最近プライベートで、子育てでピカチュウとともに頭をかかえている。
それは、娘のことである。
娘が、毎朝のように、日本の小学校の「無理(無理強い)・無駄・ムラ」についてプレゼンテーションを繰り広げるからである。
玉堂星と龍高星を持つ人たちは、みんな本当は気がついてるんじゃないか?
この国の教育が、頭の良い人を潰すための教育システムをわざと構築しているということに。
いい加減、どこかで感じてることに、みんな正直になろうよ。
今日は玉堂星と龍高星をもつひとへ、一人の親として本気で語りかけたいという気持ちでこの記事を書いている。
玉堂星・龍高星の人たちは、学ぶ楽しさ、成長する楽しさ、昨日まで知らなかったことを知って自分の認識世界が広がるあの高揚感を、真の意味で知ってるはずだ。
そして、これらの星が宿命の頭の位置にあれば、さらに実際にも知能指数が高かったり、霊知が働き、一を聞いて10を知る。ある意味で学ばなくても「知っていたり」することがある。
でも賢いからこそ、人前で黙る、という選択をしてきたのではないか。
国が発展していくためには、その土台に絶対的に必要なのは、教育だ。
国民一人一人のなかに「教育」「知識」「教養」の厚みがあること。
Jリーグが発足して、日本のサッカーレベルが上がったように、国民全体が賢くならなければ、日本の知識層のレベルもあがらない。
しかし、今の学校教育の実態は、明治時代からやっている富国強兵のシステムをちょこちょこ手直ししたり、海外のモノマネをしてIT端末を授業のなかでなんちゃって取り入れているだけ。
本来、「学ぶ」とはなにか、をわかっている玉堂星・龍高星には、学校は楽しくてしょうがないところであるはず。
毎日、知りたいことを知り、学ぶ楽しさを味わって、面白い、興味深い、楽しい!ワクワクする!あらたな疑問が湧いてきた!
彼らにとって、学校生活は本来、こんな感想をもたらすものでなくてはいけないと思う。
だけど実態はどうなのか。
できる子供は、できない子供のために無駄な時間を費やす。平等の名の下に、習得や理解進度の違う子供が同じ教室で同じレベルの授業を受ける。
その中で何が起こるか。
本当に知能が高くて集団心理のカラクリに気が付いた子供の、子供時代が潰されることになる。
しかも、小学校も高学年になってくると、集団の無知の恐ろしさに気がつきはじめるので、万一、人よりもよくできると、揶揄されるからと、できるだけ目立たないように気配を消すようになる。恐れから、わざと回答を間違って人間関係力学のなかで、調整を計ったりもする。
勉強ができると、コンプレックスの強い人間の敵視を買うので、自分の能力や実力を隠し、周りのアホな人間の反応性を観察し、同調圧力に乗ることで、自分を守って乗り切っていくようになる。
万一、揉めたとしても「なぜそうなのですか?」という賢い子供の質問は「生意気」と反抗意識と取られ、教師やもめたお友達とは話し合いにはならない。
論理的でないことに判然としないまま、叱られなくてはならない。
肝心の授業は、先生が話すことはすでにわかっていたとしても、じっと座ってラジオのようにただ聞いているしかない。
もっと楽しいこと、知りたいことをやりたくて動き回ったとしたら、しかられるだけ。だからその時間、自分の意識は体から抜け出て、クラスにいない。
それでも、先生は統率が取れたクラスに大満足。
やりたくないことを他人に決められて、ノルマのように学校の課題をみんな一律でやらされる一年。それを後、何年続けるのだろう?
あなたも、そんな子供時代を送ってはいないだろうか??
玉堂星・龍高星をもつ人たちのこころに問いかけたい。
人間はどんなにみんな平等だといったとしても、脳の処理能力や発達段階は全員バラバラだ。生き物なんだから、バラエティがあって当たり前。
農業を考えればわかる。
手助けが欲しい時期にちょうどよくもらえればいいけど、時間を勝手に決められて、規則だからと自動で水を浴びせられ、植物の状態も見ずに土に肥料を突っ込まれたら、植物がダメになる。そこで成果を出して伸びるのは、たまたまその状態が適していた植物だけ。
悪いことに最近では、そういうバラエティそのものが邪魔になり、種子レベルから規格化したものをつかうようになり、農業ではF1のタネというのが好まれていて、それもまた「全員ワクチン受けましょう。新型ワクチンで丈夫な遺伝子組み換え人間のできあがりになりましょう。」という話と似ている。
自然界の事情をみてみれば、環境は毎年変わるし、植物の土台だって違う。土の状態だって見なければならない。植物をよく育てるだけで農家のこれだけの気遣いがあるのに、なぜ人間の子供にはなく、そうした個人の状況が無視されてしまうのだろう。
海外(英語圏・北欧)では、すでにどんな子供も自分の発達段階に合わせた教育を受けられるようになってきている。知能指数の高い子は、さらに高度なことに挑戦し、低い子は無理なことをさせてコンプレックスを生まないように、じっくりとケアを受けられる。そしてどんな教育を選んだとしても、それによって個人が見下されたり、優越したり、というようなことが社会通念上ない。
あの子は科学ができるけど、私はあの子にない優れたものを持っている。と海外の子供達は自分に誇らしげ。みんな違う良いところがある、そうした「違い」が当たり前だから、そもそも比べることに意味がない世界観があり、子供たち自身にそれを理解させる環境がある。
もともと海外は移民も多く、人種も文化もルーツも背景も違う、雑多な人間がつくるコミュニティなので、何を軸にして優劣を測るか自体、難しい事情も手伝っている。
でも、日本人は姿形が似通っている上にさらに一緒にしようと制服を着せ、同学年で一斉に同じことを学ぶから、養鶏場の鶏みたいに、社会規格の「品質」をより分別しやすくなり、集団が個人を見張るようになる。
そして日本のその教育背景には、いかにりっぱな企業戦士になれるかどうかという経済界の都合目線が働いている。
要するに富国強兵から、かわっていない。
学校の成績として子供たちが図られているのは、組織の歯車になれる根性があるかどうか、理不尽なことを命令されても黙って従えるか、人間性を捨てて優越し同僚を蹴落とせるか、というようなことが審査されているのである。
そんなことを言ったら、反対意見も来るだろう。もっと美しい世界があるよっって、私はそうじゃなかったよ。っていう人だっていると思う。
でも、本気で学ぶ楽しさを追求したかった子供である、玉堂星・龍高星を持つ人たちは、この国の教育システムがそもそも自分たちのためにあるシステムじゃないことを心の奥底でしっかり見抜いているはずだ。
海外で教育を受けた体験があるひとなら、なおさらそうで、一度知った天国は忘れられない。だから、再び海外へ戻り、この「無理・無駄・ムラ」の多い日本を捨てる。このように本当に判断力のある賢いひとたちが、国を愛しつつも、離れて海外暮らしを選ぶ。
今の日本は、本当に頭の良い普通の人が、暮らしにくい国になっているのだ。
そして、もう一つは、賢い人をみんなで叩き潰す社会通念があるということ。
娘が語るプレゼンテーションの端々には、日本の教育の矛盾を浮き彫りにしたエピソードが散りばめられていて、「ですから、私は日本の小学校へ行く意味がないと思っています。」で締めくくられると、親は何も言えなくなる。
教師の人間の器次第で、学校の印象もかわることも付け加えておきたい。教師運がなかった場合、教師の視野が狭いほど、学校は地獄に感じられるだろう。
ある日のこと、下の子供の幼児園のお迎えの帰りに、明らかに同年齢の子供と違う上の娘の教育が大変だった話をひとになんとなくしていたら、それを聞いていたあるママから、そっと打ち明けられことがある。
「本当に子育てが苦しかった。実はうちの子供も、1歳くらい周りと発達が違っていて、なんでもできたし、知能が高かったの。そのことで悩んで、周りのママ友にちょっとでも話したら、その瞬間、空気が変わったのを感じた。
自慢してんじゃねぇよって目線を一斉に向けられて、関係性にヒビが入ったのを感じて、いじめのターゲットになる。危ないと思った。以来、なにがあっても子育てを一人で抱え込むようになったの。率直に話せるって、すごいとおもって、今、わたしもそうだったこと、あなたには話すわ。」
発達が早いといっても、赤ちゃんは赤ちゃん、幼児は幼児であることには変わらない、その時にその親と子供が必要とする手助けが当然ある。
でも発達の早い子、次々と習得していく子供の親は、他のママ友と子育ての苦労をシェアして、ストレス発散する、みたいなことが許されない。
このママの吐露から、「みんなとおなじでなくてはならない」「優秀な奴を潰して自分の安泰を図れ」の日本の集団意識の通念のなかで、子供の発達の速さがバレないように、育てる側の親も目立たぬよう息を潜めているのが実態だということが伝わるだろうか。
そして、同年齢の成長曲線を上に外れている、という理由で「問題ないですよ〜」と言われ、いわゆる教育者や専門家からはなにもアドバイスや配慮が受けられなかった、という体験もしているのである。
そう、日本という国の一般大衆は、自分よりもできない子供や平均よりも劣っている子供に対しては、非常におおらかで優しく、理解を示そうとする。手助けも買って出る。
でも、抜きん出て優秀な子供をもつ親子に対しては真逆の反応を見せる。
自分たちよりもよい状況にあるに違いないと勝手に思い込み、自分たち親子を優越しようとしている脅威、と勝手に解釈し、過剰反応し、距離を置く。
「すごいねぇ〜」
「あたまいいんだねぇ〜」
言葉だけ。上っ面だけ。
欲しいのは、そんな言葉なんかじゃない。
頭が良くて特殊でも、頭が悪くて特殊でも、平均の頭であっても、親は子育てする大変さがあるんだ、ということへの普通のひとたちの理解と共感がないのである。
子供にしても、集団心理を恐れる親に「うちの愚息が」「いえいえ、アホで」と人前で言われたり、自分ができることを親が隠そうとしてるのを感じたら、自分を自分で牽制するようになる。
他人の子にたいしても自分の子に対しても、子供が成長した喜びにたいして、すべての大人が「よかったね!」「嬉しいよ」「誇りに思うわ」と素直に喜ぶ心理土壌があんまり日本にはないのである。
そして、ギフテッドといっても、その才能は一部で他の才能は平均以下であることもよくあって、子供の成長段階の発達のばらつきの一つであることには変わりがない。ギフテッドはオールマイティではないし、精神年齢だって色々。
第一、子供自身が好きなことや関心ごとへの情熱が異様に高いために、もっと先へ行こうとするなかで子育てマニュアルなどは全く通用しない。
そんな子供に合わせての、普通じゃない教育投資額も半端じゃなくなるんだということ、発達障害のお子さんと同じような苦労を親が背負っているという、もはや世界では当たり前の認識も、日本の一般親たちの頭の中にはない。
本当は、日本には優れた天才児がいっぱいいる。
学校が簡単で、退屈で、理不尽な状況がみえてみえて、苦しい。そして、リーズナブルでないシステムに従うのは、自分の心を失うかのようで、できなかった子供たちがこれまでもいっぱいいる。
そしてそんなシステムから外れた子供を、特殊な子供扱いしてダメだと弾いた昭和の日本社会も過去にはある。
本当にそうなのか?
ここで今一度、考え直していただきたい。
少なくとも、玉堂星・龍高星の人にはわかるはず。
学校というものは、本来、玉堂星・龍高星が通って意味があるとかんじられる人生の知恵や新しい世界をしるワクワクで詰まった場所であるべきなんだと、私は思う。この人たちが学校って楽しい!と言い出す学校が、本物の教育をしている場所だと思う。
玉堂星・龍高星は、本来偏差値など気にしない。(気にするのは、禄存星・司禄星・車騎星・牽牛星の星による)
ただ、大事な知恵を習得できた喜びをモチベーションにして生きているだけの人々だ。
人よりも学べて、それによって優越しようという気持ちは基本的にはない。
このひとたちは、ただただ、へぇ〜!面白い!と言いたい。他人に話してそれを分かち合いたい、そして、意見交換しながら、もっと面白い世界、面白い考えを知りたいだけ。
だけど、この純粋な知性のひとたちが本気で本領発揮しだしたら、この国の矛盾や不正が自ずとあぶり出されていってしまうから、日本を牛耳る権力者としては厄介な存在だ。だからGHQ占領後の日本は徹底的に教養層を潰された。
中国で文化大革命が起こったのは、あれはなんのためか。
中国の権力層を将来脅かすのは、中国大陸中の代々の知識層・教養層である。彼らは高い知性をつかって、人々を先導し、自分たちの権力を崩しにくる、だから文化大革命という旗を掲げ、彼らを根絶やしにすることで、権力を安泰にしなくてはならなかった。
それと同じような、ソフト文化大革命が日本でも起こっていたのを国民は知らない。
だからコロナでも、日本では免疫学の本物の学者がいうことが封じられ、たいしてウイルスや免疫学の専門でない形式だけのエセ専門家が国の方針を決めたりした。このコロナ騒動を通して、日本の知のレベルの本当の現状を、知性ある玉堂星・龍高星は密かに悟ったに違いない。
そういう日本人に本物の知恵をもってもらったら、日本が良くなってしまう。だからGHQは、玉堂星・龍高星を持つ本物の知識層を意図的に潰す必要があったのである。世界最古の歴史を持つ国の知識層の玉堂星・龍高星といったら厚みは半端じゃない。戦前生まれの日本人は相当に賢かったのだ。
アメリカのCIAには、そのためのマニュアルさえのこっていて、ウェブ公開されている。そういう組織を壊滅させるための工作活動のノウハウが実際にあった。そして、日本に、マスコミなどをうまく使いながら、あまり知恵が働かない人たちが、知恵のある人へわざわざ嫉妬を向ける仕組みや通念を作った。
無知な大衆の力を使い、本物の賢者や知識人を潰す仕組み。
人間性や感受性を育てる芸術や文化教育レベルの低下にしてもそう。
昨日、バレエ・ダンサーを目指す小学校5年生の男の子にきいた。
「僕がバレエやってるっていうと、みんなキモイっていうんです。お前、オカマか?女子に囲まれてなにやってんだ、っていうんですよ。僕は、この人たちには言ってもわからないと思うから、ぐっとこらえてやり過ごすんです。」
アホですか?アーティストをキモいという日本の子供たちは。
これって、本当にど田舎の、街に出てきたこともないひとの反応じゃないですか。ここは、アメリカのスラムですか?
もしも、日本が国を挙げて、文化や芸術に対して、子供達にしっかりとお金をかけて学ばせ、文化や芸術体験の理解の土壌をつくっていたなら、そんなことだれも言わないんですよ。
そこに打ち込んでいる人たちの情熱を肌で感じたら、とてもそんなこと言えないですよ。
日本人が全然気がついていないこと。
日本は今や、すげぇ三流人間だらけだってこと。
海外の人と話すと、かくいう自分もそうなってるのに気がついてないだけかも、と思う時があるくらいだ。
でもこれは私だけが勝手に言ってるわけではなく、世界三大投資家のジム・ロジャースも言っている。30年前の日本人を私は知っているが、今の日本人の劣化が激しすぎて目も当てられない、と彼はいう。
今の日本人はマニュアルを厳守し、目的を忘れる人間が増えていて、判断力が迷走しているのだという。これは歴史的に国家の末期症状だと言っていた。
私自身もこの間、こんな体験をした。
園で提出を要求されたこどもの健康診断書類の記入をお願いしに、小児科に行ったら、看護師に「ここはお子さんのかかりつけでないので、過去のデータがなく、お子さんが健康だという証明ができません」と言われたのだ。
「はぁ?うちの子、すごく元気で、皮膚科はかかりますが、小児科かかったことがないんでかかりつけはないんですが。熱をはかって平熱で、聴診器で心音聞いて、異常ないか調べるだけの簡易な健康診断でいいんですよ?」と聞くと
「いいえ、過去データによる実績がないと、子供が健康である保証ができませんので」と言われた。
聞き間違いか?と戸惑いながら、「いやいや、そんな未来永劫の健康まで過去のデータから保証してもらわなくていいんです。とりあえず現在、通園可能な肉体の状態ですっていうことを医者がサインしてくれるだけのもので、形式上の簡易なものなんで。」
と切り返したけど、
「だってサインをする以上責任が発生するでしょ。過去データがなければ証明がないので、何かあった時、健康かどうかは私たち、責任とれません。」と言い張る。
最後には、看護師5人を相手に、
「そんなバカな。そこまで責任を問うような書類じゃない。そんなクリニックがあるか。」と議論することになった。
小児科の先生を出してくれといったら、小児科の先生は帰っていないというので、「小児科の看板をだしてて、小児科医がいない?じゃあ小児を観れる医者がいないってこと?」ときいたら、「みれる医者はいます。」という。
「じゃあ、その人は初診の患者を見る時、どうやって健康だって判断するんだ?」と聞くのだが、なにからなにまで、理屈が通っているようで、その理屈が目的を果たさない。
「病気の診断はできるけど、健康であるという診断ができない医者ってどういうこっちゃ!じゃあ、あんたたちは何を診てるんだ。」としまいに私は怒り狂い、「へ理屈に走りすぎでしょ!」と看護師全員に怒鳴った自分である。
そんな病院がふつうにある。
また、思い出したわ。
妊娠初期に、子宮に激痛が走り出血もあったので、胎児が心配になり、近くの総合病院に行ったら、苦痛に耐えてる自分をまえに、看護師に、
「ここで産みます?産むならみてあげますけど、産まないならみませんから帰ってください。」と普通に言われたこと。
病院の切り替え時で、まだ次の病院が決まっていない時だったし、安定期でもないので、出産場所までまだ考える時期でもなかった。
しかも今いう時か?
ようやく観てもらった医師には「まだ気になるなら、もっと詳しくみてもいいですけど、どうします?赤ちゃん死んでもいいならみますけど?ハハ。」と言われたのである。
大事な子供の命を冗談にされた。
これ、妊婦ならみんな怒りますよね。いまだに、その病院の対応は忘れていない。こんななんですよ、神奈川県境・東京多摩地区のアホ病院の実態ってのはね。判断力がどんだけおかしいのかですよ。
外で夏にマスクしてるのも含めて。
確かに、日本の悪いところだけをいうのもどうか、っていう論調もあります。
でもね、こんなのを体験していると、日本素敵っていう外国人の動画を見て、うれしくなってるだけじゃないんですか。本当に素晴らしいですか?
今の日本...
って、日本の教育、教養世界の現実を見ても、やっぱり思いますね。
私の海外の修行仲間も、「日本って先進国だったのに、精神的に世界の常識的通念から考えてもかなり遅れてるよね、街に行くたびびっくりするよ、その経済力を国のどこに投資したんだろう、なんで日本人の価値観って僕らの40年前と同じなんだろう?」って言っていました。
情けなくて、答えることができないです。
日本=おらが村、なんです。ガラパゴスだってことにいい加減気がついて。
日本人が日本の伝統や文化や芸術を知らないのに、深い教養や理解を持とうとしている向学心のある外国人に褒められて喜んでる。
でも、そこで、褒められてるのは自分じゃないですよね。
日本人のなかで、頑張っている一部の日本人がその外国人に褒められてるだけですから、褒められてるのはどう考えても、自分じゃないですね。
普段、優秀な人を潰しておいて、優秀な人が世界で褒められたら、自分の手柄。おなじ国籍だってだけで、自分もその優秀な人の仲間のつもり。w
心の中に目の前の優秀な人に嫉妬の目をむけ、牽制する自分がいるのに、ほんとに変な話なんです。
日本人の大多数って変だよ!
いつもそう思っています。
話を戻しましょう。知性の話です。
いや、自分が知性高いわけじゃないんです。
私は平均ちょっと上くらいの知能しかありません。
ですので、私の知恵は基本的に私よりも優秀な人からもたらされたものであることを断っておきます。
でも、自分はそれで満足してます。なぜって、平均ちょっと上の人っていうのは、知能指数がえらく高いひとたちのいう話をなんとか解釈できて、平均と平均以下を含む80%の人口に対して、超賢い人の話をわかりやすく噛み砕いて伝える能力があるってことだからです。天才ともアホとも、とりあえずの話ができるわけなので、むしろよかったなぁ、と。それに、公立小学校でも、居眠りしてたけど、まぁ、嫌だったけど、そこそこ理不尽な世界でも楽しめたといえるのかもしれません。
でも知能指数が130以上の人になってくると、そんな私の学校嫌いの事情とは訳が違ってきます。知能指数100以下の人が130以上の処理能力を持つ彼らの話についていき、理解することはほとんど難しくなります。
130以上の人たちがどんなに力を尽くしても、処理する情報量や知性の格差がありすぎて、平均か知能指数の低い人たちに、自分たちの考えていることを理解してもらうことができないんですからね。
子供の彼らは、その状況が辛いんです。
自分っておかしいんだ、と悩みます。
そして理解できない低い側からしてみれば、コンプレックスを刺激するクールなこの人たちを変なやつだ、と排斥する気持ちが生まれてきます。オタク、ガリ勉などと意味不明なレッテルをつけて、いじめ始めます。
そして、賢い子たちは先生が言う「みんなで仲良くしましょう」を守ろうとするので、その前提ルールがなかなか理解できないアホな子供に、一方的にやられっぱなしにもなります。先生に言いつけても、状況は変わりません。
アホはアホなんで、そもそも修正力がありませんので。
そんな環境では、圧倒的少数の本当に賢い子供たちが、教育の初期段階で潰されていくんですよ。
国にとって大きな損失だと思いませんか?
賢い子たちが賢いままでいられる教育システムが必要ですよ。
それに私たち平均周辺、それ以下の人間は、本気で日本を良くしたいと思ったら、自分よりも優秀な人材を中枢に送らなければ結果として恩恵を受けることがないという、自分の目先の損得を超えた遠い利益に対する理解がどうしても必要です。
みんなで優秀な人材を育てる意識がいるんです。
それにはあらゆる面で、自分にはない優れたものをみんなで大切にしようとする心が根底にあってのことです。
そして、教育の中でそれを育むのが芸術です。
だから公の教育の中では、本当はプログラミングができることよりも、人としての土台や豊かさを育む非認知能力の方がよほど大事なんですよ。
芸術は、一つの軸だけで優劣を作りません。逆に感性の違いをみとめあうことを学べます。
あなたもわたしも大切な人間。
人の尊厳を育みます。
このように、日本の教育機関は、大多数の平均から外れた人間が楽しく学校生活を送れる場所がありません。埋もれたキッズはいっぱいいるはずです。
え、そういう人は東大を目指せばいいじゃないか、って?
勘違いされていますが、ギフテッド・キッズだからって、偏差値の高い大学で偏差値の高い学科へ進学したいと思うとは限りません。
やりたいことが様々だからです。
彼らが彼らのおもうまま好奇心を満たし、自由に人生が生きられる教育をください!!
これがギフテッドキッズの親の私が思う願いです。
学校へ行きたくない。
英語圏の学校へ移りたい。
と娘は毎週、懇願します。
下記が小学校二年生の言い分です。
”私は、毎日教室でロボットのように固まっていれば、「いい子」になる。
どんなに興味がなくても、先生の話していることをただ聞いてるだけで勉強したことになり、そうやってやりたいことやれずに、誰かに決められ、みんなとおなじ動きに合わせて1日が終わる。
今日も、一時間の授業で、学んだのは、たった三つだけ。
お友達と楽しくやろうと思っても、クラスメイトは、他の友達の学校の規則を守ってない部分を見つけ出して批判することに一生懸命になって、本当のともだちになんてなれっこない。お父さん、お母さん、そんな1日にどんな意味があるんですか?”
正直、私も娘の問いに答えられません。
とはいえ、詰め込み式ではない高度な教育を受けたり、インターナショナルの学校に行くには、親の方にも経済的・海外履歴条件が課せられたり、月に換算して20万円相当の学費がかかります。
たまたまギフテッドの子供達の生まれた先が、高額な教育費を出せる家庭とも限りません。
海外と同じように、こう言う子たちに国民の理解と優秀な教師をつける国の援助が必要なんです。
平均的な子供で生まれ、普通に暮らしていれば、経済的にも親の悩み的にも、そんなに頭抱えることもなかったはず。
変わった人は、日本では暮らしにくい。
うちなんて本当に序の口で、日本人は世界的にも知能が高いということが、学識者のエビデンスの取れる研究で分かっていますので、もっともっとすごい子供が実際はたくさんいるはずなんですよ。
親が変な子だと思ってるだけかもしれない。
もし、ギフテッドの子が目に見えて天才ならば、説得力あるのでまだ良いでしょう。孫正義さんの援助が受けられたりします。
でも、わかりやすい天才でない、ギフテッドのグレーゾーンの子達は、わかりやすい実績がありませんので、日本の教育環境は辛いと思います。
うちの娘はポエムを書くのが好きで、自作の詩を読み上げてくれますが、その子たちが、うちの子供のように、学べない苦しみを言語化できるかというと必ずしもそうじゃないと思います。言語は凹んでいても、計算能力は突出してるタイプかもしれない。その能力は大人が見出さないとみつけられないまま。
なんにせよ、本気で日本を良くしたいと思ったら、できるやつを潰す行動、やめましょうよって、思うわ。
そもそも、日本人は「嫉妬」をやめなくてはなりません。持っている(と思い込んでいる)人を嫉妬するのをやめて、ひとと比べるのをやめて、自分の自己肯定感をもっとあげてほしいです。
どこの組織にも互いの嫉妬を利用して、互いの力を削いで、漁夫の利を得ている権力層がいるんだということに、もうそろそろ賢い人たちほど、気がついて欲しい。
実は、あとひとつ、地域の教育現場でも言いたいことがある。
上の子も下の子の時もそうだけど、比較的裕福な人の通う幼児園に通っていると、ものすごい違和感を感じる。
具体的にはこんなことを体験した。
保護者会がおそろいTシャツをすでに制服もあるのに園児に着せることを決定したので購入しろという。
その価格が八千円。
ええ?西松屋で、それなら、三百円のTシャツ売ってるよ?
そこに絵でも書けば?
でも、団結を表すために、そろいのオリジナルTシャツを強制で着るんだと言う。
(Tシャツ着ることがイコール団結ってなんだよ、それ。
バカじゃねぇの。)
と正直、本音でいうとそう思った。
バカ親集団は、おしゃれキッズTシャツに浮かれていたけど、考えてもみて欲しい。チャリティTシャツならまだわかる。欲しい人が買えば良い。
が、同じ園にかよっていても、一人一人の経済事情は違う。子供の教育のため、ギリギリがんばって通わせてる親も、余裕で入れてる親もいろいろいる。その事情は、表にはけっして出てこない。
だからこそ、集団決定には、配慮しなくてはならないはず。全ての家庭にとって、簡単に出せる八千円なのか、そうじゃないのか、わからないからだ。
しばらく様子を見ていたが、そういうことがまったく考慮されずに押し通される保護者会計画に腹を立て、園に向けて抗議を展開したのは自分だけだった。
もし経済的に大変な人がいた場合、そのひとは買えないとはいえないし、貧乏だと思われたら恥ずかしいので、ほとんどの人はノーとは言えないだろう。
だから自分が言ってやる。
負担を背負うような価格で、教育に直接意味のない一部の人のこだわりによる強制決定っておかしいと思う、そういう組織なら、保護者会つくるのやめてください。
と猛烈批判した。
(もちろんうちにはTシャツを買う金はあるけども。)
本物の団結というのは、弱い立場の人に負担が行かないように、ゆとりのある人が思いやったり、その逆もあったりして、関係性の中でうまれてくる無形のものだと思う。自分の体験や行動を通して、結果として自然に感じるものが団結であり、Tシャツきれば、団結していると考える発想がそもそもおかしい。気持ち悪い。
だったらそういうひとは、共産党の国民服をありがたがって着てて欲しい。
そのことを、園長にもつたえたが、
「よいこころでやったことなんですから、なにが問題なのかわからない」と返ってきた。だれもが平等に教育を受ける機会の権利に関して理解がないこの園と保護者はもうダメだと思い、今後の園に対する応援や協力をこの時点でやめることにした。
しかし、さらに超最悪なことが起きた。
ピカチュウが、私が不買運動をしている、そのTシャツを僕もください〜とニコニコで買ってきたのだ!!!
馬鹿野郎....
「もう、お前とは離婚したい。ふざけんな!お前は私をどういう人間だと思っていたのか。もっと根本的に社会的な意義をかんがえろ、金輪際、縁を切りたい。」としばらく冷戦が続いたのは、いうまでもない。
そういう意味で、私は信念のひとである。
このように、どんな家庭の事情があるかわからない子達に負担がないように運営していき、できるだけ多くの人に教育の機会を開こうという基本的な常識が金持ち幼児園ではまったく理解されない。
不用品をうちうちのリサイクルで下の学年に無料で回そうという考えもない。教育外の出費が増え、おかしな園文化がはびこれば、「いい教育だ、ぜひ、子供に与えてやりたい」とわかっていても、普通の家庭の親には、経済事情から手に届かなくなってしまう。金持ち親にしたって、逆に、もし社会状況が変われば自分が苦しくなることだってあるんだってことが、なんで理解できないのだろう、と思う。そういう見せかけだけの世界が私は嫌でたまらない。
どの子供も安心して通えるよう、倫理に配慮して欲しいし、教育だけは平等な機会であって欲しい。
金持ちコミュニティでは、自分さえ良ければ、勝ち組!と、園も教育方針もそれで突き進んでいる人たちが多い、という事情を知っていただきたく、日本人の教養劣化の一例をあげさせてもらった。
そんなわけで、親自身が内心、教育環境も保護者も最悪だ、と思ってんだから、子供が家にいると都合悪くても、学校行きたくないと言う子供に我慢しなさい、とも言えないんだよね。
本当に頭かかえてしまう。
でも、まぁ、
ここんところ、結局、プレゼンで説得させられたパートナーのピカチュウが、承諾したため、上の子供は最近、学校へ行かない選択ができて幸せそう。
そして、娘は自分でどんどん自習し、オンラインで土曜日だけやってる、ネイティブの英語教師と帰国子女たちとの授業に生き生きと取り組んでいますよ。
正直、いいんだか、悪いんだか、正解はないですが.....
この先、日本がたとえ、どんな状況になったとしても、子供は未来だから、子供たちが苦しい目に合わない時代であって欲しいよね。
そして、子供達に繊細なケアが行き届く教育界であって欲しい。
金持ちのバカ親がはびこってきている日本の教育界に、時代を問わず、生まれた家の経済力にもかかわらない教育、誰か本物の知性を入れて欲しい。
日本の本当の知性を支える玉堂星・龍高星を持つ子供たちが、十分な働きができ、人生を楽しめる世の中になって欲しいんだよ。
大人になった賢い龍高星と玉堂星が、自分たちの受けた教育とは違う、本当の知性を子供に伝える教育大改革をしてくれたら、そして自分が受けてみたかった世界水準の教育を新しい時代で実現してくれたら、次の世代が明るいものになるんです。
2028年になると、日本がまったく別社会になったのを痛感するって、預言者たちは言ってる。
そのとき、日本の教育がそれにふさわしいものにかわっていて欲しい。
玉堂星さん、龍高星さん、あなたの本物の知恵を、今おかれている立場から、日本に貸してくださいね。
よろしくお願いします。