インターナショナルスクールで小1が身につけるべき良識

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長期休みも終わり、我が家の子どもたちも、(一人は不登校状態から)インターナショナル・スクールに通いだして、もう少しで早2ヶ月。
この僅かな間に自分の子供たちが受けた教育内容を眺めると、すでに、日本の公立の教育と比較して、とてつもなく大きい教育格差を痛感しています。

日本の小学校1年生が教わる内容を知っている自分としては、なぜIBカリキュラムのあるインターナショナル・スクールでは当たり前のこの教育が、日本の普通の公立のなかで教われないのか?という、当たり前で素朴な疑問のレベルをすでにとびこえて、もはや、これは権力側の意図的な陰謀なのではないかと思うようになりました。
 もともとこの国の子供つぶしを目的として、最初からGHQ占領政策の中で設定されていたことなのでしょう。

 だからこそ、心ある母親たちは、このシェアを通して自分たちの子供が洗脳されないように「日本教育界で自分たちが教えられている内容の何がおかしいのか」をしっかり見破る手がかりにしてほしいです。

さて、IBカリキュラムで進むインターナショナル・スクールの1年生たち。
学校で最初に教わることは、自分が生来もつ権利についての色々です。

日本の教育でよくやる人権教育というのは、人権について書かれている法律の文章を丸暗記させることです。それで、人権を学んだことにするのです。そんな知恵は事実上、全く使えませんので、実学ではありません。

 IBのインターナショナルスクールでは、そんな無意味な授業を子どもたちにしたりはしません。

 人権とは知識ではなく、当たり前に自分の持っている富ですので、きちんと生活の普段の、細々とした部分から活用してなんぼのものです。人権教育とは実生活の中で、その使い方をマスターする方法を教わることなのです。

 第一、幼稚園を卒業したてのこの年齢の子供に、理屈で人権をおしえてもわかるわけがないんですよね。だからこそ、子どもたちの発達認知の状態を踏まえて理解できる形態に落とし込み、英語ネイティブの先生たちは、自分たちが彼らをどう取扱うかという姿勢や、背中や生き方を通して、子どもたちにその大切さ、ここちよさを伝えていくわけです。

 1年生の4月の最初の授業では、子どもたちは自分の意志に価値があることを発見します。
自分たちの意見が反映された結果物事が決まっていく仕組みや、自分たちで自分たちのことを決めれば、自分の環境が本当に変わっていく状況を体験します。
 日本の教育では、通常、先生を始めとする権威が決定したことを子どもたちに従わせるのが当たり前ですが、そのような状況はこの学校では一切発生しません。
 先生はみんなのファシリテーターとして存在し、子どもたちが生活上、それまでかんがえてもみなかったことについて、疑問を呈してみせます。
先生が教えたことを子どもたちがそのまま鵜呑みにする状況を作らず、みんなでその問題について意見を持ち寄り、一緒にどうしたらいいのか、最良の結論を考えていけるように、サポートする立場なのです。
 そこでは、だれがどんな意見を言っても良いことになっています。
もちろん日本の子どもたちは、親の言うことに従う立場で育っている子が多く、自分の意見を求められたことは、あまりありませんので、最初は戸惑う子が多く、手を上げることもありません。

 そんななかで1年生の1学期の最初の期間では、民主主義の仕組みを学びました。

 日本の小学校お受験の小学生のように法律についてや、三権分立とか選挙制度の名称や意味を教え込むことが目的なのではなく、IBカリキュラムが目指すのは、人権を機能させていくことによって、自分にとってどういうメリット・デメリットがあるのかを、子どもたちに実体験を通して納得してもらうことがこの時期の教育の目的。

 民主主義で採択される投票を、教室で厳格に何度も行います。はじめての投票体験をとおして、どのように自分の意見を反映させ、みんなで意思決定していくのか、というプロセスを子どもたちは体験します。
 限られたお金の中で、人参を買うか、大根を買うかというような簡単な選択から始まって、最後には教室で、自分たちの身の上を決めるような決定をします。次の時間、公園で遊ぶか、学校の体育館で遊ぶか。

 そして、「先生が決めたことに従う必要はない。自分たちがきちんとした手順で、先生に意見を表明していけば、状況が変わる。」
という大きな体験をはじめて通過します。

 その日、学校から家庭に求められたのは、子どもたちが記憶を反芻するための、フィードバックの場になるために、それについて子供と会話することでした。

 夕食のときには、普段むずかしいことを考えない娘ですので、わかったのかな〜と不安になりつつ聞いてみると、今日学校で体験した「投票」の仕組みについて、クラスでどんなことをやったのか、シェアしてくれました。
 もちろんその理屈は娘にはわかりません。ただ、今日、なにか自分は重要なことを教わったのだ、という印象を持っているようでした。

 そして、最後にポロッと、「人参と大根のことを決めるだけなのに、なぜ先生はいちいち、人の投票用紙を裏に伏せてみんなからみえないようにしたのだろう?」という疑問を口にしたのでした。

 IBカリキュラムは、人の意識がらせん状の成長を通ることをすでに知っていますので、同じことをちょっとづつ、年齢に合わせて、繰り返し繰り返し反復して体験させるようにできています。1年生のときに体験したこととおなじことを2年生で体験したら、よりその構造が深くわかります。4年、5年生ならさらに社会と繋げて発展させる思考が出来上がり、違うみえ方があるでしょう。同じテーマを多角度、多重深度で理解させるようなカリキュラムになっているのです。
 そしてスペシャリストの教師たちは、その一番最初の種を1年生の子どもたちに植えた、というわけです。
先生たちは、子どもたちが他人の意見に左右されずに自分で決定することの大切さや、自分の意志を投票で反映させることで、クラス全体が納得し、対等になれること。自分で進んでいく方向や物事を決定していけるのだ、という、権利や民主主義の仕組みの大切さというものを、印象として子どもたちの記憶に残したのでした。

 一方日本の小学校の4月は、どうでしょうか。忘れ物をしないこと、先生の言うことを30分聞いて、じっとしていられること。座っていること。時間通りに着席すること、背筋を伸ばすこと、などを教える時間なのではないでしょうか。お話をしないことが推奨されます。
 教えている内容は、権力(先生)にとっては都合が良い内容でしょう。
でも、教わっている子どもたちには、なんのメリットがあるでしょうか。
 要するに、教育ではなく、隊列を上手に組み、上の命令を素直に聞けるように飼いならすための軍事訓練の始まりなんですよね。

IBカリキュラムのインターでは、じっとしていられない子供がいても、先生たちはたいして気にしません。授業を聞かずに、好きなことをやっている子がいても、本人の意志を尊重します。

もともと成長期の子どもたちには、発達の差があります。だから先生たちには、脳機能が発達してくるのをまつゆとりがあります。
 あるき回っていながらでも、授業に関心を持つ子供もいるし、気が散りながらも授業に参加する子供だっていたって当たり前で、それで問題なしです。
忘れ物をしても、忘れたものを先生が支給してくれ、親が後でそのかかった費用を請求されるだけ。そういう子供をいちいち叱る大人はいません。
 同じ学年の4月生まれと3月生まれで、同じように脳機能が発達していると考えるほうがおかしいし、脳の発達途上で認知が十分でない子供に、忘れ物の罪を問い、罰を与え、反省会をさせる意味はまったくないのです。

 それに、日本の教育では教師の都合のために「みんな仲良くしましょう」と約束させ、標語を守らせることで個の事情を削り取り、平坦にします。そして、同調圧力を利用しながら、強いものが場を支配します。
このような環境で日本の子どもたちが学び取ることは何でしょうか。
 自分の周りの現代の日本の大人達の問題をみたら、よく分かると思います。

 一方、インターナショナル・スクールでは、人権を非常に意識しています。
教師と生徒の間に上下関係はありません。おたがい人として理解し合おうとし、個人の事情の尊重が前提になります。先生と生徒は互いにしっかりと話し合って、理由を聞きます。その理由がどんなものであれ、先生も自分の事情を子供に伝え、協力してもらえるかどうか、子供とすり合わせをしながら授業が成立していきます。

下の娘の最近の口癖は「why?」「why?」

なぜそうするの?
どうしてそうしたの?
と、先生たちは子どもたちが自分で考えるきっかけを手にしてほしいから、
この問いかけを、一日中、盛んに子どもたちに投げかけているせいだと思います。

 ですから、どんな授業でも、子どもたち自身がみんなで話し合って、先生からもらったテーマをもとに自分たちで決めています。
 ここでは大人しく授業を聞いている子供が一番優の評価をされることはなく、むしろ積極的に手を上げて自分の意見を述べ、授業に関わっていく姿勢を持つ子供が奨励されます。
 そうして、子どもたちは自分たちの意見には価値があることに気が付き、自分たちの人生を自分で決める権利がある、という役割を知っていきます。
 標語ではなく、何事においてもその環境や働きかけをゆっくりと繰り返し実際に体験させていくことで、徐々に深いレベルの当たり前の意識になっていくわけです。

それは、同時に自分で決めることに責任が伴うということにもつながります。
 ですから、子どもたちは自由をかんじるだけでなく、同時に、自分がコミットしたことに対して、約束した内容の責任と義務を自分で背負わなくてはいけないんだ、ということにも理解が繋がっていきます。

 ですから、みんなが手を上げているから自分も手を上げた、とか仲の良い子が手を上げたから自分も、というような、他人任せの決定は、この学校では一切みとめられません。そんなことをすれば、先生から、あなたはどうしてそう考えたの?と説明を求められ、突っ込んで意見を聞かれることでしょう。

日本に蔓延する不健全なママ友政治の土台が、どこで作られたのか、わかるような気がしませんか。
 子どもたち自身が独立した存在として、自分のことを自分で決めるというのは、世界の教育の良識ではもはや当たり前となっています。
 国際社会は、いいかえれば「契約社会」が土台ですから、自分が決めたことを自分の責任において全うするというのは、子供時代から当たり前に身に付けておくべき特質です。

 国際社会の良識の視点をもった外国人からすると、それがない人は、社会生活の土台や信用構築ができない人だと判断されます。
 どっちともとれる曖昧な回答を繰り返したり、自分の立場では判断できないので上に聞きます、と答えるサラリーマン、言ったことを「記憶にございません」で通す政治家。日本にはいっぱいいますよね。

 教養のある外国人から見ると、これら日本の当たり前は、大人ではない態度ですから、はじめから信用できず、相手にしたくないタイプの人たちなのです。そろそろ、自分たちが国際社会の良識からみてどれだけ幼稚な態度をとっているのか、自覚しなくてはいけないとおもいますよ。
 本当の意味で人生自己責任。IBのインターナショナル・スクールでは、国際的良識を身につけられる子供を育てるための学校教育が進んでいきます。
 もちろん、子どもたちは奴隷ではありませんので、「親にやらされる」もなければ、「教師にやらされる」ということもありません。

 そのような体験を通して1年生は、ひらがなやカタカナ、数字の取り扱いを学ぶ以上に大切なこと=すなわち、自分たちは何事も意思決定の権利、そしてその権利を実行する力をもっていることに気がついていきます。そして、その力を、さまざまな学校のアクティビティを通して発揮させていくことを学ぶのです。

5月に入ってからは、子どもたちは「No」を表明する権利を学んでいました。
日本人は、断ることを苦手とします。断ることで後々相手との関係性が悪化することを恐れるあまり、自分の意思表明を避ける傾向にありますし、あからさまに断られた方も、メンツを潰されたことを恨みに思うことがあります。それを、日本語では「角が立つ」といいますよね。
 さらには、一人だけ違う行動をとる、そんな人物を日本社会は、空気を読めないやつだ、社会経験の足りないやつだ、と否定することがあります。
だから、同時に「黙るが勝ち」という言葉もありますね。

 このような状況に対して、西洋社会の良識は違った見方をします。
 断らなかった方に、表明すべき意見を伝えなかった、自分の選択の責任をまっとうしなかったという落ち度があるとかんがえるし、また断られた方もそれで侵害するなら、他人の権利を認めていない、という落ち度があると考えます。両方が未熟だという見方ですね。

 国際社会の場合、意見の表明に関しては、すごくはっきりしていて、かつ、重要です。ある意味、言ったことが全てです。解釈が変わるようなコミュニケーションを重要なときほど、取りません。はっきりと線引きします。
「No」を表明することは、大事なこと。基本的な権利を守ったり、基本的な人権の、理解の基礎につながります。

ある時、教室で先生がみんなを集めて、みんなの前でうちの娘の肩を抱きしめてこう言いました。
「ヨウをかわいいねって言って、僕が今、勝手にヨウを触ったら、それっていいこと?悪いこと?」

「みんな、どう思う?」

1年生の意見は、半分に分かれたそうです。
「良いこと!だって、先生は、ヨウのことをかわいいって言ってくれてるんだから」という子もいえば、「だめ!ヨウがそれが嫌だって思ったら駄目。」という子たちも。
「親ならいいけど、他人は駄目だよ。」という子も。

そこから1年生の子どもたちの間で、さまざまなシチュエーションを想像した感想やディスカッションが始まったそうです。
「こういう場合はどうなるんだろう?」
 子どもたちが色々なケースを色々な角度で考えたあと、対人関係やコミュニケーションスキルを教えるスペシャリストの先生は、機が熟したのを判断し、「安全には二種類あるんだよ」と話しはじめました。

 そして、子どもたちにこれからを生きる上でたいせつにしなくてはならない2つの柱について教えました。
 こころ・精神的な安全、そして、身体的・物理的な安全です。
いくら悪いことをしていない、と周りが思っても、本人がそれを「嫌だ」と感じるのなら、心の安全を守っていい。そのために「NO」といわなくちゃいけない。

そしてひとの体を触るためには、いくら自分が好きでそうしたいと思っても、相手の体の安全の権利を尊重するために、本人から触っていいかどうか、誰であっても、かならず許可を得なくてはいけないんだ、ということを、先生の説明で一年生、全員が知ることになりました。
ジャニー喜多川さんに教えたいですよね。
事務所で何十年も前から、性的被害を受けている少年たちが多いことを、多くの人が噂をとおして知りながらも、日本でこの問題が正面から取り上げられなかったのは、この境界線のルールをきちんと教わったことのある日本人が少なかったからです。

インターの子どもたちは、そのようにして、自分が子供であっても「No!」といって良い存在であること。そして、親であっても、相手が誰であっても、嫌だと思ったら、嫌なことを受け入れなくて良い権利を持っていることを学びました。尊重されることが当たり前なのだ、という感覚の最初の土台になっているので、日本ではなかなか子供の間で育たない、自己肯定感も育ちます。

また尊重し合うことが爽やかで心地よいことを体験から学んでいるので、そのことを通して、逆に友達の「No!」を尊重する意味も学んでいきます。

 日本の大人たち、いまの日本の社会問題全般を御覧なさい。w
って感じですよね。年配ほどめちゃくちゃです。
パワハラ、セクハラ、ブラック企業、このまん延みて、どう思います....?
 どこの英語圏でも、IBカリキュラムのような基準の教育を受けていますので、西洋の良識層がみたら、(当然日本人に対してそれを直接口にはしませんが)日本人って「原始人かよ」って思われてますよ。

 そして、この良識が身についているかいないかで、その後、世界に出た子どもたちの人生クオリティがどれほど変わってしまうのか、周りの取り扱いが変わるか、というのも想像できると思いませんか?

 人間力がない人間は、海外に出たとき、いっくら塾に通わせて偏差値が高かったとしても、英語がどんなにペラペラでも、一部の金持ちがやってるように子供を人がひれ伏すような有名大学に留学させたとしても、本当の意味で幸せに応援されて活躍することはないでしょう。

 外国人の信用や尊敬対象は、そのひとからにじみ出る良識や人間性が全てですから、能力が高いとしても、おとなになってなお、幼児のようなセクハラ・パワハラを押し通している人物には、興味がないのです。

 海外では小学校1年生で教わるのに、日本の教育から、他人との領域や、基本的人権意識といった、基本中の基本を教わっていない日本の大人。
 それでもなお、自分たちは先進国だと未だに勘違いしているのですから、ヤバい状況ですよね。実際に外国人に言われたこともありますが、世界の良識からながめたら、日本はなんと幼稚な大人が多すぎるのだろう、という感想になると思われます。

 さて、うちの下の子、ようちゃんは、バリバリ日本の昭和の体育会系幼児園に入っていましたので、先生が決めたことには逆らえない、先生の求めた結果を出せる子供が良い子供だ、と思って育ってきました。
だからこそ、この子の感性が潰されると思い、インターに入れました。

 インターナショナル・スクールの世界は、幼児園とは真逆な価値観の世界ですが、あの頃、周りの顔色を伺いながら行動していた娘は、今、毎日、おしゃれを楽しみ、いきいきとしています。
 毎日学校が楽しい!世界が楽しい!といって、朝はバスから降りると、学校のエントランスにかけ込んでいきます。
 子どもは自由を認めたら駄目だ、我慢を教えろ、我慢のできない子供は駄目だ。と昭和の大人は考えてきました。

 しかし、1年生であっても、自分の行動と選択で毎日を決めていく生活を送るようになると、集団の収集がつかなくなるどころか、個々がまとまり、色々な物事に関心を持ち、こどもはどんどん積極的になって行くんですね。

 もちろんIBカリキュラムは、インターナショナルスクールだからといって、生徒は全員、英語を使いなさいと学校から矯正されるシチュエーションはありません。そこでも子どもたち自身がどうするか決め、子供の意志が何よりも尊重されます。
 なぜなら、海外において、支配者が特定の言語を押し付けることは、歴史上、植民地支配の時代とも重なります。英語を強制し、異民族に対して、言葉による支配をしてはいけないからなんです。

 英語ネイティブの先生たちは、子どもたちが日本人であることを尊重してくれていて、英語学校のように、自分たちは教師で、英語のほうが優れているから教えてあげるのだ、というような態度は全くありません。
 「みんなが仲間になれる共通言語として、日本語がわからない先生や子どもたちのために英語を選択してくれたらうれしいけど」という具合です。
 人権の目線から、子どもたちが自分でどの言語をつかうか、じっくり選んで決めて進んでいくプロセスを絶対に省かないのです。

 おしつけられて話すことになった英語と自分の意志で選んで話した英語。
英語を話すという見える結果は同じでしょう。
でも、今の海外の教育は、英語を教えていくときですら、決定のプロセスを非常に大事にした教育になっています。

 日本でも、国際化だ、バイリンガル教育だ、と英語教育を導入した小学校は多いですが、一度でも子どもたちに聞いたでしょうか?

あなたは英語で授業受けたいですか?英語を学びたいですか?と。
全然意識が違う、人を大切にするレベルが違う、と私は思いました。

押し付けられた外国語は、占領された国がされることです。
 これをまだ、当然のように日本の社会が許しているのは、英語をあがめたてまつって、日本人自ら奴隷となっている姿とも被ります。
 ですから、もちろん日本の会社で英語しか話してはいけないと社員に強制することも、日本人からすると先進的な会社だと受け取りますが、実際は世界の良識や国際的人権の視点からは、違法性もある、という視点をもったほうがよいと思います。

このように、IBカリキュラムのインターでは、子どもたちが自分のことを決めますが、一方、今の日本の教育で、今日何をするかは、誰が決めていますか?
国が細かく決めていますよね。そして、それを教育委員会が守らせます。校長や教師が徹底して、親も巻き込んでそれをやらせます。
そう、強いものが力の弱いものを管理しています。
 作業ややらせるべきことを勝手に決めて、こどもに押し付けています。
これは「教育」ではないです。支配です。虐待の一種です。
つまり、日本の子どもたちは、囚人や奴隷と扱いが変わらないんですよ。

いや、本当の囚人のほうがまだマシかも知れません。
弁護士がくれば、ちゃんと自分の権利の範囲をしっかりと教えてくれるじゃないですか。黙秘権あります、とかね。
でも日本の学校の子どもたちは、自分の権利があることすらも、誰からも教えてもらえていないんですよ。そのまま支配されつづけておとなになる。

今の日本で、不登校の人数がめちゃめちゃ多くなっているのは、子どもたちが何が自然なのかを知っているからです。
だからね、変わらなくちゃいけないのは、子供じゃない。
日本の教育界なんですよ。

 そのようにして学校社会の中で、自分たちの権利が侵害されていることも学べない子どもたちは、大きくなってからどんな弊害があるでしょうか。
まず、大人になっても他人に自分の人生を侵害させてしまっていることに気が付きません。自分が立場を利用して弱者を支配していることに気が付きません。権利意識が薄い反動で、自分の人生を自分で決める責任も、放棄します。

実際、現代の日本をみてください。合致しませんか。
 日本人は選挙に行かないひとが多く、同調圧力によって動く組織票が幅を利かせます。その結果、欲深いひとたちの戦略に負けてしまっても、自分たちの税金が莫大に搾取されていても、それに抗議して戦ったり、デモする人もわずかですよね。そして、教育も経済も文化も治安も政治がどんどん壊れている。
 しかし、日本全体で侵害されることを許すメンタリティが出来上がってしまっているんですよ。

つまり、権力者からすると、奴隷根性を植え付けるための公教育として、今の日本の教育というのは、まさに世界最高だったわけですよ。
だから、日本に馴染めない人が言う、日本人の嫌なところって、本当は日本人自身から生まれてきたものじゃないかもしれません。日本の教育によって歪められてしまった価値観のせいかもしれません。

このままじゃ、子どもたちが壊されてしまいます。
奴隷になるための教育をすぐにやめて、教育の大転換がおこらぬ限り、子供の自殺率も下がりませんし、この先、生きることの意味がわからなくなって死んでしまう大人も増え続けます。

 私達日本人が、なにを選択するのか、目覚めのときは近づいています。
問われているのは、植え付けられた日本にしか通用しない良識をすてて、本当に大切なもののために立ち上がれる日本になれるのかどうか、ですね。

大方の人にとって未知の領域である、インターナショナルスクールの様子から、ひとりでも多くの親子が日本の偏向教育と闇に気がついて、目を覚まし、子育ての価値観の軸を転換する手がかりにしていただけたら幸いです。
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