貯金が減っていく恐怖
ダイキのカウンセリングルームに入ってきたタカシさんは、少し疲れた表情をしていた。椅子に座ると、まずは深呼吸をしてから口を開いた。
タカシ「ダイキさん、最近全然眠れないんです。夜中に目が覚めて、スマホで銀行口座の残高を確認してしまうんですよね...」
ダイキ「夜中に、ですか」
タカシ「はい。もう何度も見てるのに、また見ちゃうんです。当たり前ですけど、残高は減ってるだけで増えてない。それを確認するたびに、ドキドキして...」
タカシさんは言葉を切った。その表情には、言葉にならない不安が浮かんでいた。
ダイキ「残高を確認する時、どんな気持ちになりますか?」
タカシ「......怖いんです。このまま減り続けたら、どうしようって」
少し間を置いて、タカシさんは続けた。
タカシ「前の会社を辞めてから、もう10ヶ月経ちました。最初は貯金が400万円くらいあったんです。でも今は...250万を切ってます」
ダイキ「10ヶ月で150万円ほど...」
タカシ「そうなんです。月に平均すると、15万円くらい使ってることになりますよね。でも失業給付をもらってた期間もあったから、実際はかなり使ってて...」
タカシさんは手元の資料を見ながら、少し早口で説明を続けた。
タカシ「社会保険が月3万円、住民税が月2万円、家賃が5万円。それだけで10万円です。食費と光熱費で4万円として...月14万円は最低でもかかる。でも収入がないから、全部貯金から出ていくんです」
ダイキ「収入がない中で、毎月そのくらいの支出が...」
タカシ「はい。しかも、これだけじゃないんです」
「自己投資」という名の出費
タカシさんは、少し躊躇するような表情を見せた。
タカシ「転職活動のために、いろいろお金を使ってしまったんです...」
ダイキ「転職活動のために、というと?」
タカシ「まず、資格のスクールに通いました。30万円です。それから、キャリアコーチングを受けて...これが15万円。あとは、スーツを新調したり、ビジネス書を買ったり...」
タカシさんは指を折りながら数えていく。その様子からは、自分でも驚いているような雰囲気が感じられた。
タカシ「全部で...たぶん60万円くらい使ってます。貯金の減少分の半分近くが、こういう『自己投資』なんです」
ダイキ「60万円を、転職活動のために...」
タカシ「そうなんです。でもこれって、必要な投資だと思ってたんです。『転職するなら、スキルを磨かないといけない』『プロのアドバイスを受けないと成功しない』って、いろんな人に言われて...」
そう言って、タカシさんは少し言葉に詰まった。
タカシ「でも、結果が出てないんです。書類選考は通るようになったけど、面接で落ちる。もう20社以上受けて、全部ダメで...」
ダイキ「20社以上...」
タカシ「『まだ足りないのかな』って思うんです。もっとスキルを磨かないといけないのかな、もっとコーチングを受けた方がいいのかなって。でも、貯金はどんどん減っていく。このまま続けていいのか、それとも...」
タカシさんの声が小さくなっていった。
父親の失業と、刷り込まれた恐怖
ダイキ「お金が減っていくことへの不安は、いつ頃から強く感じるようになりましたか?」
タカシさんは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
タカシ「...たぶん、昔からです。私が就職活動をする少し前に、大きな経済危機があったんです。父親がその時、会社をクビになったんです」
ダイキ「お父さんが...」
タカシ「はい。父は当時50代でした。それまでずっと真面目に働いてきた人だったのに、ある日突然『会社を辞めることになった』って。家族全員、頭が真っ白になりました」
タカシさんは、まるで昨日のことのように鮮明に覚えているかのように話した。
タカシ「ニュースでは、毎日のように『失業者が増えている』『ホームレスが増えている』って報道されてました。私、その時思ったんです。『仕事を失うって、こういうことなんだ』って」
ダイキ「仕事を失うことが、どういうことだと...?」
タカシ「......終わりなんだって思いました。人生が終わるんじゃないかって。父は結局、半年後に別の会社に就職できたんですけど、給料は半分以下になって...母はパートに出るようになったし、私の大学の学費も奨学金に頼ることになりました」
タカシさんは、少し震える声で続けた。
タカシ「だから、私は絶対に『安定』を手放しちゃいけないって思ってたんです。新卒で入った会社は、正直向いてなかったんですけど...辞められなかった。14年間、ずっと我慢して働き続けました」
ダイキ「14年間...」
タカシ「でも結局、メンタルが持たなくて辞めちゃったんです。今思えば、もっと早く辞めてれば良かったのかもしれない。でも、あの時の父の姿が頭にあって...『仕事を失ったら終わりだ』って、ずっと思ってたんです」
ダイキはゆっくりとうなずいた。タカシさんの中に刷り込まれた恐怖の正体が、少しずつ見えてきた。
止まらない比較と、募る焦り
ダイキ「今、転職活動をしている中で、一番しんどいことは何ですか?」
タカシさんは少し考えてから、静かに答えた。
タカシ「...周りと比べちゃうんです」
ダイキ「周りと?」
タカシ「SNSとか見ちゃうんですよね。同世代の人たちが『転職しました!』『年収アップしました!』って投稿してるのを見ると...自分は何やってるんだろうって」
タカシさんは、スマホの画面を見るような仕草をした。
タカシ「前の会社の同期なんか、もう管理職になってるし、家も建ててるし、子どももいる。それに比べて私は...貯金を切り崩して、毎日求人サイトを眺めてるだけで」
ダイキ「それを見ると、どんな気持ちになりますか?」
タカシ「......焦ります。『早く何とかしないと』って。このままだと本当に貯金が尽きちゃう。そうなったら、本当に...」
言葉が途切れた。タカシさんは、手で顔を覆った。
しばらく沈黙が続いた。ダイキは何も言わず、タカシさんのペースを待った。
やがて、タカシさんはゆっくりと手を下ろした。
タカシ「すみません...情けないですよね。40過ぎた大人が、こんなことで...」
ダイキ「情けないとは思いませんよ」
ダイキ「タカシさん、一つ聞いてもいいですか。貯金が尽きたら、どうなると思いますか?」
タカシさんは少し驚いた表情を見せた。
タカシ「え...?」
ダイキ「具体的に、どうなると思いますか?」
タカシ「......それは、その...」
タカシさんは言葉を探すように、視線を泳がせた。
タカシ「...ホームレスになるとか、死ぬとか...そういう...」
ダイキ「本当にそうなると思いますか?」
タカシ「......」
タカシさんは黙り込んだ。その表情には、困惑と、そして何か気づきかけているような雰囲気があった。
不安の正体
ダイキ「タカシさんは、お父さんが失業した時のことを覚えてるんですよね」
タカシ「はい...」
ダイキ「お父さんは、ホームレスになりましたか?」
タカシ「いえ、なってません。半年後に就職できましたし...」
ダイキ「家族は、どうなりましたか?」
タカシ「...みんな、なんとか生活してました。大変でしたけど...死ぬようなことには...」
タカシさんは、ハッとした表情になった。
ダイキ「タカシさんの中には、『仕事を失う=人生の終わり』という強いイメージがあるんですね。でも、実際にお父さんを見てきた経験では、『大変だったけど、何とかなった』という記憶もある」
タカシ「......そうですね」
ダイキ「どちらが現実に近いと思いますか?」
タカシさんは、しばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。
タカシ「...何とかなる、のかもしれないですね」
ダイキ「今の時代、タカシさんが就職活動をしてた時とは違いますよね」
タカシ「はい...人手不足だって言われてますし、実際、書類選考は通るようになってるし...」
ダイキ「貯金が250万円あるということは、まだ1年以上は生活できるということですよね」
タカシ「そうですね...月15万円使っても、16ヶ月は...」
タカシさんは、少しずつ表情が和らいでいくのがわかった。
ダイキ「不安は、未来に起こるかもしれないことへの警告なんです。タカシさんの中の不安は、『このままだとまずいよ』って教えてくれてる」
タカシ「警告...」
ダイキ「ただ、その警告が大きすぎて、現実が見えなくなることもある。タカシさんは今、『絶対に失敗できない』『貯金が尽きたら終わりだ』っていう強い恐怖の中にいる。だから、焦って自己投資にお金を使ってしまったり、夜中に何度も残高を確認してしまったりする」
タカシ「......そうかもしれません」
ダイキ「でも、その不安のおかげで、タカシさんは転職活動を続けてこられたとも言えますよね」
タカシさんは、少し驚いた表情を見せた。
ダイキ「もし不安がなかったら、『まあ、いつか何とかなるでしょ』って何もしないかもしれない。不安があるから、毎日求人を見て、応募書類を書いて、面接の準備をする。不安は、タカシさんを動かすエネルギーにもなってるんです」
タカシ「...そうか。不安が、私を動かしてるのか...」
タカシさんは、初めてそのことに気づいたかのように、ゆっくりとうなずいた。
「失うものを意識する」という力
ダイキ「タカシさん、一つ質問があるんですが」
タカシ「はい」
ダイキ「もし、今の転職活動がうまくいかなかったら、何を失うと思いますか?」
タカシさんは、少し考えてから答えた。
タカシ「...貯金、ですかね。それと、時間。あとは...自信とか、プライドとか...」
ダイキ「それは、本当に失われるものですか?」
タカシ「え...?」
ダイキ「貯金は減るかもしれない。でも、ゼロになるまでには、まだ時間がありますよね。時間は、誰にとっても平等に過ぎていくもの。自信やプライドは...誰かに奪われるものではなくて、タカシさん自身が手放すかどうかを決められるものです」
タカシさんは、じっと考え込んでいた。
ダイキ「逆に、今のまま焦って自己投資を続けたら、何が起こると思いますか?」
タカシ「...貯金が、もっと早く減る」
ダイキ「そうですね。そして?」
タカシ「...もっと焦る。もっと不安になる。で、また何かにお金を使っちゃう...」
タカシさんは、ハッとした表情を見せた。
タカシ「悪循環、ですね...」
ダイキ「今のタカシさんは、『何かをしないといけない』という焦りの中にいる。でも、その『何か』が本当に必要なのか、立ち止まって考える時間がなかった」
タカシ「...そうかもしれません」
ダイキ「心理学の研究で、こんなことがわかっています。『失うものを意識する』と、人は誘惑に負けにくくなるんです」
タカシ「失うものを、意識する...?」
ダイキ「例えば、タカシさんが何か新しい自己投資をしようと思った時。『これをやったら、貯金が10万円減る。そうしたら、生活できる期間が何ヶ月減るだろう?』って具体的に考えてみる」
タカシ「ああ...」
ダイキ「それでも必要だと思えるなら、やればいい。でも、『とりあえずやっておいた方がいいかも』っていう曖昧な理由だったら、やめておく。そうやって、失うものを意識することで、本当に大切なことに集中できるようになるんです」
タカシさんは、深くうなずいた。
タカシ「そうか...私、『とりあえず』でいろいろやってたかもしれません」
小さな目標と、小さな行動
ダイキ「タカシさん、今日からできることを、一つ決めてみませんか?」
タカシ「今日から、ですか」
ダイキ「はい。すぐにできる、小さなことです」
タカシさんは少し考えてから、言った。
タカシ「...夜中に、銀行口座を見ないようにする、とか?」
ダイキ「いいですね。具体的には、どうやって?」
タカシ「スマホを、寝室に持ち込まないようにします」
ダイキ「それ、今日からできますか?」
タカシ「...できます」
ダイキ「もう一つ、お金に関することで決められそうなことはありますか?」
タカシさんは、しばらく考えてから言った。
タカシ「...新しい自己投資をする前に、一週間考える時間を作る」
ダイキ「一週間考えて、それでも必要だと思ったら?」
タカシ「その時は...メリットとデメリットを紙に書き出してから決める」
ダイキ「素晴らしいですね」
タカシさんは、少し照れたように笑った。
ダイキ「不安は、なくならないかもしれません。でも、不安との付き合い方は変えられます」
タカシ「不安との、付き合い方...」
ダイキ「『不安があるから、ちゃんと考えよう』『不安があるから、慎重に決めよう』って。不安を敵にするんじゃなくて、味方にしていく」
タカシさんは、深く息を吸って、吐いた。
タカシ「...少し、楽になった気がします」
ダイキ「今日話したこと、覚えておいてくださいね。貯金が減ることは怖い。でも、タカシさんには時間がある。焦らなくても、ちゃんと考えながら進めば、必ず道は開けます」
タカシ「はい...ありがとうございます」
タカシさんは立ち上がり、ダイキに深々と頭を下げた。その背中は、来た時よりも少しだけ軽くなっているように見えた。
カウンセリングルームを出るタカシさんを見送りながら、ダイキは思った。
経済的な不安は、誰にでも訪れる。でも、その不安に飲み込まれるのではなく、不安を力に変えていくことができる。大切なのは、立ち止まって考えること。そして、小さくてもいいから、自分で決めて、自分で動くこと。
タカシさんの次の一歩が、きっと良い方向につながっていくだろう。