昨日の晩、屠殺キャンプに行った上の娘から電話が来ました。
解剖手順がとてもうまくて、大変褒められたとのこと。
そして、本格的な屠殺を体験しにおいでと、プロの方にスカウトされたのだそうです。
宿命は嘘をつかない....とある意味で感心したけど、ちょっとまって。
それだけが目的じゃない。
命の意味、屠殺の意味を本当にわかっているのかのほうが大事。
このキャンプは、50名近くの参加者が6名グループに一羽与えられ、誰かが鶏をしめる(殺す)という体験をする。電話で聞いたら、本番になったら、全員が尻込みしたので、自分がやった....と娘。
鳥にとって、逆さに吊るされたままでいることも苦しいままだから、私がやった。って、言ってました。
なんとなく、興奮気味でした。
自分の中でもひとりでは消化しきれない体験で、多分、それで電話してきたのだと思います。
「あなたは、今日、生き物の命を意図を持って奪ったことになる。それ、わかるね。」と私。
「うん....、血が滴っていくのを見て、命の光が消えてくのを感じた。」
「直接手を下して、鳥を殺したのは初めてだと思うとおもうけど、これは実は初めてじゃないことなんだよ。」
「だってね、私たちはこれまで数え切れないくらいお肉を食べてきた。牛も馬も、豚も鶏も。羊も。加工された状態で来るから、私たちは気がつかないけれど、それらは、誰かが私たちの代わりに、こうして手を下して食べ物に変えている。それがいけないとかいいとかいう話ではないんだけど。」
「私たちは、食べ物を得るために、毎日毎日、命を奪うことを誰かに背負わせている。そして、命をいただいて、生きている。」
「他の動物を殺しながら、一方で自分のペットが死にそうになったら、可哀想、手術をして助けたいと思う。結局、ひとは、自分の都合だけで自分以外の命を利用している。そういう矛盾の中に、常に私たちはたたされて生きているってこと。だから、そこから目を背けてはいけない。できる限り、そのなかにあっても、より良い選択行動をしていく必要がある。」
「....うん。わかってる。屠殺の先生もそういってた。」と娘の落ち着いた声。
「今回の鳥もただ命を失うだけじゃなくて、あなたが視点の広がりを持ってくれたら、その命に意味が出てくる。鶏だけじゃない、私たち全ては命の循環のなかに置かれているの。」
「どんな生き物の命も尊いもの。命を捧げてくれたものへの感謝を忘れないために、私たち、日本人は、いただきます。というんだよ。」
「ついでに言えば、アメリカ人も中国人も、食べ物を平気で大量に残すし、食べ物をおもちゃのように扱う。食べ方も汚い人が多い。それは、生き物の殺生について、なんとも思ってないから。仏教の世界観がないからなんだよね。」
「SDGsとか今さら、ってお母さん思うけど、そもそも彼らには命の循環の思想がないからなんだよね。日本人の価値観のベースにあるのは仏道だから。動物の命も、人の命も、全部大切。友達だって同じ。どんな人間にも、心をこめて育てようとした人がいる。そういうものがつながりあって、世界ができている。無駄にしていい命、殺していい命はないんだってこと。この世界は、みんなで生きている。そのこと、わかった?」
「うん。わかった。今回、とてもよくわかった。」
答える娘の声の調子に深みが加わったのを感じた。
レジャーとして屠殺体験を楽しむワークショップはさすがに違うと思うが、子供が命ということをあらためて考えるために現場を見る、体験するということは大切なことだとおもう。
そしてそれをちゃんと意味のあるものにするためには、よくよく、自分の心と対話する時間を設けるものでなくてはならないと思う。
開催前から保護者からの反対の声や批判が飛んだこのキャンプだったが、日頃、物も人も合理的に扱う面が気になっていた娘に、生き物への敬意が育ってくれたら、参加する意味があったと思う。
一方、はんなり、まったり系生日中殺の娘。
夏休みの宿題を終えたので、なにやったらいい?と聞いてくる下の娘。
「じゃあ、2年のドリルをやりなさいよ」
「ええ〜去年の?」と不服そう。
「お母さん、あのね、うちの学校でとっても賢い子がいてね、その子にうちでなにをやってるのって聞いたら、もう4年のドリルを解いているんだって。」と娘がいう。
私は、本質を伴わない世の中の流れに乗らない方なので、こういった。
「先取りすれば、誰だって、優秀に見えるよ。だって、学校で習うことはすでに知っていることだから、楽だしね。人よりわかっていると錯覚する。」
「でも、学習で大事なのは、ひとより先に知ることじゃないよ、ようちゃん。学んだことをどれだけ定着させて、自分の使える知識に変えられているかってことなの。」
「学校の試験でうまくやれたとしても、社会でその学びをつかうことがなかったら、学んだ意味なんて全くないの。うちは、だから先取り学習はしないの。それより、やったことがちゃんとできてるか、のほうを何度も見るの。
お母さんもお父さんも、何点取ったかって、別に気にしないじゃん。
テストのおかげで、気づいてない理解できてなかったところがはっきりしてよかったね。って、いうだけじゃん。」
4月生まれの子と3月生まれの子では発達が違う。
また認知機能も、IQも成長スピードはバラバラだ。
そんな中で優等であることにどんな意味があるのか、正直わからない。
人生は総合力なので、未成年者が同学年と競争して一番、二番になることには全く意味がなくて、むしろやりたいことがあって、大人になった時にそれまで学んだことを駆使して、自分の思い通りの人生を送れるような、活用できる知恵や判断力がついた方が得だ。そのために学校に通わせている。
そんな思いを強化させるようなニュースも見た。
先日、TOEICで中国人カンニング・グループが摘発されたという。小さなマイクロ・マイクやイヤフォンで、八百人ちかくのひとが不正をしていた。
カンニング・ビジネスがある。彼らは実力ではなくて、成績の履歴だけがほしかった。形だけがあれば、有利になると考えた。
現場に立たされて、英語が使えなかった時、信用を落とす、恥ずかしい、とか、任された責任を果たせず、チームに迷惑をかけるという発想は、そこにはなかった。
学校の成績表とテストの点数の結果だけを追う学習は、本質的には中国人と変わらない。またそういうことを重視するママたちと私は真っ向から合わない。私は気持ち悪いとすら感じている。
中国人・韓国人は、東大・京大をめざす。そして、博士号を取ろうとする。それは東大でやりたいことがあるからではなくて、東大の肩書きが自分の人生の優位性を約束してくれると思うからだ。そのような試験では、当然だが人間性が低くても、よほどコミュニケーションがおかしくない限りは、関係ない。
そこに反発する形で、娘たちの子育ては、日本人の子供として、教育は実が伴うことを大事にする日本人スタイルを大事にしたいとますます思った。
とは言え、受験競争の世界の中で育ってきたので、こういう考えに本質的に気がついたのは、大人になってだいぶ経ってからのことだ。
でも、大人になって、世の中に出ると、賢い人とそうでない人というのは、あきらかになってくる。それは成績表ではない。
多分、社会人でものを考える人なら多くの人が同意してくれるだろう。
私の思う、賢さというのは、風が吹けば桶屋が儲かるということわざでいえば、そのプロセスがちゃんと見えている人だ。(結果を当てる人ではない。)
コロナ騒ぎが起こった時、私は周りに言った。これは軍事的な計画であると。
免疫の仕組みをちゃんと知っていれば、それほど恐れなくてもいいことがわかるし、それを確信できる下地となるような勉強も過去していた。そして、世の中の流行とは違う見方をしている医師の意見も軍事コンサルタントの話も含め、ちゃんとしたソースの出どころも含めて、小さい子供たちのいるご家庭に紹介した。
「いや、韓国ではこうしている。」
「偉い人はこう言っている。」
「テレビではそんなことを言っていない。」
そんなことで、スルーされた。
その時、多くの人が、それを理解することがなかった。
そして世の中の流れが、コロナワクチンを打つことが正解というような流れになっていった時、そういうひとたちは「ほら!」と言わんばかりだった。
私が流言にまどわされたと、いうことになってしまった。
でも、現状、今、多くの副作用の問題が出ている。血栓による突然死が多い。
それまでだったら、決して死とは縁遠い若い世代の亡くなる人の数がすさまじい。これは一例でしかないけど、多くの人は、つねに結論しか見てない。
これは日本が世界大戦に直面した時代も、全く同じだった。
なぜそうなっていくのか、というプロセスの方を見ない。
情報をしっかり集めようとしない。それを解析する土台になる多彩な領域への知識を得ることへの関心が日頃薄い。本を読まない。
めんどくさいので、思考する人のプロセスを追おうとしない。
だから、だれか偉い人、権威のだした結論に従う。
論理思考をトレーニングされてこなかった日本人は特にそう。
「桶屋が儲かる」ときいて、そんなバカな!と鼻でせせらわらう。陰謀論と鼻から相手にしない。しかし、日頃からさまざまなことにアンテナをめぐらし、他人の問題、社会問題に目を向けてきた人だけは、「ああ、そういうことか。」とプロセスの一つ一つがあり得ない話ではないことに気がつく。
そこで、「桶屋は確かに儲かる」という結論が出せる。
でも多くの人は、そのプロセスを熟慮・検証することをしない。
それは教育洗脳のせいだといってもいい。
結果さえだせばいい、点数だけとれればいい、そういう学習スタイルを戦後日本はずっと推し進められてきたからだ。
本当に頭の良い人というのは、結果だけでなくて、プロセスの方をきちんと見られる人のこと。学者というのはその最たる物で、膨大な文献と研究と実際の現場といった蓄積があるから、そのプロセスに間違いがあれば、違和感をもって、何が違うのかを論理的に説明することができる。
AIでぽん、と結果がでて、一応の帳尻があう世界になったら、余計にひとはプロセスを検証することをやめてしまうだろう。
AIを信じて生きるだろう。
でも、本当に賢い人は、AIが作り出した擬似世界の嘘を見抜ける人。
例えば、日本の着物姿のイラストをAIに出してもらった時、着物にこんな柄はない、とか、こんな丈の短い着方はしない、とか、襟がおかしいとか、ちょっとしたことに気がつける人だと思う。
気付けなくても、日本人に詳しい友人がいて、電話いっぽんかけて、これちょっとどう?仕事で使うんだけど、違和感あったら教えて?といえる人間関係があるかどうか。
私の京都の、時代衣装の考証をする友人は、パッと写真を見て、「これは、ちょっとちがいますね。」とすぐに言ってくる。
それらしき物、としてやるのならいいけど、博物館でやるにはふさわしくないですね、とちゃんと言えるだけの膨大な知識を持っているし、研究を重ねている。
理系でもそうだと思う。
前に、さかなクンのドキュメンタリーがやってて、さかなくんは旅行会社のだしてきた、「熱帯魚がみれる!」というパンフレットを見て、急いで旅行会社に印刷にストップかける電話をかけた。「あの、この地域で、このお魚は絶対にみれません。この海域に生息することは不可能なので…」
さかなくんは、本当にすごいと思った。
「魚好きのツアーとして、この魚を見たくてこのツアーに参加してくる人がいたら、大変ですから。」と彼はこたえていた。
南国で遊べれば、どうでもいいじゃん、と普通の人は思うかもしれない。
でもこういうことを言えるひとがいる、っていうことが、実は国家レベルでみると、その国の知のポテンシャルを示しているんだと思う。
学歴や検定試験の結果だけ帳尻を合わせようとする国からは、オリジナルなものは育っていくことはない。あたらしいものを生み出せるだけの知性の土台が国にないからだ。
私ですら、仏教の大学に通う同世代の中国人学生に、精神性の上では絶対に負けない自信がある。とにかく、フレンドリーで合理的で、個人的に友達としては面白いと思うが、国が取られるとなると話は別だ。総合で見ると、彼らは浅い。率直に言って申し訳ないけど、見ている次元が日本人とは違いすぎる。
日本には、そもそも膨大な知の土台がある。良識がある。過去からつながってきた、知性と品性がある。世界と調和する人としての生き方がある。
だいたい、他の国は、歴史的に見ても、周りから奪うことしかない。
知性の土台がないために、自分で生み出せないから、他国の資源を奪い、他国を支配し、壊し、使い捨てにする。作り出すことができるのは、相手を屈服させるための戦争の兵器だけ。
戦後、人格力を磨かず、本当の意味での知性の土台があるわけでなくて、単に要領の良さと親や家系の手助けだけであがってきた人たちが、日本のトップについたから、日本はこんなに劣化してしまったのだと、個人的に私は思う。
そして、そういうひとたちは、中国の、他人のやりかたを奪ってでも結果だけあってればいい、という超合理主義や、見える形のインパクトのほうを大事にする方針と、とっても馴染みが良いのだと思う。
日本人は、蓄積の民族だと私は思う。
コツコツコツコツやるべきことを真面目にやり、スポットライトが当たるか当たらないかは関係なく、心を磨き、自分の道を極めるために、丁寧に生きてきた民族だと思う。国土が広いせいにして個人主義に走るのではなく、古くからの日本人は、総じて多くの庶民が自分の行動が周り巡ってどうなっていくか、全体の利益までも考えて動いた。
私が賢さの指標にするような、桶屋が儲かることがわかるプロセス理解できる人間が出来上がるまでには、一次情報をどれだけもっているかが、なによりも大事になる。そういう人間を子供時代から作らなくてはならない。
鵜呑みにせず、徹底的に現場で体験し、事実を確かめる。(海外ではクリティカル・シンキングというのかもしれない。)リアルな経験を土台にした思考作りだ。
いま、理科の実験ですら動画で教育が行われるようになり、アニメーションでAI先生が人を教えるようになったら、子供達に同時に刷り込んでいる反応生は、学科だけではない。AI先生は正しい。間違えない。という洗脳だ。
人の言うこと、動画の言うことを鵜呑みにする子供たちが出来上がる。
国家権力にとって、これほど容易く操作できる国民はいない。
こんなことを教育のベースに据えたら、将来、AIの嘘がすぐにみぬけて、プロセスを追うことができるような知性のある人間には絶対ならない。
小学生にITは、正直ほとんどいらない。
基礎学力がある大人ならまだしも、AI先生からスタートした子供たちは、動画加工も音声加工も、ニュースも改変できる世の中にだまされて、システムに飼われて終わるのだ。
これまで下の子供は、算数が嫌いで、逆に右脳的なことや芸術的なことが好きなので、徹底的にアート的なもの「生」「本物のプロの動き」を親の手間暇かけても、見せることに尽力してきた。上の子供の興味の範囲は広いので、それ以上の領域の一次情報に触れさせてきた。魚苦手だけど、魚の飼育を許可したのも、リアルな生き物の生態を観察してほしいからだ。
で、今どうなっているかというと、昨日、バレエと日本フィルのコンサートのコラボを見てきた娘は、朝からうちにある日本フィルのクラシックCDをかけながら、
「やっぱり、これが最高なんだよね〜。フィル〜」
と、なんとなくバレエのリズムをとりながら、この午前中を過ごしている。
多分、自然にそれがやれてしまう8歳は、珍しいに違いない。
玉石混交の世の中で、なにを子供に与えるのか、どんなふうに情報を受け取り、解釈していくのか、伝えていくのは、親の判断次第でもある。
それが尚更、際立ってきた。
これまでは日本に住んでいれば、だれでも日本人であると信じることができた。でも、もう違う。
なにをもって、私は、中国人、韓国人、クルド人ではない。日本人だ、といえるのか、血だけでは証明できない。家庭レベルで、アインデンティティをはっきり打ち立てなければ、日本人はもはや存在できない。
ふわふわスピリチュアルでは、最近「人種も関係なく、国境のない世界ができるよ〜5次元世界の到来」と高次元世界のことを伝えている人もいるが、それこそ、陰謀じゃないかと私などは思ってしまう。ふわふわスピリチュアル、いよいよ、やばいんじゃないか、と。
国境のない世界が本当に素晴らしいとおもうなら、それは幻想だと私は思う。国境があるから、差異を面白く思える。国境があるから、種が全滅しなくて済む。差異から新たなものを生み出していくことができる。それぞれの国の文化の尊重ということをわきまえることができる。
陰陽があることを認識しながら、陰陽を消そうとしない。そういうのが大事。
陰陽が悪いわけじゃなくて、陰陽をかえって、お互いの活性化、促進力に変えていく。人の自然な本能を生かしながら全体の調和や平和をつくりだせるようにしていく、密教はそんな考えがベースにある。
夏休みも夏期講習に行かせるご家庭が多い中、うちは、ただいろんなところに行って、いろんな人に会って、いろんな行事を見に行って、いろんな体験をさせている。ぴかちゅうは、それがなによりも最先端だと言っている。
でもこうしたベースが力を発揮するのは、子供が成長して27、8歳になった頃だ。ここから、大人の知性の差が大きくついてくる。
そういう気長な教育だ。
いま出る結果じゃないけど、それを私は確信している。
そして、プロセスそのものを楽しめる、楽しい学習だと思ってる。
先日、同級生のお寺の僧侶のご家庭の方に
「たまちゃんには本当に仰天させられた。自分の人生計画がこれだけはっきりたっていて、計画通り着実に進めている、という自信にあふれた小学4年生に会ったのは初めてだった」
とおっしゃっていた。個性が際立つひとになったようだ。
そして、この間、学童のバスの人にも言われた。
「ようちゃんのオシャレ意識の高さには、まいりました。トータルコーディネートがバッチリで。いつもいつも。私がファッションセンス勉強になります。w」
「親は全然外見構わないことが多いんですけど、なんかね〜あの子は登校するだけなのに、意識高いんですよ〜w」と照れて答えながらも、嬉しく思った。
うちが特別なわけじゃなくて、管理監視押さえつけをやめて、好きなことを伸ばすことで、日本の子供達はどんどん伸びていく。
日本の子供たちのポテンシャルが発揮されるところは、なんといってもクリエイティビティと物事に向き合う真摯な姿勢と素直さだ。
20年後、日本を消します、6000万人中国から送り込み、日本を消滅させます、ということを平気でいう国のひとたちに囲まれながら、これからこの日本で日本の子供達をどう育てていくか。
確実にわかっていることは、中国人とはまったく違う子育てをしなくてはならない、ということだろう。
日本人として生き抜いていけるかどうか、ということが瀬戸際に来ている今、日本人同士が周りと争っている場合ではない。
今年、本気で日本人が立ち上がり、この国を守るために団結しなければ、本当にこの国はなくなってしまう。もう幻想から覚める時がきている。
(あと一つの方法は、国の運勢を劇的に変えるために、国が傾く前に、一刻も早くこの国の象徴をすげかえることだ。)
自分の利益以上に、視野を大きく広げて、過去の叡智と繋がろう。
日本人であることに立ち返ろう。