詩織、あなたがいてくれて、よかった。

記事
コラム
出張で訪れた街の駅に降り立ったとき、
胸の奥がふっとざわめいた。

石畳の道、店先から漂う甘い醤油の香り、
観光客のはしゃぐ声。

──この匂い、この音、この空気。
高校二年の修学旅行で過ごした日が、
波紋のように広がって私の中へ戻ってくる。

あの時の経験が、今の私の仕事の原点になっているなんて、
当時の私は夢にも思わなかった。

大変で、正直、泣きたくなるほどの出来事だったのに。
それでも今では、ただただ感謝でしかない。

あの日がなければ、
私はきっと、今の私になっていない。

高校二年の私は、教室で目立たないほうだった。
クラスの中心で笑いをとるタイプでもなく、
運動が得意でもない。

テストで上位に食い込むわけでもなく、
「私は、いてもいなくても同じかもしれない」と
心のどこかで思っていた。

修学旅行の班分けが決まった日もそうだ。

誘われたというより、
余ったピースが空いた枠にすべり込むみたいに、
なんとなくその班に入った。

笑い声の輪の内側に立っていても、
心だけが半歩外にいるような、そんな置き去り感を抱えていた。

──そして迎えた修学旅行。

観光地をいくつか回り、写真を撮って、
お土産を見て回り、歩き疲れてベンチに座ったときだった。

ふと周りを見渡すと、ひとりがいないことに気付く。

美咲。その名前が、私の喉の奥でひっかかる。

「え、どこいった?」
「さっきまで一緒にいたよね?」

笑い声が途切れ、空気が一段暗くなる。

集合時間まで、あと三十分。
焦りが胸の内側を爪でかく。

まずは連絡──。
私はスマホを取り出し、LINEで「どこ?」と送る。

スタンプも押した。電話もかけた。

でも画面に表示されるのは、無機質な「未読」。
そして「応答なし」。

「やばくない?」
「先生に怒られるよ」
「どうすんの?」

不安が形を持ちはじめると、
誰かの言葉が鋭くなる。

「だから言ったんだよ、
 美咲を班に入れるのはやめようって」

「学校でも浮いてるのに、旅行でも同じじゃん」
「ほんと、迷惑な子だよね……」

チクチクした言葉が、
私の皮膚にまで刺さってくるようだった。

胸の真ん中がじりじりと痛む。

みんなの焦りも分かる。
だけど、今それを言ってどうするの。

「こんなこと言い合ってる場合じゃないじゃん!」

思わず声が出た。
一瞬、空気が止まる。

「私、ちょっとその辺探してくる!」

誰かがため息をつき、誰かが目を逸らす。

「……勝手にすれば」
「まったく美咲は、何考えてるんだか……」
「だから私は反対だったんだよ」

冷たい声を背中で聞きながら、私は走り出した。

夕暮れの迷路を走る。

観光客のざわめき。
土産物屋の呼び込み。

夕暮れがオレンジから群青へ変わる境目で、
街は少しずつ顔を変えていく。

(なんで私ばっかり……)
心の底からふっと浮かぶ弱音を、
私は奥歯で噛みつぶす。

(だって、私が行かなかったら、誰が美咲を見つけるの?)

細い路地へ、少し広い通りへ、
もう一度細い路地へ。

足音が石畳に吸い込まれていく。

風が汗を冷やし、
心臓が喉から飛び出しそうに跳ねる。

交差点で、制服の袖が視界の端をかすめた。

振り向く。
ベンチに座る小さな背中。
肩が震えている。

「……美咲!」

名前が破裂音になって、
私の口から飛び出した。

彼女が顔を上げる。

目が真っ赤に腫れて、泣き出しそうな、
でも泣くのを我慢しているように見えた。

「ごめん……道、間違えちゃって」
「もう……勝手にいなくならないでよ。
 次はちゃんと一緒に歩こうね」

泣き笑いする私に、美咲は小さくうなずいた。

その目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

私はそっと彼女の肩に手を置いた。

責めるためじゃなく、
ただ「ここにいるよ」と伝えるために。

班に戻ると、
冷たい視線や小さなため息が待っていた。

それでも、美咲は私の隣を離れなかった。

そして、涙の跡を拭いながら、
少し照れたように笑った。

「ありがとう。詩織、あなたがいてくれて、よかった」
その一言が胸の奥で大きく響いた。

「いてもいなくても同じ」だと思っていた私に、
初めて「必要だ」と言ってくれた人がいた。

その瞬間の震えは、今も鮮明に心に残っている。

あの夜が、今の私へ続いている

今、出張で再び訪れた同じ街を、
私はビジネスバッグを持って歩いている。

角を曲がるたびに、当時の自分とすれ違う。

泣きそうな顔でベンチに座っていた美咲、
息を切らせて走る私、

責める言葉、ため息、行き過ぎた沈黙。
ぜんぶが今の私を作っている。

すべては、あの修学旅行の夕暮れから始まっている。

“この人に喜んでほしい”という気持ちは、
理屈より早く、足を前に出させる。

その一歩が、誰かの涙を笑顔に変えることがある。
そしてその笑顔が、今度は私の背中を押してくれる。

あの夜がなければ、
私は「役に立てた喜び」を知らないままだったと思う。

「ありがとう。詩織、あなたがいてくれて、よかった」
あの言葉が、何度も何度も、今の私を立たせてくれる。

出張先のホテルに戻る途中、観光案内のポスターに目が止まった。
そこに印刷された街角は、私たちが歩いた通りだった。

私は小さく、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「美咲、ありがとう」

もう連絡は取っていない。
でもあの時の彼女の声は、今も私の胸に生きている。

私が迷子になりそうな夜には、
あの言葉が私を見つけてくれる。

あの日があるから、今の私がある。

あの夕暮れに拾った小さな光は、
今も変わらず、私の進む道を照らしてくれている。
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