文化祭を目前にした演劇部。
演目は「ロミオとジュリエット」。
舞台本番まで残された時間はわずかだった。
だが、稽古場は緊張感ではなく、
重苦しい空気に包まれていた。
原因は――演出リーダーの浩平と、
主演を務める彩香の対立だった。
「ストップ!」
浩平が声を張り上げた。
「彩香、また勝手に間を伸ばしたな!セリフは台本どおりに言え!」
彩香は必死に食い下がる。
「でも、この言葉は心を込めなきゃ伝わらない!」
「気持ち?心?そんな曖昧なもので舞台は作れない!」
「違う!心がなければ、ただの朗読になる!」
部室に重い沈黙が落ちた。
火種は、確実に炎へと育っていた。
翌日も、練習は同じところで止まった。
浩平は机を叩き、声を荒らげる。
「台本を軽んじるな!何のために作られてると思ってるんだ!」
彩香は涙をこらえて叫ぶ。
「わたしは、ごまかしてなんかいない!ただ、心を届けたいだけ!」
浩平は冷笑した。
「“心を込める”って便利な言葉だな。何もできない自分をごまかせる」
彩香の顔から血の気が引いた。
さらに浩平は畳みかける。
「“届けたい”だと?
それはお前の未熟さを隠すための言い訳にしか聞こえない!」
部員たちは息をのむ。
やがて小さな声がもれた。
「浩平の言うこともわかる。舞台は完成度がすべてだ」
「でも…彩香先輩の演技を見てると、心が動くんだ!」
部室は真っ二つに割れた。
互いの視線がぶつかり、空気はさらに重くなる。
文化祭まであと数日。
彩香がわずかに遅れて稽古場に入ると、浩平が冷たく言い放った。
「やる気がないなら、降りろ!」
「やめて!」と他の部員が叫ぶ。
だがすぐに別の部員が言う。
「いや、浩平の言うことも正しい。ここで妥協はできない」
仲間同士の声がぶつかり合い、稽古は完全に止まった。
彩香は唇をかみしめ、胸が押しつぶされそうになっていた。
そのとき、顧問の先生が静かに立ち上がった。
「……いい加減にしろ」
その低い声に、部室が凍りつく。
「舞台は裁判所じゃない!」
全員の心臓が一瞬止まったように感じた。
「誰が正しいかを争う場所じゃないんだ。
観客に心を届けるために、みんなで創るものだろう。
台本は相手を打ち負かすための武器じゃない。
未来を一緒に描くための地図なんだ」
その言葉は雷のように部員たちの胸に響いた。
彩香の頬を、熱い涙が伝う。
沈黙の中、彩香は絞り出すように言った。
「わたし…勝ちたいんじゃない。
ただ、みんなで一緒に、この舞台を楽しみたかっただけなんだよ」
その声は震えていたが、まっすぐだった。
部員たちの心に波紋のように広がる。
浩平は腕を組んだまま、必死に自分を保とうとした。
「楽しむ?そんな甘い考えで舞台に立てるか!
俺は負ける舞台なんてごめんだ!」
だが、その声も次第に震えていた。
「俺は……正しさがなきゃ不安だったんだ。
正しさを手放したら、全部崩れる気がして…」
拳を握りしめ、ついに声を落とした。
「……ごめん。俺の方が、舞台を信じられてなかったのかもしれない」
文化祭当日。
幕が上がる直前、彩香が浩平を見つめた。
「信じていい?」
浩平は小さくうなずいた。
「……一緒に創ろう」
幕が上がる。
彩香の声がホールに響く。
「愛している!」
それは真っ直ぐで、震えるほどの叫びだった。
観客の心を一斉に揺さぶり、涙が頬を伝う人もいた。
舞台が終わったとき、会場には鳴り止まぬ拍手が広がった。
舞台袖で、浩平が小さく笑った。
「勝ち負けじゃなかったんだな」
彩香も涙をぬぐい、笑顔で答える。
「うん。わたしたち、一緒に創れたんだね」
部員たちも頷いた。
正しさを超えて、心がひとつになった瞬間だった。
人を動かすのは、正しさよりも心。
寄り添う一言が、未来を変えることもあるのです。