オペレッタその後・・・

記事
学び
今日から、12月。
もうすぐ幼児園のクリスマス会(学芸会)があるので、自分の子供の役に合わせて親たちが衣装を作り、園活動の中でこどもたちは、毎日演技と歌の練習をしている。
演目は「オズの魔法使い」。
主役をとった生日中殺の娘は、主人公ドロシーCなので、園から青とギンガムチェックの布地とレースを渡され、これでドロシーの衣装を自由に作ってくださいという指定書つきの手紙を持ち帰ってきた。

ええ?!園が用意してくれるんじゃないの?!

市販のコスプレ衣装を買ったほうが安くて出来が良さそうだったが、園からは許可がでなく、お母さんたちのお手製であることが条件だという。
なんだかんだで、衣装用の靴を買ったり、ブラウスを買ったりと、自前出費して、そして、型紙も何もないところから、なんとな〜く、ドレスの型起こしをして3時間弱で縫い上げ、次の日にはもっていった。
下にパニエを履かせたら、あら素敵。ロリータドレスのよう。

「お母さん、服飾のプロですか?!しかもこんな短時間で!」と先生たちが驚いていた。

いやいや、昔取った杵柄なんだ。w
何十年前だ?
中学生の時、夏と冬にはコミケにいき、コスプレしていた時代があった。
 孫悟飯とか格闘ゲームキャラに扮するため、衣装やらなにやら自分で制作してたんよ。そこらへんの可愛い女子キャラをお姫様抱っこして、撮影に応じてたりしていい気になっていました。懐かし。
そう言うのが楽しい時代だったよな。

当の娘は、衣装にとてもよろこんで、ピンクハウスのドレスみたいなふわふわのドロシーのドレスと銀のくつをつけたまま、いつまでもバレエのポーズを決めながら、みんなの注目をひいては、くるくると回っていた。


 知らない人がいないくらい有名なこの「オズの魔法使い」という作品は、青い鳥と似たような話である。
舞台は、アメリカ・カンザス州。
竜巻で家ごと異次元へ飛ばされてしまった少女の物語。

 異世界に飛ばされたり、自分の今いる人生に行き詰まり、せっぱつまったあげく、自分の欲しいものを魔法で叶えて欲しい、とオズ大魔王の元へやってきたライオン、かかし、ブリキ製のきこりの3人組と、家に帰りたいドロシー。
 エメラルドの都で会ったオズ大魔王は条件を飲めば、どんな願いをも叶えてくれると言う。そこで、みんなは自分のないものを得るために、必死でオズの出したお題にとりくむ。

そして様々な困難を乗り越えて、みんながオズの元へ戻ると、実はオズは魔法使いでもなんでもなく、ただの機械オタクの人間だった。

みんなは失望し、もう全てが終わった、と思う。
ところが、オズは言う。

実績を見てごらんよ。君たちが欲しがっていたものはもう手に入っている。
振り返ればわかるだろう?

君が欲しかったものは、全部最初から君たちの中にあったんだよ。

カカシは知能を。ブリキはハートを。ライオンは勇気を。
みんな経験しながら、自分の内側の能力を自分で引き出していったのだ。

「私はどうなるの?」
カンザスの家に戻りたいドロシーは聞く。
実はオズは、魔法使いのふりをしながら、城で人間界に帰る手段をずっと研究していた。オズと一緒に、特製の気球に乗って人間界に戻ることになったドロシー。

ところが、ドロシーはまたもタイミングを逸して、気球に乗りおくれる。
ああ!もう家に帰ることができない!!

そう思ったドロシーにアドバイスをくれたのは、よい魔女だった。
足元を見てごらん。
あなたが履いている、その靴が連れ帰ってくれるわよ。

よかった!やっと家に戻れるのね!
(というか、ならばもっと早く教えて欲しかった、というのがドロシーの心境だろう。)

そうして最初に手に入れた魔法の靴が、結局ドロシーと犬のトトをカンザスに連れ帰ってくれたのだった.....

 のぞむものがあったら、誰かに頼るのをやめて、自分の持っているものの中から引き出すようにしなさい。
そもそも望むものすべてをあなたはもっているんだよ、というお話。
アメリカの開拓者精神を表しているようなお話です。

 ◆

子供が演じられるように先生が優しいセリフに変えた台本を、子供たちが身振り手振りで、演じる。娘は最後の場面をうけもつドロシーで、一番の見せ場。
一人で歌も歌う。園内オーディションに立候補し、合格して役を射止めた。

娘がこの役を手に入れるまでのお話は前に書いたので端折るが、
実はあの話にはまだ後日談がある。

ある日の園からの帰り道。娘はたちどまって私を見上げてこういった。
「あの〜お母さん、聞いて欲しいことがあるの。」
「なに?どうしたの、改まって。まじめな話?」

「......うん。あのね、役のこと。」
「え、なんか困ったことがあったの?」
心配して聞くと、

「そうじゃないの。あのね、今日、練習していて、きゅうにきがついたことがあったんだ。それをお母さんにつたえたくて。」

いつものおふざけの様子とは違ったので、目線を合わせて話を聞くと、

「あのね、お母さん、去年までの私、わたしがこの役ができるなんて、まったく想像していなかったんだ。ただ、素敵だな、いいなぁと思って、前の代のクリスマス会のDVDを何度もみてるだけだった。」

「だからね、わたしは年長さんになっても、きっと今年も先生にきめられた役割をやるんだろう、って思ってた。きっと、楽器の演奏だろうな...って。
カスタネットかな、木琴かな?って。でも、私ははじっこで役割を果たせば、それでいいや、そういうもんだって思ってたの。」

「でも、お母さんに言われて、そんな選択があるのか、っておもって、本当に自分がやりたいって言ったらやれるのかな?そんなことあるのかなって、びっくりしたんだ。」

「じぶんには、できないんじゃいかって最初は思ってたけど、頑張って手をあげたら、ドロシーになれた。舞台の真ん中に立つって、みんなに囲まれてすごく楽しいんだ。練習も楽しい。嬉しさいっぱい。」

「それで、今日練習してる時、わたしがこんな世界を味わえるようになったのは、お母さんがわたしをできるってずっと信じてくれていたからなんだ、って今日、きゅうに思ったんだ。」

ちょっと涙で潤んだ目で私を見上げて、娘はこういった。

「だから、お母さん、....本当にありがとう。こういうせかいをわたしに教えてくれて。そして、ずっとやってごらんって言い続けてくれてありがとう。」

(※幼児語なので、そのまま本人の言葉を書くと意味が不明な点が残るため、少し大人の語彙に置き換えて補ってありますんで、ご了承ください。w)

いつも1学年くらい精神年齢が低いんじゃないかな、っていうよちよちっぷりだったのに、急にこんなことを言い出した生日中殺の娘。
そんなこと言われてとても嬉しかったよ。

でも同時に、正直、びっくりしたんだよね〜。
全てにおいていつも満足そうなこの娘が、実は心の中でそんなことを考えていたんだ、ということに。

できない?
そんなことないだろ?
誰よりも、表現力のセンスはある。
歌だってダンスだってうまい。

なのに、客観的な指標とは無関係に、予想以上に子供の自己肯定感が低くなってたことにも同時に気がつかされて、いや〜危なかったな〜とも思った。


この幼児園はスポーツ・ベースなので、集団行動やルールをしっかり教える分、自律心がついてしっかりする。しかし、教育の中身自体は、理事長が決めたことをしっかり実行させる、と言うところを重視しているため、子供達自身に自由な選択肢はほとんど与えられない園なのである。

そもそも金持ち系の親向けの幼児園の場合、無償化手当以上に園費は高額だ。
それを出せる親の気を引く集客のためには、平均年収以上をたたきだして生活している成功者が好むような園の実績が必要だ。

「卒園生〜〜がサッカーで全国大会大会出場、〜〜人輩出。」
「オリンピック水泳代表 卒園生〜〜」とかね。
幼児園とはそういうところ。国が至らないところをカバーするような先端教育や特殊な教育をすることが売りで、お金を集める「会社」である。
上が通っていたバイリンガル幼児園もそうだった。
「園児の平均IQ150」とか「卒園時、英検3級取得」とかね。

この園に入れれば、こういうお子さんの実績を作れますよ、という客寄せの実績が必要なのである。

まぁそう言うことを言ったら、他の日本の幼稚園も同じで、理想的な人間像に育てます、ということを宣伝して、園児を入れるわけだから、子供をなにかにしようとする親の気を引いてる点では変わらない。

そういうのを見るたびに、まるでドッグ・トレーニングみたいだなぁ、と私は思うの。子供が望むから行かせてはいるけど、正直、こんな幼児教育に心から納得しているわけでもない。この市近辺の日本の無償化でいける幼稚園や保育園の古くて気持ち悪い教育より、単にまだマシだっただけ。
 幼稚園にいれているんではなく、この会社に子供を預けて、習い事を一日中させているんだ、と割り切って、登園させている。

でもこういうことを言っちゃったら否定してしまうことになるので、これはおそらく周りの空気を読んだら、本当は言っちゃいけないことなのだと思う。

そんな事情で、親の気をひくためのすごい実績=目標は、園が作る。
当然、その目標は最初から決められていて、子供達自身が選ぶものではない。
例えば、富士山7合目登頂とか。跳び箱6段飛ぶこととかね。

理事長が、「すごいだろ、君たちは日本一の山に登ったんだ。苦しくても、やればできるんだ。我慢を乗り越えれば、いいこともあるんだ。」という立派なお話をしているのを聞いて、昭和形式にちょっとどん引いたとピカチュウが話していた。

そんなことが本当に一人一人の子供たちの自信になってるのかどうかは、いまいち定かではなかった。親の自己満ではないのか。
もともと人間というものは、自分で決めたことを実行した時に自信がつく。
逆に、自分以外の誰かにやらされたことは、すべて自信にはならない。
自分の意思で自分の目標を決めるということの重要性や「今取り組んでいる活動は自分の意思のともなっているものかどうか」こそ、幼児教育では何よりも重要なのだ、ということが日本の幼児教育界では全く理解されていないのだ。そんなんで、世界基準になっている高い自己肯定感や非認知能力なんかがつくわけがない。

日本の学校はおかしいと上の娘が言う内容だって、結局これと同じ。
日本の子供たちは「誰かに決められたことをいかに正確にこなすか」が重要とされ、子供達の目の前にはすでに自分の毎日の行動を誰かによって決められた世界が広がっている。娘は「先生が子供の遊びまで決めるっておかしい!」と言って、結局、日本の幼稚園では馴染めなかった。
小学校の授業では簡易なおしゃべりはおろか、窓をみることも完全に許可されないのだと言う。固まれ、聞け、と教わる。

管理教育。集団一律教育。
これは人間にとって、自然なことなんだろうか?
囚人と何が違うのだろうか?

今回、下の娘が、自分の意思で自分のやりたいことができるとおもっていなかったというカミングアウトを聞いて、超意外だった。
下の娘が、たとえ園の掲げるすごい活動(クロスカントリーなど体力的に辛いこと)にも耐えて頑張り、自分の得意なことでどんなに高い実績を出そうと努力していたとしても、自信に繋がっていなくて、
「自分が自分の世界をつくっているんじゃなく、世界には制限があって、先生が決めたものに自分は従うのだ」という、固定観念が出来上がりかけていたことを知ったことは、ピカチュウとともに親として、とてつもなくショックだった。

娘は、目の前に、自分のやりたい世界があっても、この世界は自分たちを従える誰かにご指名を受けない限り、自分から手を伸ばしてやっていいものだとは思わなかったから、やらなかったって......。

え〜?!子供時代は楽しむためにあるんじゃないの?
自分を律するためにあるの?

これ、実は昭和時代を生き抜いた大人に、よくある生き方パターンなんじゃないだろうか。「そんなこと、やっちゃっていいの?」と人(先生)に取り締まられる生活を送っているから、大人になっても、決められたことの中から選択する癖がついている。選択肢そのものを否定したり、選択肢自体を新たに作り出そうとはしない。

でも、実は本当は世の中は、何をやっても良いところ。
才能無くたって、好きなら何歳でもバレエやってもいいし、毎日定刻に会社の席についていなくても良い。おやつばっかり食べてもいいし、化粧してもしなくても、ワンマイルスタイルで歩き回ってもいい。決めるのは全部自分だし、結果を受け取るのも自分。
なのに、なぜ、自分の心にいつも監視員がいるのか。

だから、日本の大人は人生が楽しくないんだよ。


本当は自分の人生は、自分が決めたことだらけで、生きるべきなんじゃないだろうか。

そして自分が決めたことを実行したいから、そのために必要な知恵を学び、人と協力し合い、必要な忍耐や行動力を身につけていく、と言うのが本来の生き方なんじゃないだろうか。自分の心の目的が決まってないのに、型だけ教え込まれてなんになるんだ。

もし、クマの親子がいるとして、いちいち、母親に、あのサケを取ってこいとか、鮭の取り方はこうだ、前足をこう使う、とかいうルールで縛られて生活してたら、こぐまは大人になった後、生態系で生きていくことができない。
だって、未曾有のことがおきるのが生態系でしょう。
ルールで対応できないことがいくらでもある。

現場対応力は、体験と実践で出来上がった知恵からしかつかない。
生きる力って、誰かに口頭でルールを教わってつけるものじゃないんだ。
やって覚えていくものだ。現場に出て、自由に試しながら、自分のものにしていくものだ。

こぐま自身が「俺は魚が食いたいんだ」と渇望がわき、その意思に従おうとする場合だけ、どんな状況でも工夫して餌を取る技術は身につく。
習得、行動力、未来予測などの五本能が一斉に稼働するのは、自分の意思が働いた時だけなんだ。

実学算命学で、型通り生きることより、その前に自分が自分の人生を生きようとする意思が何よりも重要だと強調する意図は、そこだ。

人間だって、クマとおんなじだと思うんだ。
子供が自分の意思でやりたいと思うかどうかが何よりも大事。
その土台がなかったら、どんなに外側から技を教え込んだって、自分の人生の中でそれが活用されることはない。
それでいっぱい何かを外側から詰め込まれて、自分のやりたいことがやれなかった子供は、大人になってから自由が認められる世界に置かれても、そのあと自分が何をやりたいのか、宙ぶらりんのまま、人の作った枠組みに従う、人に受けるための生き方しか、人生の選択肢がなくなる。

わたしはこれまでの人生で、相当数の大人のこころの悩みを聞いてきたと思う。その悩みの原因の全ての根っこにあるのが、どう生きたらいいかわからない。自分が何をしたいのかがわからない。自分自身が何を感じているかがわからない。将来の夢とか、ない。何ができるのかもわからない。
でもこれまで無事で、取り合えず、失敗しないで、生活していくことだけはうまくいってる。
というようなことなのね。
昭和の大人の悩みって、細かい問題は表面的なもので、もっと奥深いところにある真の悩みは、実は自分で自分の人生を決めることができなかった子供時代を送ってきたことが原因なの。


学校で非常に優秀だった子ほど、そう。
我慢は得意。従うのは正確。
でも、こころのなかに深い感動が何にもない。
表情もない。

この関連性がわかる?
幸せだって感じられないのは、全部、あなたの性格のせいなんかじゃないんだよ。こどものころに、全員が、目的をもって、国におんなじ教育洗脳を受けさせられてきたせいなんだよ。

楽器演奏の世界で、一流と言われる桐朋音大出身で教育法を学んだ先生に聞いたお話なんだけど。

実際、この一流大学に来るような楽器演奏家たちはどんな幼少期を送っているのか。この名門音大には、音楽家2世、3世の学生も多い。
 そもそも子供を演奏家にしようとするなら、ピアノを始めとした楽器は、神経発達が非常に関わる世界だけに、当然臨界期があるので、指の筋肉や神経を鍛えるため、早くから繰り返し繰り返し練習を続けなければならない。

でも野放しで自然な状態で、子供が毎日練習したがるわけがない。子供の興味は音楽だけじゃないからだ。探ってみたい面白い世界は他に山ほどある。
そしてその楽器との相性だってある。

2歳からピアノを始めた、とか5歳からバイオリン始めた、とかコンサートのパンフレットの経歴に書かれているのは、それがものすごいことだからなのだと、先生は言う。
同じ楽器で同じ訓練を子供が続けられたと言うこと自体が稀で、続けさせるには、親の圧力がいるし、働きかけもいるし、そこまでやり続けられるがんばれる度の高い親は少ない。そこで大部分の子供が振り落とされる。そして、ようやく自分でやり始めたかと思ったら、自我が発達し始めた頃になると子供は子供時代をうばったこの楽器を「もうやらない」と辞める選択をしたり、練習をボイコットすることの方が多いから。

 「だから、逆に子供の意思が働かない時代に楽器をスタートすることが大事なんです。意思がしっかり働く前に、生活習慣にしちゃえば、その活動が好きかどうかなんて、人は疑いを持たなくなるんですよ。」

10歳で世界のタイトルを総なめにしていたバイオリニストの女の子がいる。
気がついたら、バイオリンをはじめていて、今も1日8時間弾いていると言う。
親は両親ともにプロのバイオリニストだ。日本では慶応に通っていて、学業共に優秀。すごいねって、大人たちから賞賛を受けながらも、笑顔は不自然だ。
 生きる導線が非常に薄く、自分の目からみると、この子の命は大丈夫なんだろうか?と思ってしまう。命を早くから削っている。まるでバイオリン弾きのマシーンだ。

音楽の早期教育。子供を演奏家にしたい親のための、音楽教育の裏の暗黙の了解になっているらしい「王道」の方法。
それが、子供の意思が働く前に、習慣化してしまうこと。

そうすると、ピアノをやることが好きか嫌いかを考えることもなく、自分の生活習慣の中に取り入れていき、疑わなくなるのだそう。毎日毎日続けていけば、それをやらないと、歯を磨かないのと同じように気持ち悪くなる。
そもそも、やらないと言う選択肢があることも知らないし、知らされない。
そして、それをやらないで過ごしてもいいよ、と何もない時間が与えられたとしても、どう過ごせばいいかもわからなくなる。

子供が楽器をやりたいとかやりたくないとか、そう言う意思が働く前に習慣づけることが大事だって?!

これって、楽器だけじゃないよな。

何が言いたいかわかる?
教育経験で、音楽家たちは知ってるの。
子供たちを洗脳する方法を。
子供の意思が働く前に、反応性を刷り込むことがいかに大切かを。

これは、音楽の世界だけの話じゃない。

発達段階を利用して、しつけと称して、幼少期から子どもの意思を奪って、権威者に服従させることに疑問を持たせないようにしている。
それが保育園、幼稚園・小学校の正体。

だれも、子どもたちに、「今日はどんな過ごし方をしたい?」と聞いて、その日の活動を決めたりはしない。やりたくない子には罰を与えて、その子は協調性がかけてると批判され、晒し者にされ、泣きながら無理に活動に参加させられるときもある。

子供に、自分の意思が尊重される世界があることを教えずに、言われたことに反応し、正確にこたえていく訓練していく「洗脳」が、この日本の教育界の真の目的なんだよ。

その結果、大人になった子どもたちは、自分たちの人生が何かおかしい、と感じながらも、その違和感の正体がわからない。
 自分の意思をはたらかせるべき場面で、なぜだか怖くなる。
人に相談しないと不安になる。理不尽へは、抵抗するより、我慢の方がなぜか慣れてる。選択を間違えないように、保証を得たくなる。

自分の人生って、自由なはずなのに、どうしたんだろう、わたし....
大人になって、こんな風に迷う、元「いい子」たちがたくさんいる。

そう。
間違えると、怒られるという、フィードバックしかない世界で20年もかけて訓練されたからだよ。
自由な自発性を抑えるよう、評価され、点数つけられ、奴隷の順応性を高めるために訓練されて、権威者にずっと見張られてきたじゃん。
その成果があがって、今や、日本人の多くが、社畜化してんじゃん。
労働組合でストやったって話もあんまりきかなくなったよな。
どこを見回しても、従順度の高い個人主義の社員がいっぱい。

今になって、日本人や企業が盛んに多様性って言うけど、その多様性だって、海外の多様性とは違う。枠組みのある中で求められた変化を出してね、という意味であって、本当に多様性を出したら、村八分になる。作られたウソの多様性。そして経営者は、名刺の出し方を間違えたりしない社員たちの多様性ポーズにまたまた満足。うちの会社はグローバル対応してます。マジか!?

同じTシャツ着て、団結!って叫んでるのと何がちがうんだろ。

ここでいう多様性って、内側から自然に沸き起こったものが表出してうまい具合に調和しているような、世界で言ってるあの多様性じゃないんだよね。

だから、日本人は大人になって、自分が何をしたら心からの幸せを感じられるかわからなくなる。高学歴のひとほど、人の評価が上がることは、人目を気にせず堂々と頑張れるけど、果たして、それは、本当にやりたいことなのかどうか?内側の自分の心に本当の意味で一致したことなのかどうかはわからないんだよね。だから結果を残しても、永久にコンプレックスだらけ。

どこまで頑張ったら、俺は満足できるのだろう?ってね。

本当は日本人は、賢くて真面目で努力家で優しくておおらかで精神と現実が調和した人たちだと思うのよ。
でも、それが発揮されないのは、自分の成長の大事な初期段階で、教育機関や既に洗脳が終わった代が教師となったこの枠組みの中で、子供たちが一斉に首に縄をつけられて自由な意思をもつ権利をうばわれてしまったからなんだ、ということに、そろそろみんな気がついて。

じゃあ、他の国、例えば、教育先進国のニュージーランドはどうしてるかというと、ニュージーランドの幼児の1日は、日本とは全然違う。
「子どもの意思」をどこまでも尊重している。

「今日は何をしたい?」と先生が聞き、ある子はお料理をしたい、といい、またある子は、絵を描きたい、またある子は大工仕事をしたいと言う。
すると、料理ブースで自由にお料理させて1日を過ごす子と画材一式を揃えてもらい、キャンバスに絵を塗ったくっている子どもと、金槌で木材をたたいている子供が同じ部屋にいて、3人とも自分の好きなことだけやって、楽しく満足した1日を過ごして帰る。先生は手を出さない。

このように、海外の幼児教育は、非認知教育に移行しているので、発達段階を踏まえて、自分の好きなことを実行するための「意志力」をはぐくむために、どこまでも子供自身の意思を尊重する。ひとは、自分のことを自分で決めることが人間の全ての基礎になるんだって、海外の教育者はちゃんと知ってるからなんだよ。

日本は、言われたことを理由を問わず、守るように教育するよね。
でも海外は、子ども自身が自分で最適な行動を選ぶ。
上の娘が通っていたインターナショナル幼児園の先生は、バイリンガルの日本人だったけど大変すぐれていて、園で決められてるカリキュラムをやるうえで、まず子供達にその課題について興味を持たせたり、問題意識を持たせたりするところから時間をかけて始めていた。

そして、子供達の気持ちが十分に高まってから、やってみたいかどうか、子ども達自身に意思確認をする。意見交換させる。自分たちで、自分たちの活動を決めさせる。世界を開くための、きっかけになる「面白さ」が子供たちに伝わるよう、十分に下準備しながら進めている。
運動会の種目も自分たちで決めさせていた。

ネイティブの教師達は、子ども達の結果を見るのではなく、自由にやらせて、新しいことに恐れずチャレンジしたことを評価する。目的を果たす方法も問わない。子供自身から自然に発される意思の力を育てているからなのだ。

もちろん私も、子ども達をそうやって赤ちゃんの頃から育ててきた。むちゃくちゃ手間暇と根気が必要でも、子供達の興味と意思を確認し、意思に沿うように動いてきた。安全上制限が必要な時以外、どこまでもこどもと同じ目線で一緒に話し合いをしてきたと思う。持ち物を買う時もそう。なんでも本人の意思を確認した。

だからそれもあって、強制収容所のように、管理者の言うことを聞かせ罰を与えるタイプの日本の教育機関では、娘は違和感に耐えられなくなるのだ。
そんなわがままに育てていいのか、と日本の普通の親はうちを見てびっくりすると思う。
でも、自分の意思で育った子ども達は、後が楽になる。やりたいことをやるために、自分で勝手に勉強しているし、やらされる人生は絶対に承諾しない。
その結果は、明白なんだよね。
ネガティブ・ガソリンで自分を律してがんばるより、ポジティブ・ガソリンで好きなことだけを猛烈にやる方が、伸びるし、実績も出すんだよ。

先週、オンラインの帰国子女だけの英語教室の面談があったけど、
普通は少なくとも進級許可が出るのにどんな子でも最低2年かかるけど、上の娘は半年で上のクラスに進級許可が下りたということを伝えられた。

なんと、実力がなければ絶対にお目こぼしなどしない、ネイティブの先生のほうから進級推薦があったのだそうだ。
普通の子の四分の一のスピードで実力が上がっていっていることになる。

振り返ってみると、娘に英語の勉強をしろと親から言ったことは、記憶にある限り、ない。(逆に英語を教えて、と頼むことはある。)
 そう、面白い教材をさがし、面白い動画を探し、面白い本をさがし、自分で勝手に勉強して、ネイティブレベルの英語を勝手に身につけていったのだ。
彼女は、面白いから、やっただけ。
自分に合うやり方で、自由に勉強していったから、使える実力がついただけ。

宿題も本屋で買った学習ドリルも、全部自分がやりたいといって選んで購入し、二人とも何も言わなくても机に座って、勝手にもくもくと取り組んでいる。
二人とも、自分がやりたいからやってるだけ。やりたくないことは絶対やらない。それだけ。

うちでは、親が勝手に決めたものはなにひとつない。
押し付けたものもないし、我慢させたこともない。
でも、子供たちは大体、どんな分野でも成果を出しているし、ストレスフリーなまま、しかも毎日が楽しいと言っている。
 こうなってくると厳密な管理なんてしなくてよくて、子供の意思で自分のやることを決めてもらい、その実行を手助けするだけでよい。

それくらい、ほんの赤ちゃんの頃から、子ども自身の意思を尊重するって大事なことなんだな、って今、思っている。

それだけに、自分で自分の未来をつかめないと思っていたという下の子供の言葉は、本当にやばいと思った。
日本の教育洗脳、環境の力、マジでヤバいと思った。


 下の子供は、自分のやりたいことがあったら自分で動けば、自分のほしい体験が得られることを、今回主役にチャレンジすることで学んでくれたので良かったけど、もし、それがなかったら、この子は従うのが当たり前だと思い込み、決められた役をして生きていくのが人生だ。と割り切って生きていく大人になったのかもしれないのだから。

いっとくけど、この先の未来は、マニュアルは通用しないよ。
世界は混沌とする。なにが本当かわからない世界になる。
今まで教わったことが役に立たない、未曾有を経験することになる。

答えのない世界で答えを自分で作り出していける子供に育てていくことが、今の世界のトレンド。今の日本の子供たちが、答えのない世界で生きていけるのかどうか。この日本には、ワクチンだけじゃない、さまざまなトラップが巧妙に張り巡らされていることを感じる。

日本で生まれて、日本の環境でそだってるから、下の子は別にインターナショナルの学校でなくてもいいかなと思ってた。
でも、やっぱりダメだ。きっと生気がなくなってしまうだろう。
生日中殺の子供は、自分のなかに大きな設計図を持っている。
親が思いもしなかった宇宙計画を持って生まれてきている。
その設計図を忘れずに、地球で実行してもらわなくちゃならない。

だから、意思の力を奪う、日本の教育機関にはこの子をもう絶対にやらない。
そう決めた。
この子の良さは、人と違うところなんだ。
自分だけの官能性の高い世界に浸る不思議ちゃんなところ。
幸せの元を持っている。
それを、みんなとおなじに刈り込まれたら、この子は生まれてきた役割を果たせなくなる。
生日中殺のこの子が世界にもたらそうとするものを、無事に世界に送り届けるまで守るのが、親として信頼された自分たちの仕事だ。

迷いが吹っ切れた。
よし、二人ともインターナショナル校に入れよう。
そのためには、なんだって頑張るさ。
自分の大きな財格を信じる。

というわけで、自分、一旦、決めたら早い。
速攻で、来月、関西のインターナショナル・小学校の体験授業と説明会に行くことになった。

次々と現実が変わる準備を始めている。
すべての子供たちの未来を守りたい。
これが私の宿命のもうひとつの意味でもある。
まずは私を信頼して生まれてきてくれた子供に、信頼でこたえたい。

道が開かれますように!

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