ハイブリッドな日本人親になっていこう。

記事
学び
爽やかな風が心地よい、おだやかな毎日がつづいていますね。

最近、有料ブログ記事のアップばかりで、がっかりしている方がいたら、すみません。
いや、別にがっつり儲けを狙って、というわけではなくって、実際は今、ものすごい量の情報を受け取っているため、とにかく筆記していかないと間に合わないからなんです。
 カジュアルに内容を文章化するにあたっても、できるだけ難易度を下げて、内容を一般化しようと努力はしてるんですけど、難しいんですよ。(^^;

どう伝えよう〜〜
この感覚世界はつたわるかなぁ〜と迷っては、宇宙通信途切れ、アップせずに終わる記事も散乱してます。それで苦肉の策が有料ブログで、わりと質を下げずにそのままで公開すること。

最近、とにかく情報がむちゃくちゃ、早いです。
受信したエネルギーがすぐに流れていってしまい、そのとき受け取った内容が時間がたつともう再現できないんで、次から次へと、すぐ形にしていかないと追いつかないくらいです。

 そして有料化フィルターしてるのは、もうひとつ理由があって、算命学に興味があるだけの一見さんにこのまま記事を出しても、普通の人からすると意味不明過ぎてドン引きされるのがオチだろうね...って思うから、ってのもあります。だいたい難易度高い内容で全部公開してると、クライエントさんたちも、こちらの人物像において、整合性が取れなくなるだろうしね....w
 したがってある程度、このブログよんで「あ、イケる。このくらいのレベル感なら、全然大丈夫。もっと知りたい〜!」とおもってくれてる人への選択肢としてアップしたほうが、かえって私もほっとできるんですよね。

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 というわけで、有料ブログについては、内容がスピリチュアルよりでも、多少(だいぶだねw)濃くて深くても受け取れる土壌があるひとにだけ読んでいただいたほうが良いだろうという意図で、フィルタリングをかけさせていただいているんですよ。

それに率直に言って、スピリチュアルや算命学も実際、世界が狭いですんで、本音で書くと利害もどこかで発生しますやん。w
そういうのも配慮してってこともありますので、だれでもかれでもお話できるというわけにも行かなくて...これがまぁ、難しいところなんですよ。

  ココナラの有料設定は500円単位でしか変えられないんで、何段階かに内容レベルを調整すると手頃な価格ではないかもしれません。
 しかし、有料セミナーを受けに行ったと思える値段くらいの設定だと考えれば、ただのおしゃべり講演会ではなく、ちゃんとコンテンツはあるので、結構許せる値段かもしれないと思うんですよね。
で、そのくらいにさせていただいてます。

 ただ2000円を超えてくる有料記事だと、多分薄く伸ばせばキンドルの本一冊分くらいのクオリティがありますので、ついていけない人がほとんどではないかと思われます。くれぐれも購入のミスマッチには、お気をつけて!


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さて、今日の表題ですが、明らかに日本の学校の対応とIBのインターナショナル・スクールの保護者への対応が違ったと思った事についてシェアしますね。

 先月のことです。私は波動の調子が良くなくて、現実面のガタガタに加え、新しい学校になっても、どうしても馴染めないでいたんですよ。
 インターとは言えど日本人親が多いので、古株の保護者との間で、抱えるストレスがあんまり変わらないな、と気づいた途端、早速、無性に嫌気が差し、だんだん自分の気持の中で折り合いがつけられなくなっていったんですよね。
 そしてその不穏なムードを察した担任の先生が心配し、一度校長に相談することを勧めてくれたんですよ。

校長は、フランクに何でも話してほしいという人なので、「喜んで!」と笑顔で迎えてくれて、すぐに時間調整して話をカジュアルに聞いてくれました。
(説得上手、ディベート上手なので、石門星や貫索星をどこかに絶対もってるなぁ〜と思える校長です。改革的なので龍高星も持っているでしょう。)

そこで私は校長に、自分の耐え難い思いを伝え、日本のママ友の交流の仕方は、自分は非常に苦手で大嫌いで、不快なんです、というお話をしたんです。

「私は東京で味わったあの関係をまた繰り返すために京都にきたんじゃないです。日本の教育機関はこういう場合、そろいもそろって仲間なんですから、目をつぶって、みんなで協力し合ってください。っていいます。
.....でも、私は日本で聞く一般的なそういう言葉が聞きたくて、いま校長に話すんじゃないんですよ、だから、正直話すのも勇気がいる状態でここに座ってます。」
って伝えたんですよね。


ことの発端は、こうで。
学校は、予算が限られているので、家庭で不必要になったものでまだつかえるもの、かつ学校の役に立つものなどを寄付して再利用しようという制度があるんですよね。で、夏のお弁当を冷やすために、先日クラスに冷蔵庫を寄付された保護者がいたんですよ。

 その方は保護者のつながる少人数しかいない仲良しグループみたいな感じのLINEのなかで、
「私、冷蔵庫を寄付したんで、うちだけじゃなく、みなさんも使ってもいいですよ」といい、私は、正直、その言い方に違和感を覚えながらも、「あ、そうなんだね、たまたま、いらない冷蔵庫があったんだな」
と思ったくらいの認識だったんですよ。

 そしたら、そのメッセージをみて、ある保護者が、「皆さん、〜〜さんがせっかく寄付してくれて、悪いですから、分割してこの冷蔵庫代払いましょうよ!私も払うので、ね、皆さんどうですか?」って、言い出したという......。

はぁ?

こういうのが、こういう関係性が、私は、まさに、日本人の中で一番だいっきらいなコミュニケーションで。
 この流れでいうと、寄付をした保護者に対してみんなにカネを払わせるという同調圧力の言葉になるわけですよ。それって。

こういうのが、も〜ほんとに嫌い。

寄付って、寄附者が負担感を抱えてするものじゃないでしょ。もともと。
負担がないからこそ、こっちも気楽に受け取れるし。

 もともと「あのひともやったから、自分も、って言うのやめてくださいね」とか、「そのためにわざわざ買わないでくださいね。」
って学校側も言ってるので、寄付もやりようだなぁって思ってて、

寄付してみんなに使ってもらって再利用してもらった方がむしろいいっていうようなものを、寄付の基準として考えたほうがいいんじゃないかなぁ、と私は思ってたんですよね。

 寄付品が高額なものだったら、それが保護者ならばできれば、名前を伏せる気遣いもほしいとも思う。

例えば、本を図書館に100冊購入して、寄付した人がいたら、それはそれでありがたいことだけど、人間関係にヒエラルキーが生まれる可能性がある。その中で、全員が対等にやり取りできるのかなぁ?とも思うから。

ミスター・トランプから、図書館に100冊寄付していただきました、となったら、日本人ならそれこそ保護者のひとりトランプさんに悪くて気を使う。大富豪のトランプさんに強くものが言えなくなってくると思う。どっかの過疎地の村みたいに、そういうのが教育の世界で生まれること自体が嫌だな、と思う。

 だから、冷蔵庫を寄付したってわざわざ伝えてくる方も、また仲が良いからだとしても、その方へお金を払いましょうって促すのも、なんかちょっといやな感じだなぁと。それは、自分が昔通っていたキリスト教の寄付の考え方があるからかもしれない。

だから、その寄付を促す言葉をおくってきた一人のママにたいして、率直に言って、「みなさんもどうですかじゃないよ、お前がそう思ったんならお前だけがやれよ。キモチワル」って、正直思ったんですよ。

 もちろん冷蔵庫代はらえないわけじゃなく、むしろ中古で冷蔵庫買って寄付してもいいなぁ、と自分が思ったりしたこともあり、(でもそれはパワーバランス的にはちょっと良くないなぁ、とも思って実行しなかっただけだった)冷蔵庫を頂いたことは、文句はない。たまたまそれを気軽にやれるひとがそれをやった、ということだと思った。

 だけどこの状況で冷蔵庫代を私は払いたい、というその保護者に対して、「またかよ、日本人は」と大きな嫌悪感を覚えた。
自分が本当に寄付した人に悪いから払らわないではいられないと思ったら、その人だけがこっそりあとで、その保護者にお金を渡せばいいと思うんですよ。
自分ならLINEでだれかを巻き込まずに、むしろみんなに言わないでそうすると思います。
もしくはなんかお礼の気持で、その保護者にひっそりなにかプレゼント渡すと思います。

なのに、
「みなさんも、どうですか?」ってなに?
この際、あなたの決断にみんなの決断は関係ないですよね。
なんで巻き込むの?

って私は思ったんですよ。
選択のさせ方が、あつかましいなぁって、苦々しい気持ちになった。

 それにここで、大方の保護者がそうしましょうよ、お世話になったし!
っていったとしたら、
 もしそのなかでこの意見に不本意だったり、もしくは今月はきつきつだなぁとか経済的に大変な状況があるひとがいるとしたら、この雰囲気の中でなかなか断れないじゃないですか。

 恥をかくのをおそれるかもしれない。仲間への思いやりがないようにうけとられてしまうかもしれない。日本人コミュニティのなかでは、すくなくとも嘘でもいいからそれらしい言い訳をしないと断れないと思う。

 だから、そういう流れを作るコミュニケーションは、相手の選択の自由を奪ってるのと同じこと。
私は、日本人のそういうところが本当にだいっきらいなんです。
 善意を押しつけながら支配するとこね。

まさに下の子の幼児園のときもそうでした。
 みんなで高価なTシャツをつくるのを、団結をあらわすんだから当たり前とばかりに、一部の保護者が全員に強制かけ、それを良い心でやっているんだから、と園も応援しました。

 日本の文化の中で「みんなでいいことをやりましょう」を断ったら、ほとんどの人がそのひとを個人主義、変わった人、と、悪く思います。
 または協調性のない人だとおもわれるか、貧乏でかわいそうと思われるか。

 こうしてわざわざ断りづらいムードをつくっておきながら、意図的な結果へ個人の選択を迫る組織票的な、卑怯なコミュニケーションが私は大嫌いです。

要は、自分は人間関係の政治が大嫌いです。
 全員が正々堂々と個人がフラットに判断できるように、人間関係の中で選択の自由をちゃんと保証しろ、と思うタイプなんですよ。
それで、その場で即LINEから脱退させていただいた。
理由なんて告げずに、連絡を断ち切った。多分、今後連絡会っても、返信もしないでしょう。

群れるのはやっぱり性に合わない!!
集団に、個人の選択権を支配されたくない!!

「....というわけで、せっかくご紹介くださって、保護者グループとつないでいただいたのにすみませんが、同じ学年の保護者たちのグループには参加しません。今後は学校とのやり取りを直接にしますので、連絡は直接ください。」
って、幼児園や公立学校でも言ってきた同じセリフを校長先生に伝えたんですよ。

そしたら、意外なことに、校長先生は、あっさり、こういったんです。

「うん。別にそういう選択でいいよ。だってそれは自由だからね。基本的にLINEは集団コミュニケーションには向かない媒体だし、僕はLINEには反対の立場だしね。それに誰が言ったかとかそういうのは、ここで興味はないから、聞くつもりはないんだけど、これについての個人的な僕の考えを、ちょっと聞いてくれる?」
と話し始めたんですよ。

「まぁ、寄付したものにお金を出そうって、いうのは、そもそも理屈的におかしいと思う。それじゃ全然寄付にならないでしょ〜。そしてそれまではこの学校で、そういうことは発生したことがなかったんだよね。だから正直、おどろいてるんだよね。」
とこっちの理屈は肯定しながらも、

「でも僕だったら、だけど、その場にいて、払いませんかって言われたら、払いません。って答えるだろうな。だって、そういうの、おかしいでしょ。そう思うから、払いません。って。ちゃんと伝えて、それであとはなにをいわれても説得されても、スルーしちゃうだけだけどな。」

「日本人ってどうしてそういうのができないんだろうなぁ、アハハ。先々のリスクを考えてかもしれないけど、実際そんなの関係ないんだよ。もともとそういうのが認められない人間関係は必要ないし。そして、僕ならその後、忘れちゃうだけだけどね〜。w」
って、あっさりと言われたんですよ。


一瞬、ぽかんとしてしまいました。
大人なんですから、みんな仲良くやってください、ってまた、説得されるのかなぁと思ってたからです。


ああ、そうか〜〜!!!いいんだ!この選択で。とも思いました。
ノーを言って、あとは知らん顔のガンジーになる。この考えは日本人としては全く思いつかなかったので、超びっくりしたんですよね。

そして、日本の教育機関でいういつもの定型文をこの先生が一言も言わなかったのも、超、心救われました!!

やなもんは、付き合わなくても、別にいいんだよ。
個人の事情を優先してくれて問題ないから。

って言ってくれたから。

そして、「払いません」って言ったら集団と揉めることを想定して、瞬間思考が硬直した自分のことも振り返ってみると、たしかに校長の言うとおりだなぁと思いましたね。

そこでなんで(日本人的な価値観でいうと)厚かましくなれなかったのかな。って。

「だって、どう思われてもいいじゃん。ひとは関係ないよ。」
と先生は、無邪気に笑って言いました。

「.......。」
(そのとおりだ。なんにも言えないわ。アンタにゃ敵わないわ。)

 そして仕事柄ですが、ひそかに「自分の意識の中の貫索星が弱すぎるんだよなぁ。なんとかせねば。」と思いました。
 日本の貫索星は、海外の貫索星に比べて、意志力の基準が甘いのかもしれません。海外の貫索星なら、よりマイペースに困難があったとしても、意思を固めて、信念に従って突き進んでゆくのでしょう。

 もともと日本人って、あまりにも人間関係を重視しすぎるんですよね。(でもそのわりに肝心なところで、人を大事にできてなかったりする。)

 そして、日本人ってできるだけ角がたたないように、今後の社会生活で仕返しされたり、恨まれないように、やたら気遣いするけど、人間関係において、海外のひとはそんなことは気遣いしすぎないし、必要以上にかんがえないです。必要以上に、察するとか、裏を読まないんですよね。

 でも相手への思いやりがないわけじゃなくて、困ってるよって発したり、もし自分の近くに困った人がいたら自分から働きかけて言って、みんな親切に手を差し伸べてくれる。隣人を愛せよ、聖書の言葉のごとくですね。


 実際、日本人が海外旅行行ったら、はなしかけられたことがある人はたくさんいると思う。彼らは旅人を手助けしようとして、リラックスさせようとして、話しかけてくれるんだよね。日本人が同じように外国人に話しかけてるかというと、いないかもしれない。
(ちなみに京都にいる外国人たちは、仲良くなって話をすると、東京に比べて、京都では話しかけてくれる日本人がほんとにいなくてさびしいって言ってました。ただ、それは心がないというよりも、京都では外国人が「景色」の一部になってしまっているからだとも思います。)

そう、やっぱり、日本人って、気遣うところがなんだか変なんですよねぇ。ノーをさわやかに受け止める精神があれば、人間関係腐らないですむのに。
自分はまだその境地にはいたっていなかった。


 今学校で子どもたちが教わっているように、英語圏の人は、基本的に親子の関係性であっても上司であっても、相手にノーを譲りません。譲らないことが大事だと教えます。そして、相手のノーも気軽に受け入れるんです。
 これが当たり前だから、複雑な問題が起きないし、人間関係ストレスは日本よりもおだやかなんですよ。

 もっとも今回の件では、自分は古株のママ友の集団力や反感を考えて、ノーを率直に相手に伝えてない。
 人間関係の中で今後、向かい風になる相手のことを面倒だと思って、これ以上の悪化をさけて、付き合わないという選択を取った。
 たしかに、どっちもどっちなんだよね。w
 信用しあえない人間関係しか作れなかった。(というか、もうそこは、一旦心底相手が嫌いとなったら、絶対にもう相手を受け入れられない調舒星の星が邪魔してると思う。)
コミュニケーションとしては、それって非常に未熟なままなんですよね。

 だから、校長の言う通り、そっか、スルーして、その後まったく気にしないでいられなかった自分のこころもちも問題だったよね。
と、そこで気がついたんですよ。

そして、この校長自体が、たしかに超マイペースに生きているんですわ。
そして、よくやれるなぁって感心するほど、自分の信念を押し通していく。

多様性のある国際社会を生きる上で、日本人にとって大事なことは、やっぱり、ノーを言えること、そしてノーと言われても傷つかないこころをつくることなんですね。

ノーを言っても争わないメンタリティというべきか。

 ノーが言えなくて、いっぱい傷ついてきたから、記憶と連動して、そういうふうに人間関係への反応性が出来上がっているだけなんだ、ってことに、校長のパーセプションに触れて気がつくことができました。
 センシティブな保護者の自分を受け止めるのだって、ストレスにならない訳がないのに、そんな校長の器に、心のなかで感謝です。

 これまで私が、ノーと言ったとき、つまり、納得いきません、と言ったことに対して、さらに何度も説得してきて、調和の名のもとに、従わせようとしてきた、日本人の保護者たち、教師たち、そして村八分で応酬する、日本の保護者土壌の歪み。思い返せば、いっぱい、いっぱいあります。

このインターナショナルスクールの校長みたいに、
「いいよ、嫌なら、付き合う必要なんか全然ないし、学校の運営がそれで困るわけじゃないからさ。」って、なんで日本の教育機関は言えないんでしょうね。とくにおかしいのは、日本の幼稚園!幼児園!カリスマ教師のいる学校!!

 あ〜もう違うフェーズに行こう。
今までの経験の中で、さんざん、くすぶった悪いエネルギーを手放していかなきゃなぁ〜と思ったのでした。

 外国人の先生と話すと、非常に爽やかで日本人の中では重大問題だったことが、案外あっさりした問題になるのはなぜなんでしょうね。
ピカチュウにも実はこんなやりとりがあったんだよ、一本取られてさ。とつたえたら、あの校長らしいな〜と笑ってました。


 子供だけじゃなく、いつのまにか、自分も育てられているのを実感する学校生活なのでした。日本人とは違うマイペースのあり方を、もっと学んでいかなくてはならないかもしれません。
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