父親が不倫した女の人生と、娘の私の人生

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一応前にも記事に書いた内容をおさらい
私は地元で一番大きな医療法人(家族経営・父はマスオさん状態)の実家に生まれ、有意義な暮らしをしていたが、父親が女を作って出て行ったため、家族経営という点と、祖父の土地に親族がみんなで住んでいた30人家族だったため、「離婚なんて近所の人に顔向けができない」という理由で、
母と私は家を追い出され、一気にホームレスになった。

その話は前にもしたけれど、今日は、相手の女性の人生についてだ。
彼女は真野さん(仮名・当時22歳)
父とは銀行での職場不倫だった。

私と初めての出会いは、私が4歳頃父の社員旅行で、出会った。
子供心には、「なんて優しいお姉さん」という気持ちで、父の職場の同僚を「真野さんのお姉さん」と呼んでとてもなついた。

しかしこの時から彼女は、私を自分の子供として育てたいと、思っていたと後に聞いた。
彼女は私が幼稚園に行っている時に私の母のところ家に乗り込んできて、「絶対どんなことをしても渡さない、あの子も私が育てる」と言ったそうだ。

真野さんは、なんとしても父を私たち家族もとには返したくなかった。
そのまま離婚となり、彼女は父と同棲を始めた。

当然、親権の裁判が長引いた。
真野さんは、私を育てたい、父と3人で暮らしたいという強い思いがあり、母にその後も何度も交渉の場を設けさせた。

その時の私は、日々、周囲の大人に「誰についていくか」の選択を求められ、
5歳にしてとても苦しい毎日だった。
今までの40数年以上の人生の中で、1番苦しい選択だったと今でも思う。
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祖父が、養子にしたいといってきたこともあった。
お金の面では困らなかっただろう。

しかし私は2年間ほどずっと3人で元通り暮らしたいと毎日泣き喚いたが、
小学校に上がるころ、それは絶対に一生取り戻せない最初で最後の「別れ」だと諦めがついた。
あきらめがついたというよりは、その後一生、ついていかなかった方のことを考えながら生きていく人生になるのだと自分の定めを自覚した。

結局私は、何もかもを失ってしまった母と生きていくことを選んだ。
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小学校に上がる半年前。
母と私は、地元の中心部からは少し離れたへき地にひっそりと住み始めていた。

ある時、母と電話でどういう話をしたのかがわからないけれど、
真野さんが、一人で家にきたのだ。

私に大きなプレゼントを置いて。
開けてみるとそれは、ランドセルだった。

当時の女性の給料で、子供にランドセルをあげるのは相当経済的に大きかったのではないかと思う。
真野さんは笑顔で私にそれを渡すとすぐに帰っていき、その後「もう真野さんのお姉さんと会うことはないよ」と母がボソッと言った。
状況はわからないし、なんだか気を使うが、とても嬉しくてそのランドセルをずっと使っていた。ボロボロになるまで。
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その5年後。
いろいろあってそこはまた別の機会にまとめるが、
私には父違いの妹がいた。

妹には、親兄弟がいつもそばにいる温かい家庭で苦労なく過ごしてほしいという一心で私は母親の手伝いを一生懸命に、妹を一緒に育てたいた。

そんなとき、妹が幼稚園に行き始めたある日、母が、とても仰天した様子で妹のママ友と話していた。
なんと、妹の幼稚園の同級生は、真野さんの姪っ子だったのだ。
妹の同級生あきちゃん(仮名)のママの、お姉さんが真野さんということがわかった。

ある時、母と私は、あきちゃんの家に招待された。
そこにいたのは紛れもなく、真野さんだった。
私は、必死で、真野さんのことを覚えていない、初対面の人と接しようと演技した。
真野さんは小さな声で「さすがに、覚えてないか・・・」と寂しそうな表情で言っていたが、私は母に気を使っていたのか、何に気を使っていたのか自分でもわからなかったが、だけど11歳の私は、それが一番誰にとっても平和なことだろうと結論付けた。正直、演技をしていても真野さんの眼差しが私にとてもやさしくて時々目が潤んでいたのがつらかった。今でも目に焼き付いている。

しかしそのうち妹が幼稚園を卒業すると、あきちゃんともなんとなく疎遠になり、ましては真野さんに会うことはそれ以降なかった・・・。

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私が1回目の結婚の前夜。
育ての父と、母が私に、「話がある」と言った。妹がいない時間帯に。
その日の料理はとてつもなく豪勢な母の料理だった。

内容は、
・お父さんは本当のお父さんではない、本当のパパは別にいる
・パパが不倫して出ていったあの、真野さんは、その後すぐにパパと別れ、パパは別の人と再婚した
・真野さんは、パパと別れた後、「私のせいでマキちゃん(私)の家族を奪ってしまったことで、マキちゃんの人生を変えてしまった。。。ずっと後悔している」と、私の母泣きながら何度も謝罪をしてきたという。
恐らくその初回がランドセルの件の日で、妹の件で会った時もその話をしていたという。
それ以降も毎年年賀状で、「マキちゃんは元気ですか?」とずっと気にかけて、結婚もせずに私のことを気にかけ続けてきた人生だったとのことだった。
真野さんはとてもいい人だった。
母も、真野さんの人柄と、それはそれで真野さんなりに若いころから苦労してきたということを不憫に思い、真野さんを許すことができていた。
・そして、私が結婚した後、「おめでとうというのと同時に、やっと安心した・・・」と母に電話をしてきて、真野さんはその後ようやく、自分も結婚したそうだ。
恐らく50代の結婚だろう。

真野さんは、もしあの銀行に勤めていなかったら、普通の会社員として普通の結婚をして子供もいたかもしれない。
父に出会ってなかったら、私と出会うこともなく、そんなに十字架を背負うような人生を送らなかったかもしれない。

私は大人になって、恋愛して結婚して、今、真野さんに言いたい。
あなたの、そのやさしさ、責任感、すべて私にだけは伝わって、一人の女性に育った。母親ではない形で、「女性」として生きることを考えさせられた。
とても大切な人で、
私は今、真野さんの分まで女性として活躍したいという気持ちで人生を歩んでいる。

生まれ変わったら、もっと安らかな関係性で、素直に気持ちをぶつけあえる関係で、また、、、会いたい女性だ。

真野さん、現在、72歳のはずだ・・・。









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