言葉にできない違和感
その日、カウンセリングルームに入ってきたクライエントは、少し緊張した面持ちだった。椅子に座ると、バッグを膝の上に置き、何か言いたいことを探すように視線を泳がせた。
「えっと......どこから話せばいいのか、よくわからないんですけど」
クライエントは小さく息を吐いた。
「実は、結婚して数年になるんですが、最近、なんというか......モヤモヤしてるんです」
ダイキは静かに頷いた。
「モヤモヤ、ですか。どんな感じのモヤモヤでしょう?」
クライエントは少し考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「夫とは、結婚前から『お互い自立した関係でいよう』って話してたんです。私も仕事を続けたいし、夫も自分のキャリアを大事にしたい。だから、家事も分担して、お互いの時間も尊重して......って」
「うんうん」
「でも、なんか......違うんです。最初はうまくいってると思ってたんですけど」
クライエントの声が少しトーンを落とした。
「どのあたりから『違う』って感じ始めましたか?」ダイキは穏やかに尋ねた。
クライエントは少し考え込んだ。
「いつからなんでしょうね......気づいたら、ずっとモヤモヤしてた気がします」
クライエントは手元のバッグをぎゅっと握った。
「でも、はっきり『これが嫌』とか言えないんです。夫は優しいし、家事もちゃんとやってくれるし、何も文句はないはずなのに......」
「文句はないはず、なのに?」
「なんか、寂しいような、でも夫に合わせすぎてるような、でも距離を取りたいような......」
クライエントは言葉を探しているようだった。ダイキは待った。
窓の外を通る車の音だけが、静かな部屋に響いた。
しばらくの沈黙の後、クライエントがぽつりと言った。
「私たち、本当に『対等』なんでしょうか?」
その言葉には、深い疑問と、少しの寂しさが混じっていた。
「対等」の理想と現実
ダイキは少し間を置いてから聞いた。
「『対等』って、お二人にとってどんな状態ですか?」
クライエントは窓の外を見ながら答えた。
「お互いに自由で、でも支え合える関係......だと思ってました。どっちかが我慢するんじゃなくて、両方が自分らしくいられる関係」
「なるほど。それは素敵な関係ですね。でも、今はそうなっていないと感じる?」
「そうなんです」クライエントは頷いた。「たとえば、夫は週末に趣味のサークルに行くんです。それはいいんですけど、私が友達と会う予定を入れようとすると、なんとなく『今週末は家のことやらなきゃ』って思っちゃって」
「ああ......」
「で、結局私が予定をキャンセルして家事をする。夫に何か言われたわけじゃないんです。でも、私が勝手にそうしちゃう」
ダイキは静かに聞いていた。
「夫は『自分の時間を大切にしよう』って言ってくれるんです。でも、私がそうすると、なんか罪悪感があって......」
「罪悪感、ですか」
「はい。なんでしょうね、これ」クライエントは困ったように笑った。「夫は何も言ってないのに、私が勝手に『やらなきゃ』って思っちゃう」
ダイキは少し考えてから言った。
「もしかしたら、『対等』って言葉の意味が、お二人の中で少しずつ違うのかもしれませんね」
クライエントは少し驚いたように顔を上げた。
「どういうことですか?」
ダイキは椅子に座り直した。
「たとえば、夫さんにとっての『対等』は、『お互いが自由に行動できる』ことかもしれません。でも、あなたにとっての『対等』は、もしかしたら違うものなのかも」
「私にとっての対等......」
クライエントは自分の言葉を反芻するように、ゆっくりと繰り返した。
自主性と親密さの綱引き
「あのですね」ダイキは言葉を選びながら話し始めた。「人には誰でも、自分で決めたいっていう気持ちがあります。これを『自主性』とか『自律性』って言うんですけど」
「はい」
「それと同時に、大切な人とつながっていたいっていう気持ちもある。これが『親密さ』ですね」
クライエントは頷いた。
「で、この二つって、時々綱引きみたいになるんです。自分の時間を大切にしようとすると、相手との時間が減る。相手に合わせようとすると、自分の時間が削られる」
「ああ......まさにそうです」クライエントは小さく息を吐いた。
「でもね」ダイキは続けた。「本当は、この二つって対立するものじゃないんです」
「え?」
「自主性と親密さって、どっちかを選ぶものじゃなくて、両方があって初めてうまくいくものなんです。自分らしくいられるからこそ、相手とも深くつながれる」
クライエントは少し考え込むような表情になった。
「でも......どうやって? 自分の時間を取ったら、相手との時間が減りますよね」
「それはそうですね」ダイキは頷いた。「でも、『時間の長さ』だけが親密さじゃないと思うんです」
「どういうことですか?」
「たとえば、一日中一緒にいても、お互いが本音を言えなかったら、本当につながってるって言えるでしょうか?」
クライエントははっとした表情になった。
「逆に、会う時間は短くても、その時間に心から話せたら、すごくつながりを感じられますよね」
「......はい」
「だから、大事なのは時間の長さじゃなくて、その時間に『自分らしくいられるか』なんです」
クライエントは静かに頷いた。
ダイキは優しく聞いた。
「今、ご自分が『夫に合わせすぎてる』って感じるのは、どんな時ですか?」
見えない「役割」
クライエントは少し考えてから答えた。
「たとえば......夫が疲れてる時とか。私も疲れてるんですけど、『私が夕飯作らなきゃ』って思っちゃう」
「なるほど」
「夫は『外食でもいいよ』って言ってくれるんですけど、なんか申し訳なくて。『私が妻なんだから、作らなきゃ』みたいな」
その言葉を口にした瞬間、クライエントは少し驚いたような顔をした。
「......あれ?」
ダイキは静かに待った。
「今、『妻なんだから』って言いました、私」
「はい」
クライエントは自分の言葉に気づいたように、少し俯いた。
「夫さんから『作ってくれ』って言われたわけじゃないんですよね?」ダイキは確認するように聞いた。
「言われてないです。むしろ『無理しなくていいよ』って言ってくれてます」
「でも、あなたは『作らなきゃ』って思う」
「はい......」
「それって、誰のためですか?」
クライエントは言葉に詰まった。
しばらくの沈黙の後、クライエントは小さな声で言った。
「......わからないです。夫のためだと思ってたけど、本当は......」
「本当は?」
クライエントは両手で顔を覆った。
「本当は......自分のためかもしれません」
その言葉と同時に、クライエントの目から涙が溢れた。
崩れる「べき」
ダイキはティッシュの箱をそっと差し出した。
クライエントは涙を拭きながら、震える声で言った。
「私、ずっと『ちゃんとした妻』でいなきゃって思ってたんです」
「ちゃんとした妻......」
「はい。母がそうだったから。母は専業主婦で、家のことは全部やってました。父は何もしなくて、でも母は文句一つ言わなくて」
クライエントの声が少し強くなった。
「私、そんな関係は嫌だって思ってたんです。だから結婚する時、夫に『私も働き続けたい。家事も分担しよう』って言ったんです」
「うん」
「夫は『いいよ、対等な関係でいこう』って言ってくれました。すごく嬉しかった」
クライエントはまた涙を拭いた。
「でも......頭では『対等がいい』って思ってるのに、心のどこかで母の姿が浮かぶんです。『妻はこうあるべき』って」
「それが、罪悪感の正体かもしれませんね」
「そうなんです。夫が家事をしてくれる時、『ありがたい』って思うと同時に、『私がやるべきなのに』って思っちゃう」
クライエントは深く息を吸った。
「これって......おかしいですよね。私たち、対等な関係を目指してるのに」
ダイキは穏やかに言った。
「おかしくないですよ。むしろ、すごく自然なことだと思います」
「え?」クライエントは顔を上げた。
「私たちって、育ってきた環境の中で、いろんな『こうあるべき』を学ぶんです。親の姿を見たり、周りの人の話を聞いたり。それが無意識のうちに刷り込まれてる」
「ああ......」
「だから、頭で『対等がいい』って思っても、心が『でも妻はこうすべき』って言ってくる。その矛盾が、モヤモヤの正体なんです」
クライエントはゆっくりと頷いた。
「じゃあ、どうしたらいいんでしょう? この『べき』から、どうやって自由になれますか?」
ダイキは少し考えてから聞いた。
「この『べき』について、何か言ってますか?」
伝えられなかった本音
クライエントは少し考えてから答えた。
「前に一度、『無理しないで』って言われたことがあります。私が体調悪いのに家事しようとした時に」
「その時、どう感じました?」
「正直......嬉しかったです。気遣ってくれてるんだなって」
「でも?」
「でも、同時に『やっぱり私がやらなきゃ』って思っちゃって」
ダイキは頷いた。
「あなたが無理してることに気づいてるんですね」
「そうみたいです。でも、私はそれを受け取れない」
「なぜだと思いますか?」
クライエントは少し考えてから、ぽつりと言った。
「......怖いんだと思います」
「怖い?」
「はい。『私が何もしなかったら、夫に必要とされなくなるんじゃないか』って」
その言葉を口にした瞬間、クライエントの涙が再び溢れた。
ダイキは静かに待った。
「ずっと......ずっと怖かったんです」クライエントは震える声で言った。「夫は優秀で、仕事もできて、一人でも生きていける人。私なんかいなくても......」
「あなたは、ご自分が必要とされてるって感じられないんですね」
「はい......だから、せめて家事くらいちゃんとやらなきゃって。それが私の存在意義だって」
クライエントは両手で顔を覆った。
「でも、それって違いますよね。私、夫を信じてないんですよね。『対等な関係』って言いながら、本当は対等だって信じられてない」
ダイキは優しく言った。
「気づけたことが、大きな一歩ですよ」
「でも......どうしたら信じられるようになりますか?」
信頼と自己開示
ダイキは少し前のめりになった。
「まず、ちゃんと話してみるのはどうでしょう?」
「話す......」
「そうです。今感じている不安のこと、『べき』に縛られてること、でも本当は対等な関係でいたいこと。全部」
クライエントは不安そうな顔をした。
「でも、夫に『私、あなたに合わせすぎてた』とか『必要とされてるか不安』って言ったら、気を悪くしないでしょうか」
「気を悪くすると思いますか?」
「......わかりません。でも、そんな弱い自分を見せたら、もっと『この人、大丈夫かな』って思われそうで」
ダイキは静かに言った。
「でも、『無理しないで』って言ってくれたんですよね?」
「はい」
「それって、あなたの弱さを受け入れようとしてるってことじゃないですか?」
クライエントははっとした表情になった。
「そういえば......」
「あなたが『ちゃんとした妻』であることを求めてますか? それとも、『あなた自身』でいることを求めてますか?」
クライエントは少し考えてから、小さな声で言った。
「......自分自身、かもしれません」
「だったら、その『自分自身』を見せてあげてもいいんじゃないですか? 不安も、弱さも含めて」
クライエントの涙が止まった。
「でも......怖いです」
「怖いですよね」ダイキは頷いた。「でもね、本当の親密さって、完璧な自分を見せることじゃないんです」
「じゃあ、何ですか?」
「ありのままの自分を見せて、それでも受け入れてもらえること。そして、相手のありのままも受け入れること。それが本当の親密さだと思います」
クライエントは静かに涙を拭いた。
新しいバランスの模索
「それとね」ダイキは続けた。「『対等』って、完璧に50:50にすることじゃないんです」
「え?」
「たとえば、今週あなたが忙しかったら、夫が家事を多めにする。来週は逆。その時々で柔軟に変えていく。それが本当の『対等』だと思います」
「ああ......」
「大事なのは、お互いが『自分で選んでる』って感じられることなんです」
クライエントは目を見開いた。
「自分で選んでる......」
「はい。『やらされてる』んじゃなくて、『自分で選んでやってる』。それが自主性ですね」
「でも、それって相手に甘えることになりませんか?」
ダイキは微笑んだ。
「甘えることと、頼ることは違いますよ」
「どう違うんですか?」
「甘えるっていうのは、相手に全部任せて、自分は何もしないこと。でも、頼るっていうのは、自分ができない時に助けを求めること」
クライエントは考え込んだ。
「そして」ダイキは続けた。「あなたも頼られることで、つながりを感じられるんじゃないですか?」
「......はい」クライエントは小さく頷いた。「夫が『手伝って』って言ってくれる時、嬉しいです。『必要とされてる』って感じます」
「それと同じですよ。あなたが頼ることで、あなたとのつながりを感じられる。お互いに頼り、頼られる。それが本当の意味での『相互依存』なんです」
クライエントの顔が少しほぐれた。
「相互依存......」
「はい。一人で全部やることが自立じゃないんです。必要な時に助けを求められて、相手の助けも受け入れられる。それが本当の自立だと思います」
クライエントは深く頷いた。
「なんか......少し見えてきた気がします」
対話という選択
「じゃあ......」クライエントは少し考えてから言った。「まず、夫と話してみます」
「いいですね」ダイキは頷いた。
「何を話せばいいでしょう?」
「難しく考えなくていいですよ。今日ここで気づいたこと、『私、こうあるべきって思ってた』とか、『本当は不安だった』とか。それを素直に話してみてください」
クライエントは頷いた。
「それと」ダイキは付け加えた。「聞いてみてください。『あなたはどう思ってる?』『私たちの関係、どう感じてる?』って」
「夫の気持ち......」
「そうです。対等な関係って、一人で作るものじゃないですから。二人で話し合って、二人で作っていくものです」
クライエントは深く息を吸った。
「怖いけど......やってみます」
「怖いのは当然ですよ」ダイキは優しく言った。「でも、その怖さを乗り越えて話すことで、関係はもっと深まると思います」
「そうですね......今まで、一人で抱え込んでたんだなって」
「気づけたことが、本当に大きな一歩です」
クライエントは立ち上がり、ダイキに軽く頭を下げた。
「ありがとうございました。夫と、ちゃんと話してみます。自分の弱さも、不安も、全部」
ダイキは笑顔で見送った。
窓の外では、春の日差しが優しく降り注いでいた。
エピローグ:二週間後
二週間後、同じクライエントが再びカウンセリングルームを訪れた。
今度は、前回とは違う、少し明るい表情だった。
「どうでしたか?」ダイキは穏やかに聞いた。
「話しました」クライエントは少し照れたように笑った。「夫と、ちゃんと」
「そうですか」
「最初はすごく緊張しました。でも......夫、ちゃんと聞いてくれて」
クライエントは少し涙ぐんだ。
「私が『ちゃんとした妻でいなきゃって思ってた』って言ったら、夫、『そんなの求めてないよ』って」
「うん」
「『俺は、お前が一緒にいてくれるだけでいい。完璧な妻じゃなくて、お前自身でいてほしい』って」
クライエントは涙を拭いた。
「それで、泣いちゃって。そしたら夫も泣いて......『実は俺も、お前に嫌われたくなくて、いつも気を使ってた』って」
「気を使ってた」
「はい。夫も『本当は疲れた時、甘えたいって思ってた。でも、それを言ったら俺が弱いって思われるかなって』って」
ダイキは静かに頷いた。
「お互いに、同じことを思ってたんですね」
「そうなんです」クライエントは笑った。「二人とも、『相手に嫌われたくない』って思って、本音を言えなかった」
「それで、今は?」
「今は......少しずつ、本音を言えるようになってきました。『今日疲れたから、夕飯買ってきてほしい』とか、『今週末、一人で友達と会いたい』とか」
「いいですね」
「はい。で、夫も『俺も今度、一人で釣りに行きたい』とか言ってきて」クライエントは笑った。「お互いに、自分の時間を持つことにしました」
「それで、関係は?」
「不思議なんですけど......お互いに自分の時間を持つようになってから、一緒にいる時間がすごく楽しくなったんです」
ダイキは微笑んだ。
「それが、本当の『対等』なんでしょうね」
「はい」クライエントは頷いた。「お互いが自分らしくいられて、でもちゃんとつながってる。そんな関係」
「素敵ですね」
「まだ完璧じゃないです。時々、また『べき』が顔を出すこともあります。でも、そういう時は夫と話すようにしてます」
「それでいいと思いますよ」ダイキは言った。「『対等な関係』って、一度作ったら終わりじゃないですから。毎日、少しずつ、二人で作り続けていくものなんです」
クライエントは深く頷いた。
「ありがとうございました。ここに来てよかったです」
「いえいえ。あなたが自分で気づいて、自分で行動したんですよ」
クライエントは立ち上がり、ダイキに深々と頭を下げた。
そして、前回よりも軽やかな足取りで、部屋を出ていった。
カウンセラーの振り返り
クライエントを見送った後、ダイキは窓の外を眺めながら考えた。
「対等な関係」という言葉は、現代ではよく耳にする。でも、その意味を本当に理解して実践できている人は、どれくらいいるのだろう。
対等とは、お互いが完璧に同じことをすることではない。
お互いが自分らしくいられて、でも相手のことも大切にできる。
そのバランスを、二人で話し合いながら作っていく。
それには、自分の弱さや不安を見せる勇気が必要だ。
そして、相手の弱さや不安も受け入れる寛容さが必要だ。
簡単なようで、実はとても難しい。
でも、それができた時、本当の意味での「対等な関係」が生まれるのだろう。
自主性と親密さ。
一見矛盾するようでいて、実は車の両輪のように、どちらも必要なもの。
自分らしくいられるからこそ、相手とも深くつながれる。
相手とつながっているからこそ、自分らしくいられる。
そんな関係を、あのクライエントは夫と一緒に作り始めた。
ダイキは小さく微笑んだ。
窓の外では、新しい季節の風が吹いていた。