪の半分に絡んでいる超大物!ということで大学教授のモリアティーが
誕生するとまたこれも大いに盛り上がり、結局コナン・ドイルの代表作は
シャーロック・ホームズということで生涯を閉じてしまいました。
今現在の日本でも「なろう系」ということで、ひとくくりにするなとは
言われそうですが、所謂シャーロック・ホームズが量産されている。
そういう感覚を私は感じてはいますが、それを悪いとは思ってません。
むしろ好意的にすら捉えてます。結果的には需要と供給だとおもいますから。
一方で純文学などと言われたりするジャンルがあります。
私は純文学と言われてもほとんどピンときません。
ただもし「多くの大衆が求める文学」がなろう系などの
大衆向けなのであるならば
分かる人が読むとわかる、しかし、誰しもが簡単に読めるわけではない。
その絶妙なバランスを突き詰めた、読む側と作り手の両方が試されているのが
純文学なのかもしれませんね。
庵野秀明氏がそういった、文学性を求めたのかはわかりませんが
シン・エヴァンゲリオンはそれに回答を与える作品だったというお話でした。